31.どうしてですか?
第30部(前話)補足。
この世界における『皇妃』は妃のうちの一人を意味します。別途皇后職(現在は空位)が存在します。
アーネスト様はギデオン様にカミラをもてなすよう伝えると、わたし一人を連れて執務室に入った。はじめて訪れるアーネスト様の執務室。
けれど、部屋を見回す間もなく、わたしはアーネスト様の両腕に包まれた。
お風呂上がりじゃないせいか、いつもよりも色濃くアーネスト様の香りを感じる。
だけど、さっきのクォンツとのやり取りが尾を引いていて、頭の中はグチャグチャだった。
(どうしよう……)
息もまともにできないまま、必死に考えを巡らせる。
エスメラルダ様とベラ様とお茶をして、既に数日が経つ。
だけどわたしは、アーネスト様にエスメラルダ様やベラ様の元に通うよう、お伝えすることができていなかった。
新しい妃の話も――知っている癖に、なにも言えなかった。
(本当は『いいお話ですね』ってお伝えすべきだったのに)
クォンツの言うとおりだ。わかっているのに……わかっていながら、わたしは自分の感情を、欲を優先した。
だって、言わなければ、アーネスト様はこれからもわたしのところに来てくれる。アーネスト様を独り占めできるから。
妃の癖に。
――契約妃の癖に。
そう罵られて当然だって、本当はわたし自身が思っている。
(アーネスト様は『わたしの耳に入れるべきことはなにもない』って仰っていたけど)
本当のところ、アーネスト様がどう思っているのかはわからない。
(怖い)
本当はずっと、怖くて怖くてたまらなかった。アーネスト様に呆れられたらどうしよう。お前なんて要らないって――契約が済んだら用済みだって、アーネスト様の口からハッキリ言われることが怖くてたまらなかった。
「――いつから知っていたの?」
そのとき、アーネスト様が徐に口を開いた。反応しちゃダメだって思っていても、身体がビクリと大きく跳ねてしまう。わたしの顔を上向けて、アーネスト様が覗き込む。心臓が変な音を立てて鳴り響いた。
「俺が新しい妃を勧められているって……ミーナは知っていたんだろう?」
アーネスト様はすべてをお見通しだった。膝が震えて今にも崩れ落ちそうなわたしを、アーネスト様はしっかりと支えてくれている。
(だけど、もしも真実を話してしまったら)
この腕は二度と、わたしを抱き締めてくれなくなるかもしれない。己の欲を優先する偽物の妃は不要だって、吐き捨てられてしまうかもしれない。
「ミーナ」
そう言ってアーネスト様は、わたしの額にそっと口づけた。胸が震えて、涙がポロリと零れ落ちる。そんなわたしを抱き締めながら、アーネスト様は困ったような表情で笑った。
「大丈夫だから。本当のことを教えて?」
優しい声音。アーネスト様の手のひらが、わたしの背中をポンポンと撫でる。縋りついていられるなにかが欲しくて、わたしはアーネスト様の背に手を伸ばした。
「数日前……エスメラルダ様とベラ様と一緒に、お茶会をしたんです」
「うん、覚えてるよ。楽しかったって言っていたよね。……それで?」
「それで……その時にエスメラルダ様から、アーネスト様に新しいお妃様の話が上がってるって教えていただいて」
アーネスト様は絶えず、わたしの背中を優しく撫でてくれている。情けない。これではまるで幼子だ。
けれど、どうにも制御できなくて、わたしはポロポロと涙を流し続けた。
「本当はわかっていたんです。『よかったですね』って言わなきゃいけないって……だって、皇族は今、アーネスト様お一人しかいなくて。周りからもお世継ぎを求められていて。
そんな中、アーネスト様がエスメラルダ様やベラ様の元にあまり通えないのは、前回の――アーネスト様を殺した犯人が誰か、わからないせいだから。その点、新しいお妃は、前回は後宮にいらっしゃらなかった女性だから、命を狙われる心配もないから。
だからこれは、喜ばしいお話なんだって……頭ではちゃんとわかっていたんです。だけど――」
だけど、どうしても言い出せなかった。だから知らない振りをした。
そうしたらアーネスト様は、わたしの元に来てくれる。少なくとも、新しい妃が入内するまで、アーネスト様を独り占めできるって――そんな愚かなことを考えた。
「ミーナ」
アーネスト様がわたしを呼ぶ。顎をクイっと持ち上げられ、無理やり顔を上げさせられる。涙でぐちゃぐちゃになった醜い顔。見られたくなんかないのに、アーネスト様は両頬を掴んで固定する。
「ミーナ……ちゃんと、俺を見て?」
どこか縋るような声。
怖い。ギュッと瞑った瞳をほんの少しだけ開ける。視界がぼやけてよく見えない。目尻に溜まった涙をアーネスト様が拭った。
「ミーナ」
優しい声音がわたしを呼ぶ。それでもやっぱり、怖いものは怖い。
けれど、意を決し、わたしはアーネスト様を見上げた。
「…………え?」
アーネスト様は笑っていた。とても――とても嬉しそうに。今にも泣きだしそうな、そんな表情にも見える。まるで、それまでの不安や恐怖が溶け出すかのように、涙が数筋流れ落ちた。
「呆れて……いないんですか?」
「これがそんな表情に見える?」
質問を質問で返される。フルフルと首を横に振れば、アーネスト様はわたしの頬にゆっくりと口づけた。
心が震える。どうしようもない程、熱くなる。
(どうして?)
こんな愚かな想いを吐露したというのに、アーネスト様は今、嬉しそうに笑っている。わたしは妃ですらないのに――その理由を想像して、胸が疼く。自分に都合のいいように解釈をして、期待してしまう。
「ミーナ……分かっていて言い出せなかったのは、どうして?」
アーネスト様はそう言ってわたしの瞳を覗き込んだ。
『ミーナは俺のことが好きだよね?』
言葉は全然違うのに、アーネスト様の姿は、愛を乞われたあの夜会の夜と重なって見える。
あの時のわたしは、ただひたすらに苦しかった。アーネスト様がわたしを想ってくださっているんじゃないかって想像して。――だけど、アーネスト様がわたしの想いに応えてくれる筈がないのにって、そう思っていたから。
だけど――
「クォンツが言うとおりなんです」
ゆっくりと、噛みしめるように言葉にする。アーネスト様はわたしから目を逸らさない。わたしも真っ直ぐにアーネスト様のことを見つめた。
「わたしは――アーネスト様を独り占めしたかったんです。アーネスト様が他の妃の所に通うのを見たくなかった。契約が終わってからもずっと、わたしを側に置いてほしかったんです。だから――」
「俺がミーナを手放すわけないだろう?」
そう言ってアーネスト様は、わたしのことを勢いよく抱き上げる。心臓がドキドキと鳴り響いた。地に足がついていないせいか、頭の中までフワフワと舞い上がってしまっている。
「絶対、なにがあっても手放さない。ミーナが泣いて嫌がっても、俺の側に置くつもりだった。俺はミーナじゃないとダメだから」
アーネスト様の声が耳元で響く。
(顔が見たい)
アーネスト様の頬にそっと手を伸ばす。彼がいつも『俺を見て』って言う理由が、なぜだかわかった気がした。
「それは……どうしてですか?」
いつもアーネスト様がわたしに投げ掛ける質問を、今度はわたしが彼にする。
アーネスト様がわたしを手放せない理由は?
新しい妃を断った理由、
わたしが『アーネスト様を独占したいと思うこと』を喜ぶ理由、
アーネスト様がわたしの心を求めるその理由は――
「そんなの、答えは一つしかないだろう?」
そう言ってアーネスト様は、こつんと額をくっつけた。視線が交わり吐息が重なる。わたしと同じぐらい熱くなったアーネスト様の手のひらが、わたしの頬をそっと撫でる。
「好きだよ、ミーナ。ずっとずっと、ミーナのことが好きだった」
涙が零れ落ちたその瞬間、わたしたちの唇が重なった。
今にも止まってしまいそうな程、心臓が大きく鼓動を刻み続ける。だけど、それはわたしだけじゃない。アーネスト様も同じだった。
互いの気持ちを探り合うみたいに、たどたどしい口付けを交わして、わたし達はそっと微笑み合う。
ずっとずっと、一方通行だと思っていた。だけど本当は違ってた。わたしがアーネスト様の想いを真正面から受け止められる日が来るまで、アーネスト様はずっとずっと、待っていてくれたんだと思う。
「――それで、俺の子はミーナが産んでくれるってことでいいんだよね?」
「…………へっ?」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。アーネスト様は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
それからアーネスト様は、わたしを抱えたまま、ソファに向かって歩きはじめた。アーネスト様はどうしても、わたしのことをドキドキさせないと気が済まないらしい。
(なんて答えるのが正解かわかりません!)
そう答えたいのに、喉のあたりが焼け付くみたいに熱く、声が出ない。今、わたしの顔はきっと、形容しがたい程に真っ赤に染まっているに違いない。
「ははっ」
すると次の瞬間、アーネスト様は声を上げて笑いはじめた。抱き抱えられているせいで、わたしの体まで小刻みに震える。
(相変わらずひどいっ)
口をへの字に曲げると、堪えきれなくなったのか、アーネスト様はお腹を抱えて笑いだす。目尻には涙まで浮かんでいた。
「アッ……アーネスト様!」
「ごめんごめん。ミーナがあまりにも可愛いから、つい」
アーネスト様はそう言って、わたしの頬にキスをする。柔らかくて温かい。たった一日で、アーネスト様との距離がぐっと近づいたような気がした。
(アーネスト様はわたしをからかいたかったんだろうけど)
本当はきっと、それだけが理由ではないのだと思う。そう思うと、心臓がまたバクバクと鳴り響いた。
大きく深呼吸をしてから、わたしはゴクリと唾を呑み込む。
「あ、あの……」
「ん?」
「頑張るので、お手柔らかに……お願いできますでしょうか?」
なにをとは言わず、わたしはアーネスト様のことをじっと見つめる。
すると、アーネスト様は顔を真っ赤に染め、口元を手のひらで隠した。眉間に皺を寄せ、困ったような表情を浮かべるアーネスト様は、なんだかとっても可愛くて、たまらなく愛しい。
「ミーナ……それ、反則」
アーネスト様がわたしをきつく抱き締める。
それから悩まし気なため息をはいたアーネスト様を見て、今度はわたしが声を上げて笑うのだった。




