30.私利私欲
第30部(本話)補足。
この世界における『皇妃』は妃のうちの一人を意味します。別途皇后職(現在は空位)が存在します。
ロキを見送った後、先程とは別の使者がわたしを待っていた。
「陛下から、妃殿下へのお手紙をお預かりしております」
何だろうと思いつつ、促されるままに中身を読む。
手紙には『この後一緒にお茶をしよう』と、そう書かれてあった。
「陛下の執務室へご案内いたします」
予め手紙の内容を聞き及んでいたのだろう、使者が恭しく頭を下げる。またとない機会だし、喜んで付き従った。
とはいえ、アーネスト様の執務室まで大勢で押しかけるわけにはいかない。侍女はカミラだけを残して、先に帰すことになった。
(侍女たちがわたしから離れたあと、羽目を外さないといいんだけど)
娯楽の少ない後宮と比べ、内廷は誘惑――主に男性関係――が多い。
後宮のものは、宮女に至るまですべて、アーネスト様のために存在しているので、その辺を弁えた行動を取ってくれると信じたい。
「失礼。皇妃ミーナ様でいらっしゃいますね?」
そんなことを考えていたら、一人の男性から呼び止められた。先導の文官や騎士たちが声をかけるのを止めなかったあたり、彼等よりもずっと位が高いのだろう。わたしはゆっくりと足を止めて、男性のことを見上げる。
「いかにも――こちらの女性は皇妃ミーナ様でいらっしゃいますが、あなたは?」
わたしのかわりにカミラがそう尋ねた。
「あぁ……急にお声掛けして申し訳ございません。私、クォンツと申します。陛下のもとで、外交の長を務めております。以後、お見知りおきを」
男性はそう言って、ニッと目を細めた。
クォンツは年の頃四十ぐらいの、でっぷりしたお腹が特徴的な男性だった。一見人懐っこい笑顔に見えるが、瞳の奥にほの黒い感情が見え隠れしている。
(外交の長というからには、先の夜会にも参加していたんだろうなぁ)
だけど、彼の顔に見覚えはない。クォンツなんて特徴的な名前、聞いた覚えがなかった。
恐らく彼はわたしに興味がなかったか、挨拶する価値もないと判断したのだと思う。
(そんな人が、わたしに何の用だろう?)
感情をできるだけ表に出さないよう注意しつつ、一歩前へと歩み出る。カミラは小さくお辞儀をしてから、わたしの後ろへと下がった。
「それで、ご用向きは? わたしは陛下とのお約束がございますので」
「まぁまぁ、そう仰らず。なぁに、そんなに長くは取らせませんよ。それにこれは、陛下にも大きく関わることなのです」
押しの強い物言いをし、クォンツはニコニコと揉み手をする。なんだかすごく嫌な感じだ。
けれど、相手はアーネスト様の重臣。会話を拒否できる相手でもないから、仕方なしに続きを促す。
すると、クォンツは徐に口を開いた。
「妃殿下は陛下から蒼玉宮の――新しい妃について、聞き及んでいらっしゃいますか?」
その瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねた。クォンツはニヤリと微笑み、そっとわたしの顔を覗き込んでくる。
「いやあ、実は私にはちょうど、年頃の娘がおりましてね? おっとりとした――そう、丁度ミーナ様のような雰囲気の娘なのですよ。きっと陛下もお気に召すと思い、新しい妃にと頻りにお薦めしているのです。
ですが、どういうわけか、中々首を縦に振ってくださらない。恐らくですが、既に入内している妃方を慮っていらっしゃるのでしょうねぇ……陛下はお優しい方ですから。まだまだお若いですし、きっと本音では新しい妃を迎えたいと思っておいででしょうに――いやいや、お気の毒なことです」
一気にそう捲し立て、クォンツは大袈裟にため息をついた。
「そこでです。ここは妃殿下から一つ、陛下へご進言いただけないでしょうか? 私の娘を新しい妃に迎えるべきだ、と」
クォンツはそう言って、満面の笑みを浮かべる。
(この人の娘を、新しい妃に?)
膝が震える。平静を装いつつ、わたしは静かに目を伏せた。
「寵妃であるミーナ様が頼めば、陛下もきっと、考えをお変えになるはずです。私の娘を妃に迎えることは、私という後ろ盾を得ること。即位間もなく、不安の渦中にいらっしゃるであろう陛下にとって、これ程力強いことはございません。
それに……ミーナ様とて今の状況は心苦しいでしょう? いや、分かりますよ。世継ぎを期待されることは、それはそれは重いプレッシャーでございましょう。入内から半年以上も身籠っていらっしゃいませんし……ねぇ?」
「いえ……わたしは、そんな」
答えつつ、唇をキュッと引き結ぶ。
そもそもわたしは契約妃であって、アーネスト様との間に子ができることはない。だから、クォンツの言うようなプレッシャーなど感じようがないのだ。だけど――。
「なんと! 世継ぎのプレッシャーを感じていらっしゃらないとは! 妃殿下は我が国の未来を軽んじていらっしゃるのでしょうか?」
「いいえ。そのようなつもりはございません」
拳を握り、クォンツを真っ直ぐに見つめる。
(悔しい)
自分が契約妃であることが。わたしがアーネスト様の子を産みますと言えないことが――心から苦しかった。
「まさかとは思いますが、妃ともあろう御方が『陛下を独り占めしたい』などと愚かな想いを抱いてはいらっしゃいませんよね?」
その時、まるでわたしの心情を読みとったかのように、クォンツは邪悪な笑みを浮かべた。
「いやぁ、私としたことが失敬失敬! そんなこと、ある筈がございませんよねぇ? 皇族が陛下一人というこの状況下で、妃の数を減らすメリットなどなに一つございませんのに! 妃が私利私欲を優先させるなんて、そんな愚かなこと……」
「私利私欲に塗れているのはおまえだろう」
その瞬間、涙が零れ落ちそうになった。大きな手のひらが、わたしのことをギュッと抱き寄せる。心まで、すべてを包み込まれるような心地がして、わたしはゆっくりと振り返った。
「へっ、陛下……」
「いい度胸だな、クォンツ。俺との約束があると知りながら、ミーナを呼び止めるとは……」
アーネスト様はハッキリと、不快感を露にしている。クォンツは見るからに青ざめ、ダラダラと油汗をかいていた。
二人のことを交互に眺めつつ、わたしはそっと胸を押さえる。動悸が中々収まらない。アーネスト様はわたしを庇うようにして、自分の背後へと隠した。
「違うのです、陛下! 私は国の未来を思えばこそ、今、妃殿下にお話をせねばと思いまして――」
「おまえの無駄話なら、俺が既に聞いた。ミーナの耳に入れるべきことはなにもない」
取り付く島もない冷たい雰囲気。アーネスト様は踵を返し、これ以上クォンツの話を聞く気はないと示した。
「しっ、しかしながら陛下! このままでは皇族が滅んでしまう可能性も十分にございます! 皇族が途絶えることは、国が滅びることと同じ! 私は陛下のためを思って……!」
「俺の即位から一年も経たぬというのに、そのような――まるで貴様自身が皇族の滅亡を望んでいるような口ぶりだな?」
その瞬間、騎士たちが静かにクォンツを取り囲んだ。アーネスト様の覇気が、ビリビリと体を震わせる。クォンツは首を大きく横に振りながら、両拳をギュッと握った。
「ちっ、ちが……!」
「違うなら、二度とそのような戯言を口にするな」
アーネスト様はそう言って、わたしの手を強く引く。胸がザワザワと音を立て、落ち着かなかった。




