23.約束
声が聞こえる。可愛らしい子どもの声――男の子の声だ。
『ここが俺の秘密基地だよ!』
太陽みたいな明るい笑顔。顔はよく見えないけれど、繋いだ手のひらがとても温かい。
『ミーナだけに特別に見せてあげるね』
男の子が指さした先には、よく知っている建物がある。
金剛宮だ。
『ねえ、ミーナ。そんな顔しないで? 絶対また会えるから』
男の子はそう言って笑った。おぼろげだった輪郭がハッキリと見えはじめる。とても温かくて優しい笑顔が、はっきりと。
『アーネスト様』
そうだ――この男の子はアーネスト様だ。
涙がポロポロと零れ落ちる。アーネスト様はわたしの涙をそっと拭った。
『泣かないで。大きくなったら俺がミーナを迎えに行くよ』
『迎えに?』
『うん。だから、大きくなったら、ミーナが俺のお嫁さんになってね』
アーネスト様はそう言って、少しだけ頬を赤く染めた。わたしはというと、そっと首を横に傾げる。
『お嫁さん? アーネスト様、お嫁さんってなに?』
『え? うーーん……お嫁さんは、美味しいご飯をたくさん食べられるし、可愛いドレスをたくさん着られるんだ。あと、お嫁さんになったら、俺とずっと一緒にいられるんだよ』
『そうなの?』
その瞬間、わたしの涙がピタリと止まる。ずっと一緒――アーネスト様のその言葉が、とても嬉しい。
『うん。だから、離れている間もちゃんと頑張るんだよ?』
『うん! わたし、頑張る』
これは夢? それともわたしの記憶の一部なのかな?
(夢だろうな)
アーネスト様がわたしをお嫁さんにしてくれるわけがない。そんなの、おとぎ話ですら聞かないような、馬鹿げた話だ。
だけど、もしもこれが夢なら、少しぐらい素直になってもいいだろうか? アーネスト様に『好き』って伝えることも、アーネスト様の心が欲しいと思うことも、夢なら全部わたしの自由だ。このまま覚めなきゃ、それはわたしにとっての現実になる。
『好きだよ、ミーナ。約束、絶対に忘れないでね』
ああ、なんて幸せな夢なんだろう。このまま、ずっとここにいられたらいいのに。
アーネスト様に好きって言って貰えたらいいのに――。
「ミーナ!」
ドクンと大きく体が跳ね、一気に体が重たくなる。夢の中と同じように、誰かがわたしの手を握っている。夢と違っているのは、その手がとても大きいってことだ。
「ミーナ!」
誰かが――アーネスト様がわたしを呼んでいる。手の甲に吹きかかる吐息が温かくて擽ったい。柔らかな感触に胸が疼いた。
(――体が動かない)
自分が自分じゃなくなったみたいだった。体中、どこもかしこも怠くて熱くてたまらない。喉が乾いてカラカラだった。瞼が重くて目が開けられない。顔が浮腫んでパンパンに腫れているのがわかる。
(だけど、生きてる?)
一度目の人生で処刑され、死んだときには、痛みもなにもなかったからよくわからない。
だけど多分、わたしはまだ生きている。アーネスト様の契約妃として生きた二度目の世界線のまま、なんとか生き残れたらしい。
「アーネスト様……」
そう言ったつもりだけど、声は殆ど出なかった。虫の息程にか細い声だ。
「ミーナ!」
だけど、それでもアーネスト様は気づいてくれた。腫れぼったい目の隙間から、アーネスト様の顔が微かに見える。
俄かに周囲がざわついたのがわかった。医者を呼ぶ声、侍女たちがバタバタと移動する音、色んな音が聞こえてくる。
だけど、どんなに騒がしい中でも、アーネスト様の声だけが真っ直ぐわたしの耳に届いた。アーネスト様は今にも消え入りそうな声で、何度も何度もわたしを呼ぶ。
「ごめんなさい、アーネスト様」
そう言ったつもりだけれど、果たしてアーネスト様に聞こえているのかはわからない。
アーネスト様はわたしの胸に顔を埋めていた。温かい。体が微かに震えている――わたしの気のせいかもしれないけれど。
「心配掛けて、ごめんなさい」
アーネスト様は優しい人だから。きっと倒れたのがわたしじゃなくても、こんな風に心配してくださるんだと思う。
だけど、アーネスト様の心は今、間違いなくわたしに向けて注がれている。
「生きた心地がしなかった」
アーネスト様はそう口にした。ポツリと、他の誰にも聞こえないぐらいの声で、そう呟く。
「このままミーナが目を覚まさないんじゃないかって、すごく怖かった」
「そんなことじゃいけませんよ」
わたしの声がアーネスト様に届いているのかはわからない。それでも、わたしは必死に言葉を紡いだ。
「だってわたしは、アーネスト様をお守りするために死に戻って来たんですから」
だから今後、仮にわたしが命を落としたとしても、アーネスト様は悲しんじゃいけない。
わたしはただの契約妃。アーネスト様を守る駒の一つ。
それがわたしの存在意義であり、アーネスト様の側にいてもいい理由なんだから。
「違うよ」
アーネスト様が言う。アーネスト様は顔を上げて、わたしの手をギュッと握り、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「ミーナは俺と幸せになるために、ここに戻って来たんだ」
そう言ってアーネスト様は、わたしの額にそっと口づけた。心の中に温かななにかが優しく降り積もっていく。わたしの瞳から涙がそっとこぼれ落ちた。
「今度は俺がミーナを守る。絶対に死なせはしない。生き抜いて、今度こそちゃんと約束を守るから」
力強いアーネスト様の声に、心が大きく震える。
(わたしはもう、十分に幸せなのに)
あの日、アーネスト様と再会できただけでわたしは幸せだった。一生分の幸せを使い果たしたって、そう思った。
その上、二度目の人生では、アーネスト様から契約妃というお役目をいただけた。アーネスト様の役に立つことができて、こんなにもお側にいられて――十分すぎる。あり得ないくらい幸せだ。
それなのに。
(わたし、『求めて』もいいのかな)
ここ――アーネスト様の側にい続けることを。契約以外の別のなにかを。
そう尋ねるだけの勇気を、今はまだ持ち合わせていない。けれど、縋るようにしてわたしを抱き締めるアーネスト様を見つめながら、わたしは涙を流し続けるのだった。




