20.わだかまり
(のどかだなぁ……)
あの夜会の日から一カ月、それまでの慌ただしさが嘘のように、わたしはのんびりとした日々を過ごしていた。
もちろん、読書や書き取りなんかの勉強は続けているけど、根を詰めてダンスの練習をする必要はなくなったし。しつこかった貴族たちからの売り込みも、断り続けている内に殆ど来なくなった。
アーネスト様は相変わらず、多忙な日々を過ごしている。顔を合わせたのは、あの夜会の夜が最後だ。他の宮殿に通っているという話も聞いていない。睡眠時間が取れているのか心配になる程の忙しさだ。
そんな中でも、アーネスト様は毎日わたしに手紙を送ってくださっていた。だけど、ご自分のことは殆ど書いてくれないので、実際の所、アーネスト様がどんな風に過ごしているのかはよくわからない。
『ちゃんと眠ってますか?』って書いても『元気だから心配しないで』みたいに返されてしまうのだ。
(本当はもっと、アーネスト様に聞いてみたいことがあるんだけど――)
便箋を前に、わたしは小さくため息を吐く。
『あの夜――どうしてあんなことを尋ねたんですか?』
目を瞑ると、アーネスト様の真剣な眼差しや息遣い、腕の温もりが鮮明に蘇ってくる。
あの夜、アーネスト様はわたしに『俺のことが好き?』と、何度も尋ねてきた。わたしにアーネスト様の名前を呼ぶように言って。アーネスト様もわたしの名前を何度も呼んだ。
あの時のやり取りを思い出すだけで、鼓動が馬鹿みたいに早くなるし、切なくて苦しくて堪らなくなる。
(あんなの、あんまりだ)
報われないとわかっているのに、あんな風に気持ちを告白させられたんだもの。そんなの、辛いに決まっている。
だけど、後から思い返すと羞恥心で居た堪れなくなるし、気づきたくなかった現実を容赦なくわたしに突きつけてくる。
(半年後……アーネスト様を守り切れたら、わたしはどうなるんだろう?)
わたしの使命はアーネスト様を守ること。それから、まだ子を成す気のないアーネスト様の隠れ蓑になることだ。
けれど、それら二つの使命は、半年後には必要なくなる。
皇族がアーネスト様しか存在しないのは純然たる事実だし、アーネスト様自身が、いつまでもこのままでいいとは思っていないだろうから。
(辛いだろうなぁ……アーネスト様に子どもができるのを見るのは)
それは予感ではなく確信だった。
だから半年後、アーネスト様を守りきれたら、わたしは後宮を出るべきなんだと思う。
だけど、元妃が行ける場所なんて思いつかないし、本音を言えば宮女に戻って、遠くからアーネスト様を支えたいなぁなんて思っているのだけど。
「あら……まだ書き終えていらっしゃらないのですね」
ふと、背後からそんな声が聞こえてきた。侍女のカミラだ。
インクが滲んで使い物にならなくなった便箋を見ながら、ほんのりと肩を竦めている。
「ごっ……ごめんなさい。考え事をしていたものだから」
新しい紙を用意するよう伝えると、カミラはすぐに踵を返す。カミラにバレないよう、わたしはこっそりとため息をついた。
***
「まぁ……ミーナ様のところにも、陛下はいらっしゃっていないのですね」
その翌日、わたしは久しぶりに翠玉宮へお呼ばれしていた。
エスメラルダ様は相変わらずお美しく、穏やかな笑みを浮かべている。
「と、仰いますと、アーネスト様はエスメラルダ様のところにも来ていらっしゃらないのですか?」
「ええ。陛下は元々、私の宮殿にはご機嫌伺にいらっしゃっているようなものでしたし、夜会以降は一度もお見えになっていませんわ」
悲しむでも寂し気にするでもなく、エスメラルダ様は飄々とした様子でそうこたえた。
元々、即位三ヶ月を経過したあたりから、アーネスト様は殆ど後宮に顔を出さなくなっていた。一ヶ月顔を合わせないぐらいは普通のこと。そう考えると、わたしが過敏になっているのは、あの夜の出来事のせいだって思えなくもないんだけど。
「あの、ミーナ様」
「なんでしょう?」
「夜会以降、ソフィア様から連絡がございましたか?」
先程までとは打って変わり、エスメラルダ様はひどく言いづらい、という様子でそう口にした。
……どうしてだろう? なんとなくだけど、本当に話したいことは別にあるかのような、そんな印象を受ける。
「いいえ、なにも」
手紙も届いていないし、会ってもいない。元々、わたしから連絡を取ることは皆無なので、実に平和だ。
「そうでしたか。よかった……逆恨みをしたあの方が、なにかしでかすのではないかと心配していたものですから」
エスメラルダ様はそう言って、ほっとため息をついた。
あの夜――アーネスト様と二人で話をしたあと、わたしは会場に戻ることが許されなかった。『ミーナはもう宮殿に戻るように』って、アーネスト様から指示をされ、護衛騎士の一人に金剛宮へと送り届けられた。だから、ソフィア様がどんな様子だったのか、実際のところは知らない。
けれど、人伝に聞いた話によれば、妃の中でソフィア様だけがアーネスト様と踊ることができなかったらしい。ソフィア様の父親である宰相は面目丸つぶれ。大層な怒り具合だったとか。
「お気遣いありがとうございます、エスメラルダ様」
「いいえ、当然のことですわ。ソフィア様の待遇は完全に自業自得ですし、あの方も少しは反省してくださったらいいのだけれど」
エスメラルダ様はそう言って、少しだけ表情を曇らせる。
「そういえば、今日はコルウス様はどうなさったんですか? いつも一緒にいらっしゃるのに」
そう口にした瞬間、エスメラルダ様はビクッと身体を震わせた。瞳にエスメラルダ様らしくない、動揺の色が見え隠れする。
「今日は久々の女子会ですから――コルウスはいない方がいいだろうと思ったのです。楽しくお喋りをしている最中に、コルウスのぶすっとした表情を見ると興醒めでしょう?」
「へ? は……はぁ」
なんとなく違和感を覚えつつ、わたしはそっと首を傾げた。
(別にわたしは気にしないんだけどなぁ)
この間のダンスのお礼もできずじまいだったし、コルウス様が無愛想なのはいつものことだ。
けれど、エスメラルダ様はこれ以上コルウス様の話題に触れられたくないらしい。すぐに別の話題を切り出された。なぜだか普段よりも饒舌な気がする。まるで、わたしがコルウス様を気にするのが嫌みたいに――。
(なんて……そんな風に思うのはきっと、わたしの気のせいよね?)
小さなわだかまりを残しつつ、わたしはそう、結論付けたのだった。




