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WEST東京1999 ~ドクターが呑まれた日(第一部スピンオフ01)

以前、第一部の途中で公開していましたが、邪魔なので話の順序を整理しました。

 

 18歳の高校三年生、永益安朗ながますやすろうは東京大学理工学部進学を目指す受験生だった。


 晴れた7月の蒸し暑い朝、安朗は代々木の予備校へ通うために自分の住む国分寺駅から中央線に乗っていた。

 通勤ラッシュの時間帯を過ぎて、車内は人影もまばらになっている。


 安朗は気に入っている白いジーンズと白い半袖シャツにいつもの銀縁眼鏡で、通学にも使っている愛用のショルダーバッグにはノートや教科書などの学習道具がぎっしりと詰まっている。


 安朗が受ける授業は午後からなのだが、人気講師の講義を漏らさず聞くためには人より先に行って、なるべく教室の前方の席を確保したかった。


 特に今日は加下かしたという中年講師の数学と物理の授業がある。


 この40年配の背が高く温和な教師の授業はわかりやすく、しかもよく脱線して大学院の研究室で学んでいた素粒子理論の話などをするのが楽しみで、安朗は好んで通っていた。


 加下かした先生は、自分は学生結婚をして子供が生まれ、生活のために研究者への道を諦めてしまった。

 しかし実験物理学による実証研究は近い将来ノーベル賞を狙えるような物理学界の金字塔となるだろうと事あるごとに力説し、若者に学ぶことの尊さを説いていた。


 普段は穏やかな加下先生だが、専門分野の話をすると熱くなり、トレードマークの長髪が口に入るのも構わず髪を噛んで熱弁を振るうのが実に印象的だった。


 安朗も、将来は実験物理学の世界に進みたいと憧れている。



 そんなことをぼんやり考えていると、三鷹駅の手前で電車は激しい揺れと共に緊急停止し、それきり動かなかくなった。


 車内の照明も消え冷房も止まり、車内放送もないまま十分経っても復旧の気配すらない。


 ただ、小さな余震のような揺れが連続して何度も車両を揺らすのが不安だった。


 安朗は携帯電話も持たないので、何が起きているのか、まるでわからない。

 だが他の乗客が必死で携帯を操作する姿に、ただ事ではない気配を察した。


 あまりに暑いので、窓を大きく開けて高架の上から街を見下ろした。

 駅と駅の間で高い建物も少ない住宅街は、空き地やビニールハウスの並ぶ農地が点在する、のどかな景色だ。


 その中の細い道を、車が何台も連なり猛スピードで西へ走って行くのが見えた。

 自転車に乗った家族連れや、大きな風呂敷包みを背負った爺さんも走っている。


 まるで子供の頃に劇場で見た東映の怪獣映画のようだと思ったその時、車内に大きな声が響いた。


「新宿が壊滅した! 正体不明の巨大生物に襲われているらしい!」


 その時も、安朗は何かテレビか映画のロケでもやっているのだろう、程度にしか思わなかった。仕方がなく鞄から予備校の教科書を出して読み始めた。


 だがそんな心穏やかな時間は長く続かない。


 電車の先頭車両の方から、人の悲鳴と何かを叩くような鈍い音が聞こえる。

 そして、言葉にならない喚き声や泣き声を上げた大勢の乗客が、隣の車両から必死の形相で逃げて来る。


 安朗と同じ車両にいた乗客も押し出されるようにその集団に飲み込まれて、電車の後方へと向かった。


 安朗も仕方なく、一緒に走る。


 目の前で転んだ子供を助け起こし、後ろで悲鳴を上げる女性の手を取り自分の前に送りながら、冷静に考える。


 何があったのかは見当がつかないが、何年か前の地下鉄サリン事件などを思い出せば、逃げない理由はない。


 だが安朗は一体何のために自分が走っているのかを知りたくて、速度を緩めて人の流れの最後方へと近付いてみた。


 最後方になり、やっと理解できた。


 自分たちを追っているのは、車両の断面いっぱいに広がったピンク色の肉塊だった。


 肉塊は粘液を滴らせながら蠢く肉のトンネルのように、迫り来る。


 地下にトンネルを掘るシールドマシンという機械を思い出したが、だいぶ違う。

 これはただの釣り餌に使う、ワームのようなものだった。


 前面に開いた小さな尖った牙の並ぶ丸い口に飲み込まれないように、人々は必死で逃げているのだ。


 このままではすぐに前が詰まり、肉塊に追い付かれると感じた安朗は、ドアの横にある非常用コックを引いて手動で左のドアを開いた。


 思ったよりも電車の床は高く地上は遠いが、躊躇している時間はない。

 安朗が飛び降りると同時に、ワームの口はそのまま車両を抜けて乗客たちを追って行った。


 一人逃れた安朗は、外から車両を見上げる。


 自分が飛び降りたドアの面には、延々と桃色の肉塊が右から左へ流れている。

 ワームの体はとてつもなく、長かった。


 そこから見る限り、ワームの体は通過した全ての車両を覆っている。

 ミノムシのように、中央線通勤電車の外皮を被った軟体生物が殻の中を動いている。


 そして、更にその前方、線路の向かう先の空には、真っ黒な煙が衝立のように広く濃く昇って空を覆っていた。


 あそこが、新宿なのだろうか?


 だが、煙が上っているのはそこだけではない。


 高架の上から周囲を見渡せば、そこいら中至る所に炎や煙が上がっていた。

 知らないうちに、巨大地震に襲われていたのだろうか?


 その時の安朗は、この線路沿いに新宿方面へ行くべきか、皆が逃げる西方へ行くべきか、悩んでいた。


 ワームに追われて乗客は電車の後方、西側へ逃げ去った。

 地上を逃げる人も車も、西を目指している。


 だが見る限りワームの本体は、車両の前方からずっと延びている。

 そこに何があるのか、見てみたいと思った。


 それに、駅を目指すのなら電車はもうすぐ三鷹駅に到着する頃合いだった。

 線路を歩いて前方へ向かえば、ワームの後端を拝めるかもしれない。


 それには、あの凶悪な口が全ての乗客を飲み込んで戻って来る前に、行かねばならないだろう。


 そう考えて、安朗は高架上の線路を一人で小走りに新宿方面へ向かった。



 この時の一歩は安朗にとっては小さな一歩であったが、人類にとっては後に天才発明家として世界を救うドクター永益誕生への偉大なる一歩であった。


 純朴な青年がノーベル物理学賞の栄光を諦め、変態外科医と蔑まれる茨の道を歩み始めた瞬間でもある。



 期待に背いて、電車の運転席には大きな穴があるだけで、ワームの本体は二両目へと移動している。

 ただ長いだけのミミズのような存在らしい。


 そこから更に汗を流して一生懸命に足場の悪い線路を走っていると、やがて前方に三鷹駅が見えた。


 駅の周辺は不思議と静まり返っていた。


 何かおかしい。


 周辺の街中はあちこちで火の手が上がり、逃げ惑う人々の姿でいっぱいになっているのに。

 線路上からホームへよじ登り、駅全体を眺める。



 ここも停電により、全ての表示ランプも信号も消えている。

 駅に停車している電車はいないし、駅員も乗客の姿もない。


 ゆっくりホームを歩くと、足元やベンチの上には様々なものが落ちていた。

 それはほんの少し前まで、ここに大勢の人がいた痕跡だ。


 帽子や日傘、鞄や携帯電話、薄い上着や片方だけの靴、散らばったスナック菓子やペットボトル、そして無人のまま転倒したベビーカー。


 どうして人だけがいないのだろう。

 不思議に思いながら、ふと上を見上げる。


 駅舎の屋根の鉄骨の上からこぼれるように、黒く濡れた体を丸めて、それはいた。

 黒光りする巨大な何かが、ゆっくりと動いている。


 鉄骨が今にも折れ曲がりそうな重量感を持つその巨大な何かの塊が、少しずつゆっくりとほどけて、何かの形を取り始めた。


 それが何物であるかを知りたくて、安朗はその場でぽかんと口を開けたまま、見上げている。不思議とあのワームのような、生理的な恐怖や不快感は全く感じない。


 そして、それが奥行きを持って大きく広がり存在感を増しながら、近付いてくる。

 それは胴回りの直径が3メートルを超える、巨大な蛇だった。

 長さは見当もつかない。


 出鱈目に丸めて木の枝に引っ掛けた黒い革ジャンのような塊だが、その重量を支えるにはあまりにも駅舎の鉄骨は細すぎる。


 だが、鉄が軋む音もさせずに、するすると蛇は動いている。


 物理法則を無視したようなその動きに、安朗は見惚れた。


 不思議な感動と幸福感に包まれたまま、安朗は目にも止まらぬ速度で迫る巨大な黒蛇の赤い口に呑まれた。


 その瞬間、何が起きたのかすら、安朗にはわからなかった。



 井之頭公園付近のクレーターにできた池の底から黒い大蛇が発見されるのには、2015年1月まで待たねばならない。


 その間人類は、ドクター永益という天才を欠いたまま復興を余儀なくされるのである。

 長い冬の時代の始まりであった。




 永益安朗自伝「天災と天才は紙一重」より転載

 ……って、何ですかこれは?





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