負荷
「おいトミー。いや、富岡清十郎。おまえは一体何者だ?」
山野先生は俺の肩を抱くと突然そう言った。
「ナニヲイッテイルノカ、ワカラナイヨ」
「とぼけても無駄だ。おまえは記憶喪失なんかじゃないんだろ?」
咄嗟に出た片言の日本語で逃げ切れると思ったわけではないが、それ以上話すつもりもなかった。この女は色々と危険だ。
「そういや、トミー。あんた鈴ちゃんと玲ちゃんがアンドロイドだと知ったらしいな」
俺が頑なに口をつぐんでいると、また別の切り口から攻めて来る。この人はカウンセラーのくせに、人の嫌がることを平気で言える。もう少しデリカシーを身に着けてほしい。
「今朝知りました。ドクターの最高傑作だって」
「で、どう思った?」
「毎度おなじみ、信じられない気持ちですね」
ここで目覚めて以来、そればかりだ。
「玲ちゃんの胸に抱かれて泣いた感想は?」
「あの柔らかさは、本物でした……」
「ほう、本物の柔らかさを知っていると?」
「まぁ、違いのわかる男ですから」
山野さんは俺の肩を抱く腕に力を入れて、自分の胸を強く押し付ける。この人は中学生みたいな姿をしているくせに、胸だけは大きい。
「どうだ、違いが判るか?」
「そりゃぁ、もう」
「嘘だな」
「はいはい、嘘ですよ!」
「正直でよろしい。今日から私を澪ちゃんと呼んでいいぞ」
「では澪ちゃん、どうして美鈴さんが燃えた時にすぐ言ってくれなかったんですか?」
「それを聞くか?」
ああ。まさか。またこれなのか?
「「何故なら、その方が面白いからだ!」」
俺たちは声を揃えて言った。
この世界は確かにイカレている。
「トミーもだいぶここに慣れてきたようだな。そろそろもう一段階先へ進むか」
「えっ、大人の階段を登らせてくれると?」
「それは美鈴に頼め」
そんなことを言われると、本気で悩んでしまう。
山野先生は、1センチ幅くらいの黒いリストバンドを俺の左手首にはめた。
「これは標準的な端末装置だ。ドクターのような変態を除けば、ほとんどの人間は体内に埋めたインプラントを使い、この端末で通信する。昨日はUSMのヘッドギアを使ったな。基本的にはそれと同じことが、これでできる。民生品だが特に制限はかけていないので、一般市民が取得可能な情報には全てアクセス可能だ。もちろん、無料のサービスだけだぞ。先ずはチュートリアルから始めるといい。メニュー、と言ってみろ」
俺は昨日視線の中に現れた映像をイメージしながら、メニュー、と呟いた。
視界の左上に、メニューの文字が現れた。続いてチュートリアル、と言ってみる。開始しますか、の声に対して、左上に出たYESの文字に手を伸ばしてクリックすると、チュートリアルが始まった。
三時間後、俺は一通りのネットサーフィンを終えて、視野の中の映像を消した。
嘘じゃなかった。
世界は、本当にとんでもないことになっていた。そして、富岡清十郎にしても大島晃にしても、二人を知る人間はこの世界に誰もいない。それどころか、二人が生きていた痕跡すら何も残されていない。唯一、大島晃の僅かな所持品以外は。
俺とこの体の持ち主とは、突然この世界に登場した異物であった。
USMのガイダンス通り、この地球は一度滅びかけた。今も非常に危険な状況ながら、一見安定している。
「どうだった?」
背後から声をかけられて、びくりとした。山野さんが椅子に座っている。
「まさか、ずっとそこにいたんですか?」
「ああ、それが私の仕事だからな」
不意打ちにあったように、俺の頭の中が白くなる。
まるで真っ白なジグソーパズルが次々と組み合わさり、突然完成したような気持ちだ。
「おまえは泣き虫だな」
耳元で山野先生の声がした。
知らないうちに、俺はまた泣いていたのか。
だが、今度は美玲さんではなく、澪ちゃんの腕の中だった。
「大丈夫だ。おまえは決して一人ではない。安心しろ」
澪ちゃんが、いや山野先生が優しく俺の頭を包み込む。
「澪さん、これはずるいです。こんなの泣くに決まっているじゃないですか」
「だから、待っていたのさ。それとも独りで泣きたかったか?」
頭の固い俺にもやっとわかった。俺は理不尽にも、この破滅寸前の世界にたった一人で放り込まれたのだ。万能の女神様の説明も、親しい人への別れの挨拶も抜きで。
俺は自分一人だけが時の狭間に取り残されている猛烈な孤独感と、それを癒してくれる人の温もりとを同時に感じて、心が爆発しそうになっていた。
「澪さん」
「どうした?」
「ありがとうございます」
「構わん。これが仕事だと言っただろ。惚れるなよ」
「そんなのもう遅いですよ。大好きです」
俺は恥ずかしげもなく澪さんに抱き着いて、おいおいと泣いた。
それから俺はぐったりと疲れ果てて、ベッドへ倒れ込んで眠った。
俺が眠りに落ちると入口の脇に立っていた美鈴さんが近寄り、布団を掛けてくれた。
「鈴ちゃん、後は頼んだよ」
そう言って悲痛な顔で唇をかみしめた澪さんが部屋を出て行く。
澪さんが座っていた椅子をベッドサイドへ引き寄せ、美鈴さんが腰を下ろした。
美鈴さんは、そのままずっと動かずに俺の寝顔を優しく見つめていた。
2時間後に俺が目を覚ますその時まで、身じろぎもせずに。
俺が起きたのを見て夕飯の支度に向かった美鈴さんが戻る前に、俺は再びネットの海を泳いで今の映像を発見した。
これは、澪さんの言うような一般市民が取得可能な情報ではあるまい。絶対にUSM基地内の重要機密情報の一部だ。この映像を俺が簡単に取得できたことを口に出すのは、危険極まりないだろう。
悪趣味な話だが、俺は自分が泣き疲れて眠った後の記録映像を早送りで確認し、安心して再びぐっすりと眠った。目が覚めると、もう夜の10時を回っている。
そういえば、これまでは時計すらない生活だった。
念のため美鈴さんが用意してくれた夜食が部屋に運ばれてくる映像を確認してから、俺は遅い夕飯に手を付けた。




