52 Chemical X
血液にも似た粘液が実験室の床に滴っている。
ユーグの目の前にいるのは異形にほかならない。赤黒いものをまとい、人の形を保てなくなったグレンは異形と化した。
大きく肥大した頭部、濁った両目。さらに両手も不自然な形へと曲がっている。肥大した頭部の皮膚や骨は薄くなり、脳が見えている。
「ォがァああアアああアアゥウァ」
もはや人の声とは思えない叫び声を上げるグレンだった化け物。ユーグは拳銃の引き金に指を添わせて間合いを取る。が、化け物は彼が思った以上に素早い。ところどころ巨大化しながらも、少なくとも人間と同等の俊敏さは持ち合わせているらしい。化け物は腕を回すようにして振るう。
「……こういうことでしたか。実験したのが失敗か。多分、私も『薬品X』で凶暴化しますね」
化け物の攻撃を避けてユーグは呟いた。
その攻撃は実験器具の棚を薙ぎ倒す。ガラス製の器具が一瞬にして破片となる。
破片を浴びないように動いていたユーグ。この状況で彼は探していたものを見つけたのだった。
どう考えても無理のある間取り。実験室のフロアにあった不自然なスペース。それを裏付けるような扉が棚の後ろにあったのだ。
が、まだ開けることはできない。化け物を倒さない限り。化け物は先ほど、そいつがまだグレンだった時に撃たれた傷など無いに等しい。化け物となるときに再生したのだろう。
化け物は肥大した腕を再び振るう。ユーグはどうにか避けながら拳銃の引き金を引いた。
響く銃声、壁に咲いた血の花。普通の人間であれば確実に死んでいるような位置に弾丸を撃ち込めた。それなのに――化け物はまだ生きている。
――私はまずいものを目覚めさせてしまった。原液さえ開けなければ。
険しい顔をして再び化け物に銃口を向けた。
「……何発撃ち込めば死ぬのですか? ヘッドショットでも死なない。心臓をぶち抜けば死ぬということですか?」
と言って、引き金を引く。まずは1発。弾丸が化け物の胸を貫いた。が、化け物は動きが鈍ることもなく、実験室の内部を破壊する。ガラス器具が割れて破片がユーグの肌を傷つける。それでもユーグは隙を見つけては引き金を引く。
――まだ死なないか。厄介なものだ。この手の化け物が量産されたとしたら、私1人でどうにかすることもできない。
床はすでに血液まみれになっている。ガラスと血液が照明の光を受けて不気味に輝いている。そんな最悪な足場で――ユーグは化け物の攻撃を躱す。
「すでに6発は撃ち込んだ。どれだけ頑丈ですか、貴方は。やはり、化け物というだけはありますね」
ユーグは目標を変えた。殺すのではなく、動きを止める。ならば――それなりに俊敏に動くことができる脚を狙えばいい。肥大した頭や腕を支えているのだから、脚を潰せばそれだけで有利に立ち回ることができる。
「来るか」
吠えながら突進する化け物。今度、ユーグは足に向けて撃った。残りの弾数すべてが足をとらえるように。
そんな中、ユーグの持つ携帯端末に着信があった。誰からなのかもわからないが、ユーグは出ようとしない。それよりも――目の前の化け物を。
「アァ゛オ゛ヴアアアアアアー!?」
着弾。血の花が咲く。
変形していなかった脚に撃ち込まれた6発の銃弾。それは確実に聞いており、化け物は前のめりに倒れ込む。すかさずユーグは距離を取った。
未だ鳴り響く携帯端末を取り、ユーグは電話に出た。
『ルナティカがまだ来ていない。本当に何があった?』
端末から聞こえる、ケイシーの焦った声。その声を聞いたユーグは一瞬だが顔をしかめてこう言ったのだ。
「エレベーターに問題があった以外は特になにもありません。ただいま階段で上に向かっておりますのでケイシー様はご心配なさらないよう」
『ふざけるなよ、ユーグ。何を考えている。俺の許可なしにどこにいるかって聞いてんだ。監視カメラを確認したら、ある瞬間を境に全部の回線が切断された。どういうことだ!?』
どうやらケイシーは焦りを通り越して怒りにかられているらしい。
「失礼いたしました。ええ、そのようなことがありましたか。侵入者が何かしたのでしょう」
と、ユーグ。
『その侵入者をあぶりだせ。ルナティカの引き渡しは紅葉に一任する』
「それでは、お任せします」
それだけを言って、ユーグは電話を切った。
どうにか誤魔化したとはいえ、ユーグの近くにはまだ化け物が残っている。そして――実験室の外には人がいる。ケイシーやイーサンに雇われた人ではなく、それとは無関係な人。
ユーグは拳銃に銃弾を装填し、ドアに近づいた。
「いるのはわかっている。そこで何をしているのですか? コソコソ隠れて、まるでゴキブリですね?」
そう言って、ドアを開ける。
ドアの向こう側にいたのはジェシカ。ユーグが化け物と戦っているときから一部始終を見ていた彼女は明らかに緊張した表情だった。さらに彼女は拳銃を握っている。
「銃を向けたら殺す! 能力を使っても殺す! 仲間を呼んでも殺す! 私は人が死ぬ程度の重力を知っている!」
と、ジェシカはパニックを起こしたように叫んだ。
「今は何もしませんよ。それより貴女、どこから見ていましたか?」
ジェシカに半ば脅されているユーグ。だが、余裕のある姿勢は変わらない。
「……最初から、ではないかも。暴れまわっていたやつが人間だった頃から、ですかね」
と、ジェシカは答えた。
相変わらず拳銃は握ったまま。まだ彼女はユーグを警戒している。
「凶暴化のことはジェシカに知られちまったが、まあいいか。大事なのはケイシーを殺すことだけじゃねえ、『薬品X』とイデアドーピング剤をこの世から消すことだってそうだ」
ふと、ジェシカの耳に別の男の声が入る。この男は――




