10 Snow Flurry
厳しい戦況だった。イザベラ・リリエンタールには恵梨のいかなる攻撃も通用しない。すべてが腐り堕ち、朽ちてゆく。恵梨から見てもイザベラは絶望的な強さだった。
「恵梨……無理しないで……」
声を詰まらせながらジェシカは言った。痛いのは見ればわかる。形容しがたい腐敗臭が彼女の傷口から発せられ、それは恵梨の鼻にも届いている。
逃げ出したい気持ちもあるが、それに勝るのはイザベラへの憎悪。このままで勝てるのであれば殺してしまいたい。恵梨はそう思っていた。
「無理? どうだろ。あたしができる範囲なのは変わらないんだけど」
そう言った恵梨はイザベラの方へと向き直り、再びその手に薙刀を持った。
恵梨が知るのはイデアという能力の奥の手のようなものだった。展開範囲や密度を上げると強くなることは知られているが、それは薙刀の形状を持つ恵梨のイデアにも通用する。つまり。
恵梨の持つ薙刀の周りに浮遊する桜の花弁。先程よりも量が増えている。それが意味することはイザベラにわかることではない。
恵梨は薙刀を握りしめてイザベラに斬りかかる。
「何度も言わせないでよお。その刃は私に届かない。腐ってボロボロになっちゃえばいいんだからあ」
イザベラはモーニングスターで薙刀を受け止める。モーニングスターにはイザベラのイデアが纏われていた。薙刀は刃こぼれを起こしたかと思えば朽ちてゆく。が、それを見越した恵梨。薙刀を滑らせてモーニングスターから離し、その身を翻す。
「ええ……試行回数とかのこと、考えてないんだ」
恵梨は呟いた。彼女の視線の端で、薙刀の刃に桜がまとわりつき、修復される。恵梨自身が消耗することはあっても、それまでであれば薙刀の刃は実質無限。通るまで何度でもイザベラを切りつけることができるのだ。
――一度でダメなら届くまで何度も試すのみ!
再び斬りかかる恵梨。と、ここでイザベラは焦りを見せながらその一撃を避けた。受け止められないと判断して。これはどういうことか――
イザベラは後ずさり、コーディの方へと視線を向ける。
「ちっ……コーディ! どういうこと?」
イザベラが声を荒げた。が、コーディは答えない。代わりに――雨は止み、雪が降り始めていたのだった。
そのコーディも厳しい戦いを強いられている。
「今は刃が届くと見たよ!」
パニックに陥りかけたイザベラを見た恵梨はイザベラに追撃をしかける。今なら、防がれない。そんなときだった。
「……イザベラ! 退くぞ! あんたは良くても俺がこいつに勝てねえんだよ!」
コーディが叫んだ。彼の傍らにいるのは氷の枷で拘束されたギャリー。さらに、コーディに対して優位に立っていた零。コーディも手負いのようで、その顔や手には凍傷ができていた。
そして、降りしきる雪。零が冷気を操る能力を使って雨を雪に変えたのだ。
「そ。盲点だったよお。今回ばかりは……」
イザベラはイデアの展開をやめてコーディの方へと走り出す。コーディはギャリーを抱え、その場から離脱するのだった。
そして――
「ギャリー……」
ジェシカは呟いた。彼女の言葉に気づいたのか、ギャリーもジェシカを見る。2人が確認したのは変わり果てた『因縁ある人物』の姿だった。コーディに抱えられた、黒髪で長髪のコープスペイントを施した男。それがギャリーだった。彼はジェシカに向けて何も言わない。
コーディ達が去った後、恵梨と零はジェシカに駆け寄った。
ジェシカの太腿の傷は腐敗臭を放っている。これはイザベラにやられたもの。ジェシカは片足を動かすことができなくなっていた。
「酷いな」
零が言う。
「死ななかっただけマシね。なんであの女が弱体化したのかはわからないけど……」
ジェシカは言った。痛みに慣れてきたのか、言葉の詰まりはなくなってきた。とはいえ、彼女の顔から苦痛の色は消えていない。
「コーディだっけ。そいつがうまくやれなくて能力が機能しなかったんでしょ。なんとなくそう思うんだけど」
と、恵梨。
「ま、真相は本人に聞かなきゃ分からないよね」
「ああ。その前に恵梨を病院に連れていく。支部の車を手配すれば病院くらいは行けるだろ」
零は言った。さらに零はジェシカの傷に目をやった。これは並大抵の治療でどうにかなるものではない。まず、腐敗した部分を取り除かなければならない。そのうえ取り除けば肉が抉れた状態となる。再生医療が必要だ。
「待って。ここで病院て……私そんなお金ないんだけど。タリスマンのエリアって医療費だけは馬鹿みたいに高いのに……」
「いや、その心配はいらない。説明不足だったかもしれないが、手帳か入団書類があればだいたいの医療はどこでも格安で受けられるぞ」
そう零は答えた。
タリスマンと春月――恵梨や零の出身地は違う。レムリアという連邦でもエリアが違えば医療体制だって違ってくる。片や保険のシステムも形式に等しいタリスマン、片や誰でも医療を受けられる春月。同じ大陸にいても、これほどまでに不平等なのだ。
零はジェシカを見守りながら携帯端末を取り出し、タリスマン支部に電話をかける。
「……こう聞くと特権階級……みたいだね」
ジェシカは呟いた。
「あたしたちは命を懸けてるんだよ。これでいいと思う」
恵梨は言う。
「なんかこう、湿っぽいのは嫌だけど。エヴァルドさん……この町の人も私みたいに安く医療を受けられたらいいのに」
そう言いながらもジェシカは分かっていた。レムリア全土が同じシステムというわけでもない。彼女の考えなんて理想論に過ぎないと、彼女自身が一番分かっていた。
――こう思うくらいなら、春月のことなんて知らない方がよかったのかな。
程なくしてタリスマン支部から車が到着する。青色の鉱石で動く車を運転していたのはルナティカで、彼女はジェシカの傷の様子を見て青ざめた。
ルナティカは車を降りるなり何かを察したように言った。
「イザベラにやられたんだね。この様子だと、雨の時に一撃貰った感じか……」
ルナティカはイザベラについて何か知っている。恵梨はそう確信していたが、ここではあえて聞かないことにした。イザベラの素性や事情はいつでも聞ける。
「病院にも連絡した。流石鮮血の夜明団だな。すぐに受け入れられるそうだ」
零は言う。
「うん、ありがとう。病院に連絡する手間が省けたよ。私も受け取った書類の控えも持ってきたし」
4人は車に乗り込み、アトランティスロードの外側にある病院に向かった。