9 Rotten Wound
「おい、準備できたぞ。存分に暴れてこい」
と、コーディは言う。
「はあ? 私に命令しないでよねぇ」
どこからともなく女の声が聞こえる。彼女――イザベラ・リリエンタールの姿に最初に気づいたのはジェシカ。イザベラの振り下ろすモーニングスターをジェシカが受け止める。その一撃はジェシカがこれまでに体験したどんな一撃よりも重い。
「変な行動しなかったらこうならなかったのにねえ?」
イザベラはジェシカを煽るようにして言った。彼女の赤い瞳がジェシカを直視する。妖しさを醸し出す彼女は吸血鬼なのだろうか。
「黙って。私の邪魔をしないで」
ジェシカは言う。だが――イザベラはモーニングスターを一度剣から離し、今度はジェシカを蹴り飛ばす。このとき、イザベラは異様な感覚を覚えた。ジェシカが人間としてはありえないほど軽かったのだ。
吹っ飛ぶジェシカは民家の壁にぶつかり、咳き込んだ。衝撃はそれなりに強かった。が、ここで戦えなくなるわけでもない。ジェシカは剣を杖のようにして立ち上がる。
「名前は知らないけど、あんたの顔は見たことある。トロイ・インコグニートの犬でしょ」
ジェシカは言った。するとイザベラは表情を歪め――
「犬とか言うな。私、あのクソ野郎なんてとっくの昔に見限ってるんだけどお? かといってルナの下に着く気もないしい」
怒っている。どうやら彼女も置かれた立場が変わっていたようだった。が、それでもジェシカの敵ということには変わりない。ジェシカはイデアを展開しなおし、イザベラに突っ込んでゆく。もちろん、それだけでイザベラを両断しようとするつもりではない。
イザベラもモーニングスターを持ち直し、ジェシカに応戦する。
剣とモーニングスターがぶつかりそうになった時、ジェシカが跳び上がったのだった。彼女の展開していたイデアは妖精の翅の形を取り、彼女を空中にとどまらせていた。
「ちっ」
イザベラは舌打ちをすると、さらに口を開く。
「空に逃げるのお? 臆病猫ー、ちゃんと戦う気も向き合う気もないんだあ。その覚悟でタリスマンに来るくらいなら早々に死んだ方がいいんじゃなあい?」
「煽るの? 悪いけどそういう挑発には乗らない」
ジェシカが言う。彼女は相変わらず宙に浮いている。そこからイザベラの出方をうかがっているのだ。が、ジェシカは敵の人数を忘れていた。3対3であることに変わりはないが、コーディの能力は範囲が広い。
「乗らなかったとしても攻撃されることには変わりないんだけどお」
そう言いながらイザベラは少しずつ後ろに下がっていた。そして。急に気温が下がる。零の能力によるものかと考えたジェシカだったが、その攻撃は紛れもなくジェシカに向いていた。
雹。上空から落ちてくる氷の塊がジェシカや彼女が展開していた翅に直撃する。
ジェシカは雹に撃ち落とされて地面に激突する。それを狙っていたようにイザベラが近寄り、ジェシカの脚にモーニングスターを叩きつけたのだった。
「うあぁっ!」
痛みのあまり、ジェシカは声を漏らす。それ以上は声を出すこともできず、ただ荒い呼吸を繰り返す。そんな中でジェシカが覚えた違和感。モーニングスターを叩きつけられた場所が膿んだような感覚に襲われているのだった。
「気持ち悪いでしょ? 痛いでしょ? そうだよね、腐ってるんだもんねえ!」
イザベラはジェシカを見下ろしながら言った。
「何? 私の能力について聞いてくれないのお?」
そうやってイザベラが煽ってもジェシカは声を出せないでいる。腐敗してゆく痛みが離れないのだ。
「そうやって痛がってるあんたも可愛いよ……もっと痛めつけたくなっちゃうなあ」
イザベラはジェシカに近寄り、腐敗した部分をヒールのある靴で踏みつける。ジェシカはもはや声をあげることもできない。イザベラの気まぐれで生かされているにすぎない様子で、死の覚悟を決めるしかなかった。
――ちょろい人生だったなあ。多分私は、この人に殺される。父さんのところに行けると考えたら悪いものでもないのかな。
すべてを諦めようとしたジェシカ。彼女の視界に桜の花びらが舞った。
――恵梨?
「ちょっとー? 誰に許可とってジェシカを殺そうとしてるの? ええ?」
イザベラの首筋に薙刀をつきつけた恵梨。口角は上がっているものの、彼女の目は笑っていない。明確に殺意を示し、少しでも変な動きをすればイザベラを殺す気でいる。
「許可なんていらないんだけどお? ていうか、私の邪魔しないでよ」
イザベラは言う。
「そういうことじゃなくて。まあ、あんたもジェシカをこんな風にするのは相当悪趣味だとわかったからね」
薙刀がイザベラの頸動脈を切り裂こうとしたとき、イザベラはひょいと後ろに下がる。恵梨が知る範囲では、イザベラはまだリーチ内に入ってこない。そして。
「ジェシカ。絶対に仕留めるからね」
恵梨はそう言って足を踏み出し、薙刀を振るった。その一撃を躱すイザベラ。だが、恵梨は持っていた薙刀に違和感を覚える。
それは先端だけだったが、イデアにより形作られた薙刀の感覚であれば直感としてわかる。
薙刀は先端だけ腐敗――腐食した。イザベラの腐敗させる能力は金属あるいはイデアによって形作られるものに対しても有効だったのだ。さらに、付近を舞う具現化された桜の花びらも枯れてゆく。
「ねえ、なんでって思ってるでしょ?」
余裕を見せるイザベラ。事実、恵梨は物を腐敗させる能力の詳細を知らず、迂闊に手を出せない状態だった。
「それを聞けば能力について教えてくれる? だったら聞きたいなあ」
恵梨は言った。
「教えたところで別に対処できるわけでもないし? 私の能力は腐敗させること。ちなみにイデアだとか魔法なんかも腐ってボロボロになっちゃうんだよねえ!」
「ふーん。これは厄介だね。あたしじゃなくてジェシカだったらもっと有利に戦えるはずなんだけど」
このとき、恵梨はいかにしてイザベラを斃すかを考えていた。イデアを通じない武器を持たない恵梨は苦戦を強いられることなど明白だったのだ。