幕間 2-1
★ 幕間 ★
──なんでも出来ると言われてきた。お前はナンでも出来ると──。
実際、何でも出来た。何でも。幼稚園の時は他の子よりも早く逆上がりが出来たし、小学校の低学年の頃には、習っていたスイミングでは高学年の子よりも良いタイムを出した事があるし、高学年になった頃には同じく習っていたフェンシングの県大会で、15歳の中学生に勝って優勝した事もある。
スポーツだけでは無く勉学においても、それは変わらなかった。小学校で受けた全国学力診断テストでは全ての強化で満点を取り、中学受験して入った、近隣で最も学力の高い中学校でも常に学年トップの成績を収め、担任の先生からは、高校受験に際しては是非ともレベルの高い私立に行く事を進められた。
だがそこまで裕福でも無い家庭であった為、私立に行く事は考えなかった。学べる事は公立でも同じだと思っていた私は、家から程近い距離にある高校に通う事にした。それには理由が有った。
まずはそこの高校には、通常のクラスの他により学力の高い特別クラスがあった事、そして、兄の存在だ。
私には三つ上の兄が居る。兄は私よりも遙かに出来る存在だった。周りから神童と称された兄は、近隣はもとより、他県の同じく神童と呼ばれる様な子供達が集まる、都内にある私立の中学校を受験、見事合格を果たしたのである。両親がとても喜んでいたのを今でもはっきりと覚えている。本当に自慢の兄だった。
だが、そこから兄は変わって行ってしまった。元より神童が集まる学校である。出来て当たり前のハードルが、それまでとは比べられないレベルで上がった。また、周りの期待のレベルも上がった事もある。そんなプレッシャーを始めは兄も楽しんでいたようだが、実際は重く圧し掛かっていたのだろう、日に日に変わっていった兄はそれでも誰にも言えず、それでも無理して頑張って、周りの期待に応える様にして臨んだ高校受験に失敗、滑り止めで受けた高校を、それでも最初は何とか通ってはいたが、今は中退し家に引き籠っている。
初めは兄を応援していた両親も、高校受験を失敗した事により何かが代わり、それでも兄を慰め、励ましてはいたのだが、引き籠ってしまってからはまるで腫れものでも扱うかの様になってしまった。
その兄を見ていた私は、自分の相応というものを否が応でも理解した。世の中には上には上が居る事も。そんな私に、たまたま部屋から出ていた兄が私に言った事──、それがお前はナンでも出来る──である。
正直、兄が私に何を伝えたかったのかは未だに分からないし、その時久々に会った兄の、余りの変わり映えに、衝撃を受けていた私には何が伝わったのかも分からない。
そんなうらびれた兄の期待が私に向くのは必然と言えた。兄の存在のお陰であれほど周囲から持ち上げられ、褒め上げられていた両親の期待が私に向かうのは当然の事だろう。普通のサラリーマンである父とパート務めの母の、他人に誇れる唯一のステータスが、出来の良い兄と私だったのだから、それは仕方が無いと思う。そして私自身、それに応えようと今まであまりした事の無い努力というものをしてみた。
だが、私も人の子、プレッシャーというものは簡単に襲ってくる。中学校では常に学年一位だった私だが、最初に受けた中間テストで学年上位10位以内から落ちた。おそらく、環境の変化のせいだと思う。思春期特有の体の変化によって、小さいころから習っていたフェンシングでも、思うような成績が残せなくなってきた事も大きな要因だろう。
そんな私を、両親は罵倒した。それまでは放任というほどではないにしろ、兄という存在が盾になっていた事で私に過度な期待は無かった為、その両親の姿はとてもショックだった。それまで行く事の無かった塾にも強制的に通わされる事になり、時間に追われる様になった私は、フェンシングや大好きな読書をする時間さえ無くなった。そんな生活に、私は私の存在意味を疑った。両親にとって、私は一体なんなのだろう、と。
その時期の私は、起きるのさえ苦痛だった。ご飯を食べるのも、登校するのも、教科書を開く事も、同級生と話すことも……。あの頃の私は全てが無意味で無価値になっていたのだ。
家に帰るのも嫌だった私は、ふらりとグラウンドに足を向けていた。小さい頃から習っていたフェイシングを理由に部活動に加わっていなかった私が、学校の授業以外でグラウンドに寄るのは初めてだった。何かいけない事をしている様な、そんな不思議な高揚感があったのを今でも覚えている。
そんな時、私は平君を知った。あれは期末テスト前だったと思う。「凡太ぁ、ちゃんと捕れよぉ!」と、学校のグラウンドから聞こえて来たその声が、やけに耳に届いたのだ。その声自身は早井君のだったけれど。
「ほら、凡太。しっかりしろ!」「平ぁ! もっと腰を入れろ!」と、平君の名前がグラウンド内に響いて行く。平凡太なんて、なんて面白い名前なんだろうと興味が沸いた。
でもそれだけだった。野球部の練習をそれ以上見ていたいと思う程、当時の私には余裕が無かった。塾の時間も迫っていた事もあり、そのままクルリと振り返ると、トボトボと学校の正門に向かったのだ。
その頃の事をあまり覚えていない。覚えているのも嫌だったのかもしれない。相も変わらず上がらない成績、上達しないフェンシング、上手く行かない日々に不満が、鬱憤が溜まって行った。そんな自分を認めたくなかったのだ。
そんな時、私は初めて塾をサボった。雨が降っていて憂鬱だったというのもあった。サボった事で時間がたっぷりと空いた私は、教室内でキョロキョロと辺りを見渡したが、友達は部活やバイトに遊びと、すでに学校には居ず、手持無沙汰となっていた私は、塾をサボったせめてもの罪滅ぼしと、図書室に向かっていた。
そんな私の目に、雨で濡れるグラウンドで一人もくもくとバットを振るう、平君の姿が入って来た。
周囲に誰も居ない。部活の先生も野球部の他の人達も、誰も居ない。それでもただ黙ってバットを振っていた。
私は知らず足を止め、その姿をただジッと見ていた。何も考えずにただジッと……。
「あ、居た居た。あ~ぁ、今日は部活休みなのに、凡太のやつ、何やってんだよ……」
そんな私に、いつの間にか隣に立っていた早井君が話し掛けて来た。早井君とは、たまに挨拶をする位の仲だったけれど。
「……部活、休みなんだ……」「そうだよ、雨だからね。なのにアイツときたら、部室に行くって教室を出たかと思ったら、ユニフォームに着替えてバットを持っていったからね」
「ったく、風邪引くっての」とぼやく早井くんもユニフォーム姿だったけれど。
「……なんで?」
「ん?」
「……なんで、やらなくても良いって言われてるのに、平君はあんなに必死でバットを振っているの?」
なんでそんな質問をしたのかは分からない。多分、平くんの姿に当てられたというのが正しいのだと思う。
その質問に、早井くんは困った様に「う~ん……」と唸った後に、
「……好きだから、じゃない?」
「好きだから……?」
「うん、好きだからだよ。だから、他人がどう言おうと止めないんだよね。アイツはさ」
「バカだよね~」と苦笑いを浮かべる早井君。「さて、俺も行くかな」と私に別れの挨拶をすると、昇降口へと向かっていった。
一人残された私は、何か納得がいかないのか、たまに首を捻ってはバットを振るう平君を見つめながら、頭の中で色々な事を考えていた。──私の好きな事、譲れない物って何だろう、と──
その瞬間、私の中を小さな私がグルグルと廻っていった。体の隅々まで至る所を……。
そして見つけたのだ。自由を。私は私のやりたい事をやっている時が一番だったと。そもそもスイミングもフェンシングも自分がやりたくてやり始めたことなのだ。そしてそれで結果が出ていたのだ。勉強だってそうだ。誰かに言われてやっていたんじゃない! 誰かの期待に応えたくてやっていた訳でも、誰かの身代わりの為にやっていた訳でもない。ただ、やりたいからやっていたんだ! そう、自由! それこそが、私の譲れないものだ!
それに気付いた時、全ては好転した。成績は上がり始め、フェンシングでも結果が伴う様になっていった。それらを引っ提げ、親を説得した。私のやりたい様にやらせて!と。
結果が出ていたからか、親は渋々ながら納得してくれた。嫌々行っていた塾も止めた。その空いた時間を使って、さらにフェンシングに勉強にと時間を掛けられたお陰で、さらに成績は伸びていった。その時になってようやく兄が言っていた事の意味を知った。お前はナンでも出来る、その意味を。勝手に縛るなと言ってくれていたのだろうと。やはり、兄は兄だったのだ。
そんな中、いきなり世界が変わった。一変してしまった。私の知る常識が全く通じず、それまでの非常識を常識として押し付けられていた。リザードマンと呼ばれる怪物の襲撃、そして、クリスマスに親に連れられて行った、それまでに無かった大きなスポーツ施設で行われた、変なイベント。
一体何が起きているのか分からない状況、そんな中、相変わらず彼だけは何も変わっていなかった。自分の納得行かないことには思いっきり反抗し、立ち向かい、そして撥ね退けた! 知らない内に目で追っていた彼は、私が思っている以上に成長──いや、進化をしていたのだ。
あの時の私だけで無く今の私も救ってくれた彼は、もうその名前だけで興味を持つ様な存在では無くなっていた。
家へと帰り、この変な世界すら彼が元に戻してしまうだろうと、確信しながら眠りに付いた私を、知らない光が包み込んでいた
「な、なに、これっ!?」
フワリと体が浮いたかと思うと、意識を失う。
「……う、う~ん……」と目を覚ました私の目に飛び込んで来たのは、満天の星空の中だった。その空間に驚き、さらに周囲を探る為に振り返った時、思わず目を見開いてしまったのだ。
──そこには、初めて見た時の坊主頭では無くなった、私の救世主の姿があったのだから……。