第九十二話 女神との取引
「な?!」
言葉が出なかった。
──取引──。それは、俺もエルニア様との間で交わした。でも、俺が取引したのだって、エルニア様が、俺の事を過去に戻そうとしたその代償に過ぎない。俺的には、あのオパーイを揉ませてくれても良かったんだけど。第一、土手は俺がエルニア様と取引したのを知らないはずだ。
「うそだ!? 仮にエルニア様と取引したとして、世界を作り替えようなんて考える人間が、善行なんて出来る筈が無い!」
俺とエルニア様との間で交わされた取引──俺の守るべき約定は、【天上界の事を、決して誰にも言わない】であり、エルニア様は、【平凡太をチートにする手伝い】である。そして、エルニア様が俺に施したお手伝いというのが、【善行進化】だ。
もし土手の召喚の時も、俺と同じ様にあの女神が失敗して、土手が俺と同じ願望を伝えたとしよう。その時、あの女神はいう筈だ。“無償での願望は無理だ”と。そこで善行進化を持ち出すと思う。俺の時と同じ様に。
そして、それを土手が了承し、この世界へと戻ってきた。その後、善行進化をする為、土手は善行を重ね、自分の思う通りの世界を作り上げた……。
だが、それをこの土手が行動に移したとは思えないのだ。こんな事をする人間が、善行なんてする訳が無い。良い行いをしようって思う人間が、自分の想い通り世界を作り変えたいと思う訳が無い。
全ては仮の話だ。想像だ。だけど、真実であると俺は断言出来る。残った善行ポイントの全てを賭けたっていい!
そして、土手の口から俺がその、賭けにならない賭けに勝った事を知らされる。
「善行? ……そうか、お前もあの女神と取引をしたんだな?それであの女神の言われるままに、善行とやらをポイントにしたのか。 バカだな、善行なんてそんな面倒くさい事、俺がする筈無いだろう?」
土手は俺を小馬鹿にする様に、「はんっ!」と鼻で笑う。
「そんな事って……。じゃあ、お前は一体、どうやってポイントを溜めたんだよ?!」
善行進化する為の善行ポイントは、善行を重ねなければ入らない。お店に行けば貰える様なポイントでは無いのだ。では一体、土手は何をポイントにしたというのだろうか?
俺の戸惑いが楽しいのか、くつくつと笑うと、土手は自分の頭を指差して、
「考えたんだよ、俺はな。もっと自分に合った条件を、俺が自分からそれをしようって思わなくても、向こうからやってくるモノをポイントにしようってな」
「……それは一体、なんだ?」
知らず、喉が鳴った。聞かなきゃ良かったと思った。でも、聞かなければいけないとも思ったのだ。だから、土手の口から出る次の言葉に神経を集中させていた。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、土手はタップリと間合いを開けた後、
「──“苦痛”さ──」
「……苦、痛……だって?」
頭に全く無かった言葉だった。だから、耳では無く体に直接聞かせる様に、再び、固唾を飲んだ俺は、土手の肩に両手を乗せ、
「そんなのをポイントの条件にしたというのか!? そんなの、普通ならば耐えられないだろ!?」
「あぁ。その事はあの女神も言ってたよ。“ソレは、あなたの世界の修行僧でも、簡単に根を上げてしまう程のかなり厳しい条件ですよ”ってな」
「ならば何故?!」
「何故、だって? そんなの、俺が過ごした日常と何が違うんだ? アイツ等に暴力を受け、蔑まされ、追い込まれていったあの毎日と、坊さんが挑む荒行や苦行で受ける苦痛と、何が違うというんだ?!」
自分の肩に乗せられた俺を手を振り払うと、顔を近付け怒鳴る土手。
「俺は、あの女神に言ったよ。あの世界の事を誰にも言わないし、善行もしない。だから、苦痛を──アイツ等に殴られ、蹴られる事も、学校の奴らが俺を罵る事も、駅ですれ違う、他校の奴らに嗤われる事も、俺が苦痛と感じる事は全てポイントにしてくれとな。あの女神は悲しそうに、“分かりました……”と言って、実行してくれたさ。名付けるのなら、まさに【苦痛進化】、だな」
「何故だ!? 絶対に善行の方が良いだろ! 自分の行いでこの世の中が少しずつ良くなっていくんだぞ? それに、生きていりゃ人間、辛い事なんて山ほどあるだろ!? 俺だって、辛い事の一つや二つ──」
「──そんな風に思えるお前は、本当の辛さを知らないんだよ、平。良く言うだろ? 死ぬ気になれば何でも出来るって。あれは嘘だ。死ぬ気になったら、何もやる気が起きねぇんだよ」
「そんな……」
「だけど、そんな俺に、初めてこの世界は味方してくれた。あの世界に、女神に会わせてくれたからな。だから、この世界を壊す事はしなかった。聞けよ、平。俺の苦痛進化を、集めた苦痛ポイントを使えば、この世界を壊せたんだぜ?」
「それでも壊さなかったんだから、感謝しろよ?」と昏い笑みを浮かべる土手に、薄ら寒いものを感じた。
「……そんなに、ポイントが、溜まったという、のか」
「あぁ。簡単に溜まったぜ。何より、毎日だからな。ったく、アイツ等も良くも飽きずにしてくれたモンだ。良いか、平。俺のポイントは苦痛に耐えた数じゃない。俺がこの世界を憎んだ数だ!!」
独白を終えた土手の、その表情は喜んでいる様にも、悲しんでいる様にも見えた。
手を振り払われたまま、呆然と土手を見る。その目は一体、どんな色をしていたのだろうか……。
「……俺が、あの時、もっとちゃんとお前を救ってやれれば──」
「おい、それ以上は言うなよ、平。俺は決して憐れんで欲しい訳じゃねえぞ」
土手の声に凄みが増す。俺は決して土手を憐れんだ訳じゃあない。ただ、反省をしただけだ。だが、土手はそれすらも許してはくれなかった。
重たい空気が流れる中、俺の背後に気配が生まれる。振り返るまでも無く、感じる魔力からして舞ちゃんとミケ、そしてギルバードだ。その中の一人、舞ちゃんが歩み出るとしゃがみ込む俺の横に立つ。
「……あの老人、智爵のクロとはいつ知り合ったのですか?」
上から掛けられた舞ちゃんの言葉、それはいつもの舞ちゃんのものに比べ遥かに低く、そして重かった。
そんな舞ちゃんの言葉に、まるで舞ちゃんを迎え入れる様に両手を広げ、少しだけ態度を柔らかくした土手は少しも臆することなく、
「塚井さん、君だけはこの腐った世界に住む腐った奴らと違って、俺を助けてくれた。見下さないでくれた。だから、その質問に答えましょう。……あいつと今年の夏──ちょうど学校である事件が起きた時、です」
「事件?って、リザードマンの事か!?」
「あぁ、そうだ。あの出来事の一週間前位だ。貯まった苦痛ポイントと、進化で得たスキルを使って、俺がこの世界をどうやって変えてやろうかと考えていた時、不意に現れやがったのさ」
「現、れた……?」
「そうです。俺の部屋にね。でもいきなり現れてそんな事を言われても、信じられんって言ったら、“ならば、我々の力をご確認してからでも遅くは無い”と抜かしやがりまして。アイツが持っていた杖で地面に魔法陣を書くと、そこに何かが視えたんです。多分アレは──“アッチの世界”だ」
「「なっ!?」」
俺と舞ちゃんの言葉が重なる。想像を遙かに超える事実に、俺達は言葉を失ってしまった。土手の指す“アッチの世界”とは、エルーテルの事だ! それはつまり、あの老人がこの世界とエルーテルとを繋げる方法を持っているという事になる。そんなの、神様クラスじゃないか!?
俺と一緒に驚く舞ちゃん。そんな舞ちゃんの表情を見れた事が嬉しかったのか、聞かれてもいないのに、土手はさらに続ける。
「えぇ。確かにアチラの世界でした。するとアイツは、その魔法陣で出来た穴に何やらブツブツ言ったと思ったら、不意にその穴からあのワニが出て来たんです。それと──」
「あ~っ!? どこかで見た事のある人族だと思ったら、あの時の奴かにゃん!?」
と、土手の視線が俺の後ろに向くのと、後ろから場違いな声が響いてきたのはほぼ同時だった。ミケだ。
ドカドカと大股で土手へと近づくと、腰に手を当てて土手の顔をジロジロと睨み、
「確かに、エルーテルから凡太の居るこの世界に連れて来られた時、見た人族の男にゃん!」
「……どういう事だ?」
「そのまんまの意味だ。アイツはあのワニ野郎以外にも、その穴から出した奴がいたんだ。──それが、この猫娘と、そっちの金髪イケメンってことだ」
ミケの代わりに土手が答える。それが本当なら、ミケとギルバードも、あの老人がこの世界に連れて来たと考えられるが。
「……マジかよ……。ギルバード、お前は覚えていたか?」
振り向くと、唯一後ろに居たギルバードが、肩を竦める。
「私は記憶を失ってましたからねぇ。ハッキリとは覚えていません。そうだったかも知れないですし、違うかもしれない」
「何でミケ達をこの世界に連れてきたにゃん!? お陰で大変だったにゃんよ!?」
そう怒鳴ると、ミケは座っていた土手の胸倉を掴む。だが、土手に焦る様子も、振り解こうとする様子も見せずに、首を軽く傾けて、
「さぁな?知らねぇよ」
「ウソにゃん!」
「ウソじゃねぇって」
「まぁ、待てって、ミケ。それで、何でこの二人をこの世界に呼んだんだ?」
「だから、知れねぇって言ってるだろ。ただ、アイツはこの二人をあの穴から呼び出した時、“これで、”この世界にも【道】が出来た“とか言ってたけどよ」
「道……?」
聞き慣れない言葉に、隣に立つ舞ちゃんに視線を向けると首を横に振る。どうやら舞ちゃんでも知らない言葉らしい。
「……あぁ、それと、アイツはこんな事も言ってたぜ。あれは、ワニ野郎と、そこの二人を呼び出して、その穴を塞いだ時だったか」
自分が話す内容の一つ一つに、俺達が混乱する状況を楽しんでいる素振りさえ見せる土手が、さらに語る。正直、一回整理したいから、暫くは黙っていて欲しかったが、そうもいかない。
「……なんだ?」と、反応を示した俺に、土手はニヤリと笑うと、徐に立ち上がる。そして、そのまま会場の天井を見つめると両手を大きく広げた。
「──あの御方からの言伝で御座います。これからは共に闘いましょう、──同士よ──ってな」
「──同士?」
土手の口から出た言葉は、あの白髪の老人の言った事。だとすると、魔王の幹部だというあの老人が指すあの御方ってのはつまり──魔王って事だろう。その魔王が土手を同士、つまりは仲間と認めたという事だ。それは一体どういう?
余りに情報が多すぎて、流石に考えを纏めたくなった俺は、癖の強いどこかの警部補みたいに、揃えた人差し指と中指をおでこに当てて、「え~……」と考える。
と「凡太さん……」と、今泉君でも西園寺君でも無く、舞ちゃんが声を掛けて来る。
「どうした、舞ちゃん?」
「彼、幾らなんでも変です。今、智爵のクロが不在で、尚且つ凡太さんの力に恐れをなしたとはいえ、流石に色々と喋りすぎではありませんか?」
「……確かに」
舞ちゃんの言う事はもっともだ。幾ら負けを認めたからと言って、ここまで素直にベラベラと話す気になるだろうか?しかも相手はあの土手である。
舞ちゃんに頷き返すと、立ったまま、例のポーズを取り続ける土手に向かって、
「なぜ、そんな素直に話す?まだ何かあるのか──?」と、その肩に手を乗せようとした時、バチン!と弾かれる! と同時に、薄黒く濁った膜が土手を覆い包んだ!
「なっ!? 土手!」
「おいおい、平よぉ。俺が何も考え無しにペラペラと話すと思ったのかぁ?」
「一体、どういう!?」
「時間稼ぎに決まってるだろうがよ! 解れよ、その位。間抜けにも程があるぞ!」
俺を指差し笑う土手の体がフワリと浮き始めた。「おい!」と黒く濁る膜を割ろうと叩くが、表面にボワンっと波紋が立つだけで、割れる様子を見せない。まるで、大きな水塊を殴り付けたみたいな感触だった。
「おい、土手! どこへ行く!」
「決まってんだろ、平。あっちの世界に行くんだよ」
「「「──!!?」」」
バルコニーに居る全員が、土手の言った言葉をすぐに理解出来なかった。そして、それを理解した時、土手の体はバルコニーから大きく離れると、フヨフヨと、闘技場の真ん中へと移動する。
「待て、土手!! せめてこの世界を元に戻せ!!」
俺は叫んだ。この世界をこんな風に変えたのは土手だ。という事は、元に戻せるのも土手である。だが、挑発的に笑うと、土手は自分の眉間を指差し、
「俺が元に戻すと思うか、平? たしかにこの会場にいる奴らは元に戻したさ。だが、まだこの世界は元に戻っていない!この世界を元の世界に戻す為には、俺がそう願い苦痛進化をリセットするか、俺が死ぬ必要がある。だが、俺はリセットなんかするつもりはねぇ!つまり、お前は俺を殺さなきゃいけないって訳だが、お前に俺を殺す覚悟はあんのか? あぁ!?」
「くっ!?」
そんな事、出来るはずがなかった。土手がああなってしまったのは、俺にも責任の一端があるのだ。だから、土手を殺すなんて事、出来る筈も無い。
躊躇う俺のよそに、土手を包み込んだ黒く濁る膜が靄に変わると、
「ふはは! じゃあな、平! せいぜいこの狂った世界で過ごすが良いさ!」
「待て、土手っ!!」
俺の制止を無視して、土手の体はシュンっと消えてしまった……!