第七十七話 そして思い出して
《我らが教祖様の戦士であるオーク様が、私のギルバード様を締め上げていく~! これには流石のギルバード様も為す術無しか~!?》
実況のお姉さんと凡太が呼んでいた人族の女性の声が、この不思議な魔力に包まれた建物内に響き渡る。
だが、“カガク”という、この世界の魔法によって大きくなったその声も、意識が朦朧としてきた私の耳には、小さく聞こえた。目の前の青黒いオークが、私を締め上げているせいだ。
「さて、そろそろ終わりにしてやろう、エルフの戦士よ。弱いモノ虐めはオレも好かんのでな。それに──」
オークはその視線を、闘技場の外で私に必死に声を掛ける凡太とミケへと向ける。
「戦ってみたいヤツがいるのでな」
「……凡太は……、強い、です……よ」
締め付けられ、まともに息継ぎも出来ない私では、か細い言葉しか出ない。すると口端に牙を生やしたその大きな口をニヤリと曲げるオーク。
「それは楽しみだな。ならば──」
「ぐうぅうう!?」
「お前には早く、退場してもらおう!」
今までで一番強い力で、胸元を締められると、僅かに出来ていた呼吸さえもままならなくなってきた。
(このままでは……)
必死に空気を吸い込もうとするが、オークに締め上げられた喉には僅かな隙間も無いようで、全く空気が吸えない。視界も徐々に暗くなり、周りの雑音も、どこか遠くで鳴っている恋虫の鳴き声の様に、儚げだった。
「ギルバードっ! もういい! もう良いから!」
それでも、どういう訳か凡太の声だけは、ハッキリと聞こえてくる。その事が、何故か無性におかしかった。
(ミケ、も、叫んで、いるの、に、なぜ、ですか、ねぇ……)
恐らく笑っていたのだろう、胸元を締め上げるオークが私に向けて何か言っているが、それすらも聞こえなくなって来た。体からは力が抜け、視界も黒く染まり、何も考えられなくなってくる。
(これは……もう……)
何も考えられない頭でも、死というモノが間近に迫って来ているのは分かった。生きる者が最も恐れる死。だが、私にはそこまで忌避したいモノでも無かった。それは記憶が戻っても変わらず、──いや、余計にそれは強くなったかも知れない。
(私はこの世界の住人では無いし、何より、もう、姉さんは──)
私の双子の姉が死んだのは、私がまだ大人になる前だから、もう何十年と前の事だ。私は姉の事が大好きだった。強くて、優しくて、自慢の姉だった。その姉さんはもうこの世に居ない。
(私が死んだら恐らく、行き先は常闇の森、だな。姉さんの居る、光の海には行けないのだろう……)
薄れる意識の中で、死しても姉さんとは会えないと悲嘆に暮れる。あの時、姉さんの血で濡れた草むらの上であれだけ泣き叫んだというのに、その事を思うと、今でも目頭が熱くなってくる。
(……ならばまたいつか、生まれ変わったその先で、姉さんに会えればそれで良い……)
私達エルフの寿命は長いと聞く。その長い時を、こんな寂しさを抱えながら生きて行かなければいけないのかと、思い悩んだ事もあった。死んでしまいたいと思った事も一度や二度では無い。
でも、自殺は出来なかった。姉さんがその身をもって助けてくれたというのに、自ら命を絶つという事は姉さんを裏切る行為だと思ったから。
だから、戦いの中で死ねるのなら良いかと思った。姉さんの仇である魔物も殺せるし、ちょうど良いと思った。幸い、私の身元引受人となってくれたフォルテナ様に、戦い方を教えてもらえたし。
だが、必要以上に強くなってしまったからか、私は死ななかった。多くの魔物を殺せたから、それはそれで良かったのだが、私の一番の願いは、また姉さんに会いたいという事。だから、これ以上強くなる事を止めたのだ。自分の願いを叶える為に……。
(待っていて、姉さん。今、そっちに行くから……)
恐らく、姉さんの居る光の海には行けないだろう。けれど、私には一つの勝算があった。それは、エルニア様の救出に一役買ったという事だ。その事で、もし仮にエルニア様の加護を受けられれば光の海に──姉さんの所に行けるかも知れない! そんな心づもりが私には有った。
(それを知ったら、凡太は怒るでしょうかね……。最早、それを謝る術は無さそうですが……)
凡太の顔がフッと出て来ては消えて行った。あれだけはっきりと聞こえて来た凡太の声すら聞こえなくなってきたのだから目を瞑る。もう間もなく私に死が訪れる様だ。
──そんな時、不意にソレは聞こえて来た──。
「…………ㇽ…………」
それは凡太の声でも、ミケの声でも、ましてやオークの声でも無かった。
(……なんだ?)
「…………ギ、ル…………」
死の間際に私を呼ぶ声が聞こえた。それも女性の声の様だ。
(……もしかすると、エルニア様、か!?)
嬉しくて、もう何も感じない体が打ち震えている様に感じた。もしエルニア様だというのなら、私は賭けに勝った事になる。光の海に、姉さんの居る場所に行けるかも知れない!
(──エルニア様! ここです! ここに居ます!!)
暗い世界の中で、手を、腕を振り上げる。恐らく、オークに締め上げられた私の体はピクリとも動いては居ないだろうが、そんなのは関係無かった。今は、エルニア様に見つけて頂くのが先決なのだ。
(エルニア様、ここです! 私は貴女の為に頑張りました! だから加護を! 光の海に行ける加護を私にっ!)
「……ギル……」
だが、その声はとても悲し気であった。エルニア様が自分に加護をお与えになるのだとしたら、こんな声を出す筈は無いだろう。
(誰、だ?)
真っ暗な世界の中に、淡い光を放つ光の玉がポワリと浮かぶ。それはだんだんと大きくなり繭状になると、光が増して中から何かが現れる。それは一人の少女だった……
「……ギル……」
──その声は、私が一番聞きたかった声だった──
「姉さん……?」 思わず、声が裏返ってしまう。暗闇に振り回していた手が震え出す。全くの予想外に、頭がついていかない。これは一体……?!
「ギル……」と、その少女が悲し気に自分の名を読んだ。暗闇の中に浮かぶその少女は、姉さんの様にも見えるし違う様にも見える。だが、声は、自分を呼ぶその声だけは、姉さんのものだと確信出来た。
「ギル……」
「姉さん、なのか……? 本当に、姉さん?」
震える手を、その少女へと伸ばしていく。だが、その少女は届く距離にいた筈なのに、全く届かない。必死に手を伸ばしていくが、その分離れて行っているのか、縮まる事は無かった。
すると、その少女は閉じていた目を開けた。その目の色は藍色。生前の姉さんの目の色と同じ色……。そして、背中まである金色の髪をフワリとなびかせながら、その腕を私に向けて伸ばす。
「……ギル……」
「姉さん! やっぱり姉さんなんだね!?」
姉さんの伸ばした手を掴もうと必死に手を伸ばすが、全く届かない。その事に苛立ちを感じ始めた時、姉さんの容姿をした少女は、伸ばしていた腕を畳むと、胸に抱える。
「……ギル、あなたなの? ギル……?」
「あぁ、そうだよ! 僕だよ、姉さん!!」
「……やっぱり、ギル、なの……?」
その少女──姉さんに自分がギルであると伝えると、少しだけ嬉しそうに、懐かしむ様に顔を柔らかくした。だが、それも束の間だった。姉さんは再び目を閉じると、その綺麗な顔を強張らせる。
「……そんな訳無いわ。ここは命を落とした者が来るところ……。ここにギルが来るわけが無い」
「いや、僕だよ、姉さん! 僕は死んだんだ! そして、ここに──姉さんに会いに来たんだ!」
必死に叫ぶ。手が届かないならば、せめて、声だけでも、心だけでも届けようと。
だが、それを受けた姉さんは、その顔に寂しさを浮かべて、
「ウソ、よ。だってギルは強い子だもの。私の双子の弟は、こんな所に来ないもの……」
「姉さん……」
「ギルの名を騙る、誰だか分からないあなた……。もし、あなたがギルに会えるのならば、伝えてください……」
そう言って、胸の前で組んでいた腕を私へと伸ばす姉さん。
「あなたは強い。私よりも。そして思い出して。あの時、あの熊を倒したのは誰だったのかを」
「あの熊は姉さんが倒したんだ! そうでしょ!?」
「違うわ。アレはギルが倒したの……。私はあの時、怯えて動けなかっただけ……。あの熊から私を助けてくれたのは、ギルなの」
「私、が、倒した……?」
その時、もう痛みを感じないと思っていた頭がズキリと痛む。そして、不意に訪れる光景。それは、雪深い森の中。
(これは……、あの時の……)
この光景を思い出すのは簡単だった。これは体調を崩した母さんの為に、薬草を採りに行った時の光景だ。
すると、それが正しかった事を証明するかの様に、幼いエルフの姉弟が現れる。それは紛れも無く私と姉さんだった。マントに毛皮の帽子、厚手の手袋姿の自分と姉さんが、深い雪の中を歩いていく。そして、そこに時期外れの熊が襲ってきた。
(この後の事は、知っている。私は怖くて気を失ったんだ。そして、起きた時には、姉さんが熊を倒していた……)
「違います……」
「姉さん?」
「……よく見て……。良く思い出して……」
姉さんに言われるまま、その光景を思い出す。すると、幼い私はその熊の迫力に押される様に後ずさりし、後ろにあった木の枝に足を取られ転んでしまった。その様子を見た姉さんが、私を守る様に、前に立つ。やっぱり、間違っていない。私は姉さんに守られていた。あの熊を倒したのは姉さんだ──。
「ほら見ろ。やっぱり僕の言う通りじゃないか──」
「良いから、良く見て……」
私の勝ち誇る様な声。それを遮り、続きを見る様に促す姉さんに、私はやれやれと続きを見る。
時期外れの冬眠から覚めた熊は、かなり腹を立てている様だ。勝手に冬眠から覚めておきながら、なんて自分勝手なヤツなんだと毒吐いていると、熊は立ち上がり、姉さんに向けて左腕を払う。
『きゃあっ!?』
『姉さん!』
振り払った熊の腕が姉さんに当たったのか、姉さんは吹き溜まりになっていた雪に吹き飛ばされて行く!
「なんだ、これは!?」こんな展開、私の記憶には無い! 私の記憶では、姉さんは持っていた短剣で熊の爪を弾き返しながら倒していた! だからこれは違う──!
「いいえ、あの熊を倒したのはギルなの。良く見なさい」
弾き飛ばされた姉さんは身動き一つしない。その様子を見た熊が、『グルルッ!』と満足げに喉を鳴らすと、立ち上がっていた体を戻し、姉さんへと近づいて行く。冬眠期間中、何も口にしていないだろうその熊は、動かなくなった姉さんを食べる気なのだ。その証拠に、口元からボタボタと涎を垂らしている。
だが、その熊が姉さんの元へと近づく前に、一人の男の子が立ち塞がる。──私だ。
項垂れながらも、薬草を採る為に持っていた短剣を手に持つと、目の前に立つ大きな熊に向けた。
自分の目の前に急に現れた幼い私を見て、『グルッ!?』と戸惑う声を上げる熊。だが、相手はただの小さな子供、自分の脅威にはならないと踏んだ熊は再び立ち上がると、先程よりも速く、その左腕を振るう! エサを前にして邪魔をされた事に腹を立てたのだ。
ブゥン!と音を立てて迫ってくる左腕。それは幼い私にとっては、死神の鎌と同じ意味。そんな恐るべき一撃が幼い私に届くかと思われた時、フッと、その姿が消える。
『グル!?』と、驚いた声を上げる熊。振るった左腕と、幼い私が立っていた場所を交互に見ては、首を捻っている。だが突然、捻っていた首が頭ごとポトリと地面に落ちた。そして、少しの間を置いて大量に噴き出す熊の血。
そして、力を失った熊の体が真っ赤に色づいた雪の上に倒れ込むと、その背後から現れたのは、幼い私だった。その私も、意識を失った様に、雪の上へと倒れ込む。──そこで、また暗闇へと戻された。
「……今のは、一体……?」
言葉が口から出て来なかった。今見せられたのは、一体何だったのか……?
「今のが真実、よ」
「う、嘘だ! 僕は木を失っていたんだ! それで、起きたら姉さんがあの熊を倒して──」
「いいえ。それはギルが自分に都合の良いように変えた記憶よ。真実はこれなの」
そう言った姉さんは、気付けばすぐ近くに来ていた。そして、あれほど手を伸ばしても届かなったはずなのに、姉さんのその細い腕は私の頭をそっと撫でる。頭にそっと掛かる重さはとても懐かしい感触だった。
「……ギル、もう良いの。もう、あなたは私を追い掛けなくていいの。私よりも劣っているフリをしなくても良いのよ……」
「──!?」
驚き、目を見開く。「そんな事は──!?」と否定する口に、そっと指を添えると、姉さんは優しく微笑んだ。
「ギル、あなたはいつも私を姉として立ててくれたわ。姉としてのプライドを守る為に。でも、もう良いの。もう、良いのよ……」
「姉さん……」
「あなたはとても優しい。私はその優しさにとても救われたわ。だから今は、あの人達を助けてあげて、ね。私を助けてくれた様に……。あなたにはそれが出来るわ」
フワリと笑う姉さん。すると、姉さんを覆っていた光が少しずつ弱くなっていく。
「嫌だよ、姉さん! 僕はそっちに行く! 姉さんと、皆の居る所に行く!!」
必死に手を伸ばす。姉さんは簡単に私に触れられたというのに、私が幾ら手を伸ばしても全く届かない。
「嫌だよ、姉さん! 行かないで! 僕を置いて行かないでっ!」
「おいて行かないわ、ギル……。私はいつもあなたと一緒に居るもの……」
さらに弱くなっていく光。遠ざかっていく姉さん。それを手繰り寄せようと、手を伸ばし、姉さんを呼び止める。
「そんなの嫌だよ。僕は、いつもこうして姉さんと話していたいんだ!」
「大丈夫。ギルの言葉は私に届いているから……」
「それは一方的過ぎるよ! 僕はもう戻りたくは無い! 姉さんの居ない世界で、これ以上生きていたいと思えないんだ!」
「……ギル……」
姉さんの困った声。私の聞きたかった声はそんな声では無いのに……。
「……ギル、会えるわ。私達はまた会える。きっと、絶対に……」
「姉さん……」
「だって、私達は双子の姉弟ですもの。だから絶対に引き寄せ合うわ。だから、今はエルニア様をお助けしてあげて、ね?」
「姉さぁん……」
「もう、ギルは相変わらずの泣き虫さんね。そこは変わらないんだから……」
そう言うと、姉さんは一際大きく輝く。そして、私をそっと抱きかかえる。
「ギル……。私の大切な弟……。だから、生きて……。私の分まで……。村の皆の分まで……」
「……姉、さん……」
「約束して、ギル。最後まで生きるって。生きて、必ず」
「……ぅん……」
そう返事をせざるを得なかった。で無ければ、姉さんは、僕の大切な姉さんは許してくれないと思ったから。
子供の様に泣きじゃくったその目を拭う。そして、気になった事を聞いて見た。
「ずるいや、姉さんは。いつから私がギルって気付いていたんだい……?」
「ふふっ、そんなの最初からに決まっているわ」
「……これだから、姉さんには敵わない……」
泣き笑いの様な顔をすると、姉さんも同じ様な顔をした。やはり私達は双子の姉弟なのだと、これならきっと、また会えると何処か安心した自分がいた。
それが合図だったかの様に、急速に光を失っていく姉さん。最早、殆ど見えなくなっていた。その急激な変化に、慌てふためく。
「姉さん!」
「大丈夫。きっとあなたなら出来る……。だから、きっと……」
そこで、姉さんは消えてしまった……。そして辺りは再び真っ暗になる。
姉さんとの思い掛けない邂逅を果たした私は、胸にポッカリと大きな穴が開いた気分だった。だけど、いつかその穴は塞がるだろう確信があった。姉さんが必ず会えると、そう言ってくれたから。
(だから、今は……)
体の中を探る。すると、微かに魔力が残っていた。まだ私は死んでは居ない様だ。
(ならば……)
微かに感じたその魔力を、心の臓がある場所──魔力を生み出すとされる個所に集中させる。すると、体に少しずつ熱が籠もって行った。そして、体が浮遊を始める。浮いて行くその先には、針の先程の大きさの光の穴が見えた。
(恐らく、そこが出口……)
残っていた魔力を回していた箇所が、さらに熱くなっていく。それに伴って、上昇する速度も上がり、針の先ほどの大きさだった光の穴が、その大きさを広げていく。
そうして、真っ暗な世界から抜け出す前に、もう一度、視線を下に向けた。そこには当然、姉さんの姿は無かった。それでも、私は呟いた。それはあの時以来、言う事の出来なかった言葉……。
「……さようなら……、姉さん……」