第六十九話 これが魔物の魔力なの
携行ランプを手に持った父さんの後に続いて、家を出た僕と姉さん。まだ陽の星は上がっていない様で、周りにそびえる木々も森はその暗闇の中にひっそりと姿を隠していた。家から出ても鳥の声はおろか、春虫の上げる音すら聞こえてこない。
(うぅ~……)
夜露に濡れた、教会へと続く道を歩く僕達。外に出ると、例の気持ち悪さは弱くなるどころか、さらに強く感じられる。何だろ? このモワっとした感じ。
「何だろ、気持ち悪い……」
「空気が違うんだわ。とても嫌な空気。この森の精霊たちが怯えている様な。悪い胸騒ぎがする……」
僕の独り言に、隣を歩いていた姉さんが、真っ暗な森を見渡しては体をブルリと震わせた。そんな姉さんを横目で見ながら、前を歩く、灰色のマントをスッポリと被った父さんの背中に声を掛ける。
「父さん、母さんは?」
「ウッドゲイトの所だ」
「ウッドゲイトさん?」
「あぁ。アイナさんとミーナを、教会に連れてくるためにね。ウッドゲイトの事だから、すでにこの異様な魔力を感じ取っているだろうが」
「──! そうだ、魔力だわ!」
「姉さん?!」
父さんの言葉に、隣を歩いていた姉さんが立ち止まる。暗闇の中、いきなり上げたその声の大きさに驚いた僕も立ち止まって振り向くと、姉さんは顎に手を当てて、何やらブツブツ言っていた。そして、
「この嫌な感じ……、これと似た様なのを、どこかで感じた事が有ったと思っていたのよ。でも、思い出せなくて……。でも、今の父さんの言葉で思い出したわ。選抜試験の時に相手だった男の子が、私にぶつけて来た敵意のある魔力、あれに似ている」
「姉さん」
「……でも、あれよりももっと気持ち悪くて、纏わり付いて来るような」
「……これは“魔物”の魔力だよ」
「「──魔物!?」」
少し先で止まっていた父さんが、立ち止まっている僕達の元へと戻ってきて、辺りを見回す。その父さんの口から出た、思いもよらない言葉に、僕と姉さんは同時に驚きの声を上げる。
魔物──。この世界に在る、僕達とは異なる存在だと、そう、教会で教えられた。
エルニア様が創られたこのエルーテルで生きる僕達にとって、最も危険で忌み嫌われた存在だ。
この村にも、極稀に魔物が現れる時がある。僕が知る限りでは5回くらい。その殆どがゴブリンやスライムと言った、あまり強くない魔物だった。それでも、子供の僕にはとても恐ろしいけれど。
実際、僕も一回だけスライムを見た事がある。母さんと一緒に、家から少し離れた森の中に自生しているキノコを採りに行った時だ。母さんと離れ、一人でキノコを探していると、ニュルニュルとした水溜まりみたいな奴が、森の木の根元に貼り付いて、その木を溶かしていた。初めて見たスライムに、恐怖半分、好奇心半分だった僕が、思わず「うわっ!?」と声を出すと、木を溶かした事で、その体を茶緑色に変えたスライムが、ニュルリと形を変えて、僕の方へとモゾモゾ移動してきた。あまり動きが速くなかったし、すぐ近くに居た母さんが放ったファイアーボールで、すぐに蒸発してしまったから、そんなに怖くは無かった。僕にとっては、あの時の熊の方がよっぽど怖かった。
そのスライムも魔力を放っていた。でもこんな、身の毛もよだつ、おぞましい魔力では無かった。こんな魔力をあの時のスライムが放っていたとしたら、僕は恐怖で漏らしていたかも知れない。
「これが魔物の魔力なの、父さん?! 私、西の大里に向かう時、狼の魔物のマッドウルフに襲われた事があったけれど、こんな禍々しい魔力を放っては居なかったわ!」
被ったフードの奥に見える姉さんの顔は、不安の色に染まっていた。僕が出会ったスライムよりも強い魔物であるマッドウルフと遭遇した姉さんが、ここまで怯えてしまうなんて。
「一体何なの!? こんなに強大で禍々しい魔力を放つ魔物って、一体何なの!? 父さん!?」
「……分からない。私もこれほどの魔力を放つ魔物には出会った事が無いからね。ただ……」
同じく頭にスッポリとフードを被った父さんに詰め寄る姉さん。その姉さんの肩に両手を乗せると、父さんはスッと、暗く広がる森の奥を見つめ、
「……もしかすると、旗の魔物かもしれない……」
そう、口にした。
☆
闇色だった空が、ほんの僅かに色を取り戻し始めた頃、僕たちは教会へと辿り着いた。
普段は森の中でひっそりと佇んでいる教会が、今はその外壁にある燭台全てに蝋燭が灯され、また、その周りにも篝火が焚かれていて、ミーナが飾り付けた教会の外壁を照らしていた。その日常からかけ離れた姿に、僕の心はザワザワとした不安で埋め尽くされた。父さんの後ろで並んで歩く姉さんも同じ気持ちだろうか?
教会の外壁を回って、玄関に向かおうとした時、
「お前たち」
「うわっ!」「きゃっ!?」
角からヌッと出て来た影が、僕たちの行く手を遮る。突然出て来た影に驚いた僕と姉さんは、僕たちの後ろに居た父さんの背中に急いで隠れる。
「……うちの子供達を脅さないでくれるか、ウッドゲイト」
「え、ウッドゲイトさん!?」
父さんが呆れた声で、その影に文句を言う。父さんの口から出た影の正体の思わぬ名前に、隠れていた背中から顔を出した僕は、篝火で照らされたその顔をまじまじと見ると、確かにウッドゲイトさんだった。だけど、その表情には、普段の人懐こい笑みが消えていた。
「すまん、脅すつもりは無かったんだ」
「どうだかな。それで、全員、中に居るのか?」
「あぁ。大体はな。だが、まだ何人か来ていない。それで、カエラさんは?」
「カエラなら今、アイナとミーナを迎えに行っているよ。お前の事だ。この魔力を感じて、何も言わずに家を出て来たんだろ?」
と、父さんがウッドゲイトさんに聞くと、ウッドゲイトさんは金色の短髪をポリポリと搔いて、
「あぁ。これほどまでに嫌な魔力を感じては、な。カエラさんには、手間を掛ける」
「いや、お互い様さ。お前だって、忙しい中アイシャに付き添ってくれたしな」
そう言って父さんは軽く頷くと、ウッドゲイトさんはフッと軽く口角を上げる。ちなみに、カエラさんとは、母さんの名前だ。
その後、ヒョイッと体を傾けると、父さんの背中に隠れていた僕達を覗き込んできたウッドゲイトさん。
「そうか。それで、三人だけで教会に来たのか」
「あぁ。……それで、お前はこの魔力をどう思う?」
「魔力は村の北側から感じた。恐らく、北側に森に潜んでいた魔物だろう。だが、いつもの狼やゴブリンの類じゃない。もっとねちっこくまとわりついてくる様な嫌な魔力だ。──かなり厄介な相手だろう。──もしかすると、旗、かもしれん」
「あぁ。私もそう思う。だから、ここに子供達を連れて来たんだ。魔物への対応は?」
「さっき、カイルとキートンを向かわせた。二人はこの村の中で、目と足が良いからな」
「確かに。それで、避難の状況は?」
背中から顔を出した僕と姉さんの頭にそれぞれ手を乗せると、父さんはウッドゲイトさんに質問する。父さんの質問を受けたウッドゲイトさんは、後ろを振り向いた。そこには教会の入り口がある方だ。
「さっきも言ったが、おおかたの人間がここに居る。さすがにここまでの魔力だ。皆気付いて、教会に避難してきたみたいだが、まだ何人かは来ていない。だから今は、来ていない人の所に迎えをやって、連れてきてもらっている所だ」
「来ていないのは誰だ?」
「ダンカンとドロシー、ミッコリ、それとマギーとラモンさんだ」
「そんなにか……」
「あぁ。その内、ダンカンとドロシーの家と、ミッコリの所には人をやったんだが、マギーとラモンさんの所には誰も向かわせてはいないんだ」
「どうして? マギーはともかく、ラモンさんは足が弱い。誰かの手助けが必要だぞ?」
「そりゃそうだが、行かせたくても人が居ないんだ。いつもの避難なら迎えは二人で十分だろうが、これほどの魔力を放つ魔物だ。それに、ダンカンとドロシー、そしてミッコリの家は、村の北側だろ?だから念の為、四人で迎えに行かせたんだよ。万が一に備えて、な。」
「それは良い判断だが、本当に他に誰も居ないのか?」
「あぁ。俺はこれから魔物が居るであろう所に向かわなくてはいけないし」
「そうか……」
腕を組み、難しい顔をする父さんとウッドゲイトさん。
重苦しい空気が漂う中、僕と同じ様に父さんの背中に隠れていた姉さんが、一歩前へと進み出ると、「私が行くよ!」と胸を叩いた。
それを見たウッドゲイトさんは、眉間に皺を寄せる。
「……子供の遊びじゃないんだぞ?」
「分かってるわ。でも他に行ける人が居ないんでしょ? それに、私はセンチュリーの候補生だわ。避難の手助け位やらなきゃ!」
「……どう思う?」
姉さんの言葉に、腕を組んで「う~ん」と唸るウッドゲイトさんは、父さんに話を振る。
「……アイシャの言うとおり、これからセンチュリーを目指すのならば、こういった状況への対応もしなくてはならないだろうが、さすがに一人というのはな」
ウッドゲイトさんと同じ様に、腕を組んで悩む父さん。そんな二人に姉さんは胸を張って自身満々に
「それなら大丈夫よ。ギルも一緒だから」と言ってのけた。
「ね、姉さん!?」
姉さんの思わぬ答えに、僕は思わず抗議の声を上げる。父さんもウッドゲイトさんも、そこで僕の名前が出て来るとは思っていなかったのだろう、目を丸くしている。
「ギ、ギルも、か?」
「えぇ、ギルも一緒によ、父さん」
「ぼ、僕も行くの!?」
「当たり前でしょ!? まさかギル? まだ夜も明けていない森の中を、女の子一人歩かせないわよね?」
「それは姉さんが勝手に──」
「あー、聞こえなーい」
自分の耳を塞いで、「あーあー」言っている姉さんに呆れた視線を向けていると、背中をバシッと叩かれた。
「こりゃ、一緒に行くしかないな、ギル!」
「そんな!?ウッドゲイトさんまで!?」
背中を叩いてきたウッドゲイトさんは、僕を見てニカっといつもの笑みを浮かべている。父さんもウンウン頷いていた。どうやら、僕の味方は居ない……。
その状況に満足した姉さんは、僕の手を強く握るとニパッと白い歯を見せ、「さ、行こっ!」と僕を導く様に手を引くのだった。