第六十話 韋駄天と疾風
★ 凡太視点 ★
《とうとう二人とも、消えてしまいましたぁ!!》
実況のお姉さんの戸惑う声が、会場に響き渡る。それと同じくして、ざわつく会場の観客たち。
たしかに、闘技場からはミケもゴブリンの姿も見えない。だが、誰も居ない筈の闘技場から聞こえる、金属同士が奏でる高い音と、体がぶつかりあう音が、二人が戦っている事を如実に表していた。
闘技場の上空で地面で、音が弾けては消える! そうして会場内を音が支配する中、俺達は固唾を飲んで、二人が現れるのを待っていた。
すると、不意に二人が闘技場の中央に現れる。二人の距離は少し離れ、互いが互いに背を向けていた。ミケは膝に手を付き前かがみに、ゴブリンは少し顔を上げて立っている。
ゼイゼイと肩を大きく上下させ、苦しそうなミケとは対照的に、ゴブリンに目立った疲れは見られない。俺達の視界の外で行われていた戦いは、相変わらずゴブリン有利で進んでいるのか!
「おい、ミケ! 大丈夫か!?」
「かはっ、ごほっ」と苦しそうな咳をするミケに声を掛けるが、あまり反応は無い。やはり、ミケではあのゴブリンに勝てないのか!?
そんな絶望に襲われていた俺の目に、くるりと体の向きを変えたゴブリンの姿が映る。「──あ」とそこに覚えた違和感に、俺は思わず指を指してしまった。
赤青いゴブリンの剥き出しの腹に、ほんの少しだけ、紫色の線が見えた。その線は。この試合初めて、ミケの攻撃がゴブリンを捉えた事を示していたのだ!
『……』
何も言わずに、短剣を持っていない左手で、その傷をスッと投げるゴブリン。そして、自分の血が付いた手の平をそのまま、目の前にかざすと、フルフルと体を小さく震わせた。
『……こんの、猫女ガァ!!』
それは怒りによる震えだった。その怒りを口から吐き出すと、すぐさま姿を消すゴブリン。そして、肩で息をしていたミケの姿もまた消える。
そうして、見えない攻防がまた始まった。見えない事に苛立つ観客と戸惑う実況のお姉さん。
先程よりも増えたその攻防の音だけでは、会場の観客たちを満足させる事が出来ず、実況のお姉さんも何を話していいのか分からないと、マイクがオロオロとした声を拾い上げる。
そんな小さな混乱の中、俺は隣に立つギルバードに視線を向ける。
「どっちが有利だ!?」
「……分かりません。ようやくミケの攻撃が旗のゴブリンに当たる様になったみたいですが、それまでのダメージが大き過ぎます。このままではゴブリンを倒す前に、ミケの体力が底をつくでしょう」
「そうか。で、ギルバード。お前はミケがあんなに早く動けるって事を知っていたのか?」
ミケがその姿を消した時、ギルバードは何やら呟いていた。それが、今のミケの速さの謎についての事ならば俺も知りたいと思ったのだが、ギルバードは首を横に振ると、それを否定する。
「いえ、そこまでは。あの木々に囲まれた素晴らしい神殿にご厄介になっている時に、天殿と何か鍛錬じみた事をしているのを、何度か見た事が有りましたが……。まさか、あそこまで速く動けるなんて、知りませんでした」
「あれは魔法か?」
「……いえ、違います。確かに速く動ける様になる魔法で、“ムービング”というのはあります。そして、ミケはこの試合が始まってすぐに、その魔法を使っていました。ですが、今はその魔法を使ってはいません。ミケの足が光っていませんでしたから」
「確かに、初手の突進の時は足が淡く光っていたけれど、あれって魔法だったのか……」
試合が始まってすぐにミケが繰り出した最初の突進の時、確かにミケの足は光っていた。あれは魔法だったのか。
するとまたもや、闘技場の中央に姿を現す二人。その二人に多少の変化があった。
相変わらず、肩で息をしているミケ。だが、さっきは膝に手をつき、ゼェゼェと苦し気だったが、今はそこまで疲労困憊という感じは見られない。
対するゴブリンの変化はもっと顕著に表れていた。
まずはその体。先ほどはそのでっぷりと出ている腹に、薄い傷が一本入っていただけだったが、今はその腹だけで無く、腕や足にも傷を増やしていた。その内の数か所からは、紫色の血が流れ出ている。
そして、その顔だ。最初の頃に浮かべていた、余裕と自信、そして嘲り。それが今、不安と動揺、そして恐れに変わっている。
それは、旗という魔物の中で圧倒的な強さを誇っていた自分が、ただの獣人の一人に傷付けられた事を受け止めきれない気持ちの表れなのだろう。
前にミケは言っていた。旗はそれ一人で、獣人族の村を壊滅出来る存在だと。ならば、魔物の中でのエリート意識というのがあるのかも知れない。それが今、ミケによってズタズタに切り裂かれたのだ。
「──まだ、無駄な動きが多いにゃん──」
いつの間にか息を整えたミケが、そう呟く。そして消える。見れば、ゴブリンもまたその姿を消していた。
そうしてまた音の乱舞が始まるが、それは長続きしなかった。
十発程度、音が破裂したかと思ったら、再び姿を現す。そこにあったのは、明らかな変化だった。
ミケはその呼吸すら乱しておらず、ゴブリンは片膝を突いていた。
ミケの傷は増えては居なさそうだが、ゴブリンはその体に大小の傷を刻んでいた。
ミケはその瞳を真っ直ぐに前に向けていたが、ゴブリンは俯き、地面を見つめていた。
『……何でダ?』
俯きながらミケに問うゴブリン。ポタポタと、地面に紫の血を垂らしながら。
『……その速サハ、ナンダ?』
「──カラスと追い掛けっこしていたら、速くなったにゃ」
『フザケルナァ!!』
吼え、消える! ミケもまた消えた。
そして次に現れたのは、五つ音が鳴った時。傷の増えたゴブリンと、そのゴブリンと先程よりも近い所に立つミケ。
『ギィイイっ!!』
歯軋りの音が聞こえ、また消えた。三つ音が鳴ってまた現れた。さらに傷が増え、深くなっていく。距離もまた縮んでいく。
『ヌァァアアァア!!!』
両手、両膝を突き、四つん這いのゴブリンが喉の奥から悔しさを絞り出す。そして消えようとその姿がブレた時、ミケのナイフがその喉元に突き付けられていた。勝負に決着がついた瞬間だった。
「──速、い……」
ギルバードが掠れた声を上がる。俺もまた、驚きのあまり息を飲んでいた。
「──参ったかにゃ?」
その体は満身創痍。一番深い太ももの傷からは、巻かれた包帯越しから、血が滴っている。
だが、勝った。ミケは勝ったのだ。
四つん這いのゴブリンは動かない。いや、動かないのだ。もう詰んでいる。少しでも動けば、突き付けられているミケのナイフが、その喉を貫くだろう。
──その時──
《──おい》
土手の横に立つ、白髪の老人が、土手からマイクを受け取ると、ゴブリンの旗に向かって、声を掛けた。すると、ビクリとここからでも判る位に大きく体を震わすゴブリン。その顔に大量の冷や汗を浮かべている。そんなゴブリンに対し、白髪の老人が一言、
《これ以上、わしに恥をかかせるの、か?》
ビクッと、もう一度体を震わすと、その後、カタカタと細かく震えだすゴブリン。そこにあるのは恐怖だった。あの旗のゴブリンをたった一言で、あそこまで震わすなんて、あの老人は一体!?
すると、四つん這いだったゴブリンは、喉元にナイフがあるにも関わらず、強引に起き上がる!サシュっと肉が裂かれる音と共に、ゴブリンの喉元に新たに傷が増えた。だが、致命傷にまでは至っておらず、立ち上がったゴブリンは持っていた短剣を目の前に居るミケに突き入れる!!
『死ねエェェ!!』
「──!?」
「ミケっ!?」
対するミケは、勝ちを確信していたからなのか、まさかあの状態でゴブリンが動くとは思っていなかったのか、対応が遅れてしまう! このままでは、ミケの顔目掛けて襲ってくる短剣を躱す事が出来ないと思われたその時──、
「──韋駄天」
まるで息をするかの様にそう口にしたミケの体が、消えた。何も無い空間を通り過ぎるゴブリンの短剣。
『ギギギィ!? どこだ!? ドコ行っダぁあ!!』
半狂乱になり、短剣を振り回すゴブリン。お得意の、自分の姿を消す程のスピードを使う事もせず、その場で壊れた独楽の様にクルクルと左右に体の向きを変えながら、姿の見えなくなったミケを探す。
すると、マジックビジョンを使っていた俺の目が、ゴブリンから離れた所に、光の塊を捉えた。間違いなくミケだ。ゴブリンは気付いていない。空中に向かって吼えては、短剣を振り回しているだけだ。
「──突進技──」
ミケがスッと、右足を引く。そして脇を絞り、右手を静かに引き付ける。
そして、その口が動いた。勝利すらも引き付ける言葉を紡ぐ。
「──疾風!!」
☆ ミケ視点 ☆
「韋駄天~?」
初めてカラスを捕まえられたその喜びが全身を駆け巡り、酷使してきた体が「休ませろ!」と訴えかけ、お腹の虫が「腹減ったぁ」と情けない声を上げていた。
そんな色々な感情が一気に来た事で、私はバタリとその場で倒れてしまった。多比良姫様という名の、この国の神様から頂いた“着物”という、緑色の独特な服が汚れてしまうが、いつもの事である。「まだたくさんあるから、気にするな!」と多比良姫様は仰るだろうし、「また洗い物を増やして……」と、スズメにぶちぶち言われるが、いつもの事なのだ。
見上げた空は背高く伸びた木々のせいで狭いが、それでも夕方前の青と赤の混じりそうな、独特な色を、私に見せていてくれた。
そうして寝転んでいた私を、覗き込む影が一つ。先ほど、私にその足を掴まれた、赤い変なお面を付けたカラスである。
そのカラスは、私に捕まって悔しい顔でもするのかと思いきや(実際見えないんだけど)、意外にも、私がカラスを捕まえた時に見せた動きについて、説明してきた。その中で出て来たのが、“韋駄天”。
「うむ。先ほどお主が見せたその足運び。体の使い方。そして体重移動。それらが理想的な形で結ばれた時、発動されるのが、あっしが得意としている移動術、“韋駄天”だ。お主がこの韋駄天を自由に使える様になれば、今よりももっと速く動ける様になるだろう」
「……今よりも、速く……」
その言葉は、このカラスとの追い掛けっこで深く傷ついた、私のプライドを癒す様に染みわたって行った。
ムクリと上体を上げると、隣に座ったカラスに、
「じゃ、じゃあ、そのイカ天をマスターすれば、私はもっと強くなれるのかにゃ?」
「イカ天では無く、韋駄天な。全く、お主はどこまでも食い意地が張って──」
「良いから! 強くなれるのかにゃ!?」
思えば私は強さに必死だった。たった一匹のオークの旗に村を好き放題され、ヘンテコな世界で、ヘンテコな人族に得意技を受け止められ、そして、リザードマンの旗に為すすべ無くやられた。戦士としてのプライドは最早ズタズタだった。戦士である私が、ああも簡単に負けて良い訳無いのだ。だから強くなりたかった。
でも、どうしていいのか分からなかった。神の使いさまにも、ギルさんにも相談した。でも決まって、「大きくなれば、自然と強くなる」と言われた。
私は今すぐ強くなりたかった。すぐにでも強くなって、私は私を取り戻したかった。
その方法を、一番嫌いなヤツから教わる事になるとは思わなかったが、目の前にその答えがあるかもしれない。ならば、好き嫌いなど言ってはいられない!
余りにも必死な私に、天狗は少し言葉を詰まらせたが、ポンと、草の混じった、今のオレンジ色の空と同じ色をした頭に手を乗せると、
「──あぁ、強くなる。まだまだ無駄が多いがな」
と、私がずっと欲していた言葉を聞かせてくれた。
その後、「あっしを捕まえられたご褒美として、協力するか」と、晩御飯を迎えるまでの短い時間、カラスにあれこれと相談しながら完成したのが、私の一番得意な突撃技を、名前を付けるまでに昇華させた、“突進技 疾風”だった。その名前は、「この国で、速い物を意味する言葉だ」と、カラスが教えてくれたもの。
“疾風”が完成した時、私は喜びの余り泣きそうになってしまい、生意気なカラスに頭を撫でられたのはまた、別の話になる。
──だが、これだけは言える。そのお面の奥にある顔は見えないけれど、きっと優しく笑ってくれていた、と──。