第四十三話 やっと、俺のターンかよ
──あの日、俺は喜んだ……。この世界はやっと俺に手を差し伸べてくれたんだと──
「……やっと、俺のターンかよ……」
都内のど真ん中に、金持ち達の新たなステイタススポットとして建てられた、低層に商業エリアも兼ね備えた巨大なビル。その屋上にある屋上緑地の一角に座りながら、俺は一人愚痴た。
ここに来る事自体初めての事。だが、それも当たり前だ。ここに来る事の出来る人間は、このビルの最高層に程近い、金持ち中の金持ちだけなのだから。
すくりと立ち上がり、落下防止の為に取り付けられた柵、それすらも乗り越えると、さらに進んでいき、ビルの縁、ギリギリの所まで進む。
眼下には、白、赤、青に黄色と様々な光が溢れていた。観る者が観ればとても美しい光景なのだろうが、今の俺には眩し過ぎて、吐き気すらする。
「それも今日でお終いだけどな……」
そう口にした自分は、果たして笑っているのか、それとも泣いているのか……。
片足を一歩外側へと踏み込ませてみた。そこには何も無い。百数十メートル下に硬いアスファルトがあるだけだ。
すると突然、俺の目の前に今までの人生が思い起こされる。なんとも気の早い走馬灯だ。
そこに映し出された俺の一生は、あまり良いものでは無かった。いや、良い事が有ったのだろうか。せいぜい俺が生まれた事で両親と、祖父や祖母を喜ばせた事と、まだ痩せていた幼稚園の頃に、徒競走で一等賞になった事位だろうか。
(この頃までは、本当に良かった……)
心の底からそう思う。大人になると、何時の自分に戻りたいという話題が良く出て来るらしい。小学校の頃に、中学の頃に、高校の頃に。大学の頃に……。
この世の大人全てだとは思わないが、大概の大人が一度はそう考えた事があるらしい。現代社会の大人達はそれだけ疲れ切っているという事か。
だが、高校生の段階で過去の自分に戻りたいと考える人間が、果たして何人居るだろうか?
走馬灯はちょうど、過去に戻りたいと半ば本気で考えている、こんな自分になってしまった、ある事件を映し出す。
忘れもしない、そこは地元の小学校の教室だ。そこで、三年生になったばかりの俺が、他の生徒と一緒に、算数の授業を受けている。黒板に担任の先生が簡単な問題を書き、その答えが分かる児童が手を上げて、先生に指名された児童が前に出て答えるという、どこにでもある光景。
そんな、どこにでもある光景が、まさかその後の人生を大きく歪める事になるとは、この時の俺は想像だにしていていなかった。
走馬灯の中で、先生が教壇の前に立ち、「この問題、解る人~?」と言うと、そこかしこから「「はいは~い!」」と、手を上げてそれに応える児童たち。その中には、当時は頭の良かった俺も居る。そして、その隣には、当時の俺が好きだった、黒髪にリボンが良く似合うとても可愛らしい女の子が、俺と同じ様に手を上げていた。
俺も隣の女の子も、先生に指名されて欲しくて大声でアピールしながら、少しでも先生の視界に捉えられる様に体を伸ばしていった。
余りに熱気を帯びた児童のアピール合戦に、隣の教室から苦情が来ると思ったのだろう、担任の先生が少し静かにしようねと窘め、児童が声のトーンを抑えた時、それは起きる──。
プゥ~……
穴から空気が漏れる音、所謂オナラの音が静かになった教室に鳴り響く。その教室に居た誰しもが聞こえただろう、オナラの音。
「え~っと」と担任の先生が対応しようとした瞬間、ドッと笑い出す児童たち。それもそうだ。大人になれば、いや、高校であってもオナラの音位では、誰も笑わない。むしろ気を使って何も言わないまである。だがそこは小学三年生、チンコだのウンコだのと言っていれば、笑いの取れる程の低知能な年代だ。
「オナラだぁ!」「くせぇ!」だの、先程のアピール合戦以上の盛り上がりを見せる教室内。先生もそれを宥めようとするが、面白い事に一度スイッチが入ってしまうと、それを切り替えるのも難しい年代だった。そして──
「誰だよ、一体!?」と、誰かが言ったのを皮切りに始めった犯人捜し。それぞれが席を立ち、他のクラスメイトの所に行っては、「ここは臭くないな!」「ん、お前か!?」「俺じゃないよっ!?」等と収拾が付かない事になって来た。
そうした中、俺は音が聞こえた方向、オナラをした犯人を知っていた。隣の女の子である。その女の子の向こう側は窓、つまりその女の子しか居ないのである。恐らく、アピールする為に体を伸ばした事で、肛門が緩んでしまったのだろう。ま、そんな事はどうでも良い。
俺はチラリとその女の子を見る。すると、私が犯人ですよ!と言わんばかりに顔を赤く染めて俯いていた。そんな顔を見てしまった俺は慌ててしまう。誰が見たってこの子が犯人だと判ってしまうからだ。そんな時、「こっちかぁ?」と、男の子が一人、こっちに近寄ってくる。ビクリと肩を大きく震わす女の子。黒髪から覗くその顔は、今にも泣き出しそうだ。その顔を見て、俺は覚悟した。──俺が庇おう、と──
「ん~?」と近寄ってくる男の子に、「席に戻りなさい!」と先生が注意する中、
「ごめん~、俺がオナラしちゃたんだよ~」
アハハ~っと、さりげなさを頑張って演出して、自分が犯人だと名乗り出た当時の俺。そこには、クラスの人気者……とまでは言わないまでも、ある程度人気のあった俺ならば、そこまで辱めに遭うとは思えない事、隣の女の子を庇った事で、今よりももっと仲が良くなるかもという、小三なりの打算もあった。期待もあったのだ。「んだよ、お前かよ~! しょうがねぇなぁ!」「さっきは庇ってくれてありがとね。これからも私と仲良くしてくれる?」と、この先に待っているこの先を想像していた。──そして、その期待や想像は大きく外れる事となる──
「え? オマエなの?」 近付いてきた男の子がドン引きしている。……あれ?
「んだよ、アイツかよ。つまんねーの」 クラスの誰かがそう呟く。……いやいや?
「さいて~」と、少しは慣れた所に座っていた女の子が、冷たい目で見る。……そうじゃないよね?
クラスが一斉に、俺を非難する声を上げる。その中には昨日ゲームで盛り上がった奴も居た。俺の家に泊まりに来た事のある奴も居た。遠足で俺と同じ班になって喜んでいる奴もいた。俺と仲の良い奴がたくさんいたのだ。そいつらまでもが、俺を非難する。……違う……。
そして、隣の女の子──実際にオナラをした、俺が庇った女の子を見た。
──そこには、庇った事に対する感謝の意など微塵も無く、軽蔑という拒絶のみがあった。そして、「先生!私、○○くんの隣に居たくありません!」などと言っては、エ~ンと泣き出す始末である。
「違う……」俺は恐ろしいものを見た。
「違うだろ……」俺は酷い裏切りを見た。
「違うだろ、そんなの……」俺は人間の黒さを見た。
そうして、その日以降、俺の人生は狂っていった。小学三年生の頃である。
そこからの俺は、見事なまでのいじめられっ子となっていた。あれだけ仲の良かった友達は一斉に俺から離れていった。楽しくて仕方なかった小学校が、地獄と化した。そして俺は不登校気味になる。あの頃は、小学生ながら毎日絶望していた気がする。
そんな俺を見かねた両親は、学校に説明を求めた。だが、学校からの回答は子供のやる事ですからと、そんなに大げさな事では有りませんと、それをことさら強調していた。
だが、両親はそんな言葉を信じなかった。それほどまでに俺が変わってしまったからだろう。そうして両親は、俺を違う学校に通わせる事を決意する。経済力のあった両親は、俺を少し離れたエスカレーター式の私立の学校へと通わせたのだ。学校が変われば、俺も変わると思ったのだろう。
そして実際、俺は変わった。いや、元に戻っていったと言った方が正しいだろう。完全に元通りとはいかないまでも、ある程度笑える様にまでなっていったのである。
だが、中学に上がった俺が、初めて自分の教室に入った時、あの時のリボンの女の子が居たのだ。その女の子は、俺を見た瞬間、少し大人になったその可愛らしい顔に昏い笑みを浮かべていた。そうして、俺の地獄の生活は復活する事になる。
つい最近、その女の子に当時の事について聞いた事がある。その女の子はこう言っていた。「中学受験で溜まったストレスを発散する、良いオモチャを見つけた」、と。オナラの件も覚えていて、自分を庇った事に対してなんて思ったのか聞いた所、「あの場では何も出来なかった。後で謝るつもりだった。でも、それすらも出来ない空気になっていた。だから謝れなかった。その内に学校に来なくなって、その機会すらなかった」と、釈明していた。
ウソかも知れない。助かりたかった一心で吐いた嘘かも知れない。
ホントかもしれない。これから死んでしまうのだから、今さらウソを言った所でどうにもならないと思っていたのかもしれない。
「今さら、どっちだって良いんだよ。それに、もう聞く事も出来ないしな……」
相変わらず、自分の片足を生の向こう側に出したまま、走馬灯を見ている俺。だが、ソレを見る気にはなれなかった。そこからの俺の人生に面白い事も、つまらない事も無いからだ。そこにあるのは、俺という名の、ただの肉人形に過ぎない。
誰かに殴られ、蹴られ、蔑まされ、拒絶されている俺だ。そこに何の変化も無い。違いもない。いや、伸びた身長と、身長以上の速度で広がっていく横幅だけが違うな。
そうして、ものの数分で俺の走馬灯は終わりを告げた。簡単な一生だ。自分の事なのに、笑ってしまった。腹を抱えて。こんなに笑ったのは、あの時以来か。
「そういえば、肝心な所の走馬灯は無かったな……」
一頻り笑ったあと、俺はふと思い出す。先ほどまで見させられた走馬灯。それにアレが無かったのだ。最後に映ったのは……あれ?なんだったっけ?
「……ま、良いか」
あまり深く考えなかった。どうせこれからする事に関係しないし、意味も無いからだ。
「……さてと」
軽く準備運動する。と、いっても片足を上げた状態で出来る準備運動なんてたかが知れているが。
最後に軽く背筋を伸ばした俺は、そのままトンっと、軽い気持ちで空中に身を投げ出した。
少しだけ上昇した体。それが徐々に浮遊に変わり、すぐさま落下へと転じていく。
先程まで眺めていた眼下の光たちが、凄まじい勢いで、大きさを増していく。地面が近付いてくる。
だが、さすが都内で一番の高層ビル。まだまだ地面との距離はある。ここまで距離が無くても良かったかも知れない。
そんな事を考えている間も体は落下していて、さきほどよりも確実に地面が近付いてきた。そこを歩く人の顔も、ある程度認識出来る様になってきた。誰かに当たったら嫌だなと、俺の中にあった、小さな善意が独り言を囁く。
あと十数秒ほどで、俺は見事に肉人形からミンチに格上げされる。そんな時、俺の耳元に──
「《主どの、戯れが過ぎますな》」
どこか老人を思わせるそんな声が聞こえた瞬間、落下のスピードは徐々に落ちて行き、やがてフワリと空中で止まる。
そしてそのままゆっくりと、まるでエレベーターの様なスピードで降りていくと、ピタリと両足が地面に着いた。
「何だ、今の!?」「何かの撮影!?」と、俺の様子を見ていた人々が騒ぎ出す。が、俺はそれを気にする事無く、耳に届いた声の主に、
「そんな事は無い。俺がそんな事をするとでも?」
「《いえ。ですが、大事の前ですから、何かが起きては困りますので》」
俺の問い掛けに、特に焦った感も無くそう返した声の主。今起きた一連の不思議な出来事も、この声の主が行った事だった。
別に何かに対して意趣返しがしたくて、ビルの上から飛び降りた訳では無いが、こうもあっさりと対応されてしまうと、あまり面白くない。
「……ふん」と鼻を鳴らすと、俺は周りで騒いでいる人達に向けて冷たい目を向ける。あれ以降、俺は人の目線というものが極端に苦手になっていた。
(ま、コイツ等は俺に何も関わりは無いんだけどな)
知らず握った手は、汗で濡れていた。人に見られるストレスで緊張したらしい。少しの間、握ったり閉じたりを繰り返して、手に浮いた汗を乾かしていると、
「──主どの、そろそろ──」
催促する声が聞こえる。それに「分かっている」と返すと、汗の引いた手を見つめる。俺がこれからしようとしている事に、ここに居る人達はどう思うだろうか?
(考えても仕方ない事だ。もう決めたんだ……)
首を振る。この世界は俺に優しくは無かった。この世界は俺を必要としなかった。この世界は俺に相応しくなかった。だから、決めたのだ。
そして俺は、己の中に居た、小さな善意に別れを告げる。そいつは、俺があの女の子を庇った後も、それは心の何処かで静かに小さく、それでも頑張って存在してくれていた。でも、これからの俺には必要無い。必要なのは、耐えに耐えて手に入れたこの力だけだ!
「分かった」 それだけを答えて、俺は何も無い空間に、すっかり汗の引いた手を翳す。周りに居る人達が、「何だ、あれ?」「なになに、パフォーマー?」「いや、それにしては顔と体が」と、ざわつく。そうした声を遮る様に、これ以上の雑言を耳に入れない為に、俺は宣言した。
「──ステータス……」と──