病院の怪 6
夢を見た。
ミナは台所にいる母の背中を見ていた。その時きっと、世界は幸せな音で満ちていた。
お母さんがいて、料理を作ってる。
それは、当たり前の日常のはずなのに、どうしてか、匂いも音も、何もかも思い出せなかった。
くるりと母が振り返る。振り返った母の表情は逆光に隠されていて分からなかった。
「お母さん…」
母は何も言わなかった。顔の見えない母は、コトリと音を立てて私の前に白いお皿を置いた。
出されたお皿には、何もなかった。
ミナはそれを見て、隣に置いてあったフォークを空のお皿に突き刺した。ガチンッと嫌な音が静寂の空間を切り裂く。
「お母さん。お母さん」
フォークを突き刺す。
母は何も言わなかった。
「お母さん。お母さん。お母さん」
ガチャンッと嫌な音が鳴る。
母は何も言わない。
「お母さん。お母さん。お母さん。ねぇ、お母さん…」
ガチッ、ガチャンッと何度も空のお皿に突き刺した。時にはキィと嫌な音を立てて、フォークの先が歪んでも、真っ白な皿にヒビが入ってもミナはその行為を止めなかった。
やがて、耐えられなかったお皿がパキンッと音を立てて真っ二つに割れた。
傷付いて、汚れて、真っ二つに割れたそれは、今のミナの心のようだった。
「私、お母さんの料理、食べたことないや…」
母とはこういうものだと知識として知っていた。それに『お母さん』を当てはめようとした。
けれど、音も匂いも知識としてしか知らないミナは再現出来ない。それが、目の前の何も入っていなかった割れた皿だ。
「お母さん。私、『主人公』なんだって。覚えてないし、そんなの知らないし、どうでもいいって思ってるけど…。でも、『主人公』ならさ、きっと、なんでも出来るよね…」
ミナはこの世界がゲームであることを認めたくなかった。だって、ミナは今を生きているのだ。それをゲームだとか、決められたことだとか、そんな敷かれたレールを歩くようなことをミナはしたくなかった。
だって、そんなのはつまらない。同じことの繰り返しの世界なんて、飽きてしまう。
だけど、この夢でミナは知ってしまった。
今まで当たり前だと思っていた日常は、ただの知識だった。食べるなんて行為、大体は一日に三回もあるはずなのに、ミナは経験したことがない。そんなの、可笑しいじゃないか。
幼い頃の記憶もない。記憶にあるのは、教室で目覚めた時から。友達も、先生も、お母さんですらも、ミナは知識として、もしくは鏡の言い方を真似るなら『設定』の一部として覚えているだけ。ミナ自身が築き上げたものは何一つない。
「お母さんに会うことがハッピーエンドなんだって。なら私は、ハッピーエンドのその先をいきたいよ」
割れたお皿の破片を握る。ピリッとした痛みが走って、赤い血がミナの手から滴る。
赤い血が白い皿を汚していく。家の台所が消え、母が消えて、段々とミナは夢から醒めていくのを感じた。
「ねぇ、お母さん…」
夢から醒める前に、ミナは真っ白な空間に呟いた。
「『世界』は『主人公』の為に動くものよね?」
それはどれだけ傲慢な言葉だろうか。
けれど、この世界において、ミナの言葉は概ね正しい。
ミナは言葉の端に疑問符を付けながらも、その口調は確信を持ったようにハッキリとしていた。また、その表情は、先が開けたように明るく、その目は勝利を確信していた。




