下半身のない女学生の怪 2
「可笑しい…」
教室を出て、階段を降りた。昇降口に向かう間、ミナは誰一人として会わなかった。
教室を出る前に確認した時計は六の文字を指していた。当然朝ではなく、夕方の六時だ。この時間帯なら先生や部活をしている生徒が居そうなものだが、そんな声も聞こえない。
広い学校に一人だけというのは、時間帯も相まって寂しいというようも言い様のない不安を感じる。
早足で昇降口に向かうミナの耳に、ズル…という何か重たいものを引きずるような音が入ってきた。
ズル…ズル…、と引きずる音は段々と大きくなって、こちらに近付いて来ているのが分かる。
これは見てはいけないものだ。
そう直感で判断したミナは息を潜めて、後退する。曲がり角を曲がり、壁に沿って前だけを見つめて後退する。
ズル…。ズル…。という音は今も聞こえている。
震えそうになる足を叱咤してミナは空いていた教室に入ってゆっくりと扉を閉めた。直ぐに鍵を閉め、窓の鍵が空いてないのを確認してから最後に音がならないようにカーテンを閉めて、反対側の扉を手で抑える。
ズル…。ズル…。という音が一定のリズムを保ってこちらに近付いて来ているのが分かった。
心臓の音が煩く、意図して息を吸い込み、吐き出す。それを繰り返して、音が通り過ぎるのを待った。
怖い筈なのにやけに冷静に動けている自分に内心驚きながらも、ミナは扉を抑え続けた。
それはまるで、これから何かがここを開けようとするのを知っているかのような動きだったが、それを指摘するものは誰もいなかった。
ズル…。ズルリ…。
音が近い。
ズル…。ズル…。ズルリ…。
きっともう目の前にいる。
…………………………。
音が止んだと思ったのは一瞬だった。
次の瞬間には、バンッ!!と激しい音がしてミナが入ってきた方の扉が叩かれた。
ガッ!ガッ!と扉を開けようとしているが鍵を閉めているので、鍵が壊れない限りその扉は開かない。
しばらくガッ!ガッ!という音が続いていたが、やがて諦めたのか、何かがまたズルリ…。と音を立てたのがわかった。
音がミナのいる方に近くなったことを確認し、ミナは、抑えていた扉の鍵を閉めて、先程まで何かが開けようとしていた扉の方に移動した。
ゆっくりと音を立てないように鍵を開け、音が少し遠くなったのを確認してそろ…っと扉を開けた。
廊下には、何かを引きずって出来たような血が一直線に伸びていた。
ミナはそれを見ても冷静だった。叫び声一つ上げることなく、淡々と扉を開けようとした何かの正体を見るべく少しだけ身を乗り出した。
その血の先にいたのは、下半身のない化け物だった。
ボタボタと上半身から血を流し、体を引きずるように這っている。顔は見えないが、横に垂れた長い黒髪から、その化け物が女であることが分かる。
その姿を見た時に、ミナの頭の中にある単語が浮かんだ。
【テケテケ】
下半身のない女性の妖怪。両腕を使い移動する際にテケテケと音がするためこの名が付けられた。時速100キロ以上の高速で追いかけてくるため逃げることはほぼ不可能。
追い払うためには呪文を唱える必要がある。
呪文とはなんだっただろうか…。
いくら考えてもそこだけがどうしても思い出せない。ただ分かったのは、見つかればアウトだということだけだ。
それでも、いつまでもこの教室にいる訳にはいかない。
ガッ!ガッ!と激しい音を立てて扉を開けようとするテケテケはこちらに気付いていない。それでも、この中にミナがいることを知っているのだろう。執拗に扉を開けようとする姿から、ミナはそう感じた。
「(逃げるなら、今…)」
ミナは音を立てないように慎重に教室を出た。
テケテケは未だ気付かない。
ドッドッと鳴る心臓が今にも口から飛び出しそうで、必死に口元を抑えた。
震える足を叱咤して、大丈夫だと自分に言い聞かせて、ミナは必死に、それでいて一歩一歩確実に足を進めていた。
長いように感じた時間は、実際には10分も経ってはいなかっただろう。それでもミナはその10分が1時間に感じるくらいには緊張していたのだ。
そうして、ようやく曲がり角にたどり着いた時、僅かな安堵と油断からミナの足が縺れた。
「ぁ…」
ダンッと転ばないように足を踏ん張ったことにより発生した音にテケテケは反応した。
「ア、ァァア…」
やけにゆっくりとした動作で、テケテケはミナの方を振り向いた。
「ヴ…ィ、ア……」
喉が潰れているのか、声はガラガラと嗄れていてその呻き声は獣のようだった。
「ィ……アァ…」
テケテケは顔だけ見れば可愛らしい女の子だった。
しかし、三日月に歪んだ唇は可愛らしさの欠けらも無い。あるのは凶悪に満ちた笑みだけだ。
伸ばされる手に、深まる笑み。
そのやけにゆっくりとした動作とわざとらしい表情がどんなに頑張っても私は死ぬのだと思わせるには充分だった。
「…ヴ…、イ……ァ…。」
感じたのは、恐怖と諦めだった。
私は、また死ぬのか…。と。
そう諦め、下を向いた。
「(死ぬ…。私は死ぬ。アレに殺されて。アレに…。あんな…)」
ふと、絶望の中で恐怖と諦め以外の感情がミナの中で生まれた。腹の底から燃えたぎるような激しい感情。それは、怒りである。
純粋な怒り。どうして私が、何度も殺されなければいけないの?
︎︎︎︎その怒りがミナの固まった体を解し、恐怖を打ち消し、そして常識を壊した。
「テケテケ風情が…」
「…ィィイイアァァアアア!!!」
ミナのポツリとした呟きは、テケテケの声に掻き消された。
ギュンッと音が付きそうなほどの速度で迫ってきたテケテケをミナはもう怯えた目では見ていなかった。
今のミナに恐怖はない。殺されるという恐怖は怒りに掻き消されて、諦めは最早思考の遥か彼方である。
はっきり言おう。
この時のミナは、もう正気ではなかった。
顔を上げたミナの目前には迫ってきたテケテケの顔があった。
ミナはそれに狼狽えることなく、闘志をその目に宿したまま、腰を落とした。
「テケテケ風情が粋がってんじゃねーよ!!!!」
グッと腰を落として、片足を前に出し、右手を引いたミナは、おらぁっ!という実に男らしい野太い声を出し、そのまま捻るようにして拳を前に叩き出した。
「ギィッ!!」
ゴギッという嫌な音がしてテケテケが吹っ飛んだ。
「ふははは!ざまぁみろ!!!!地獄に落ちろ!!!」
「!ギィアアアアアアアアアアァァア!!!!!ァ、ア…、イ、アァ!!!ィア…、ァァ……!」
ヤンキーさながらの中指を立てながらミナが叫んだ瞬間、テケテケが断末魔の叫びを上げて消えた。文字通り、スっと透けるようにして消えたのだ。
実はテケテケを追い払うための呪文は『地獄に落ちろ』であったのだが、ミナの頭からはすっかり消えていて、その言葉を放ったのは全くの偶然だった。
「消えた…」
ミナはテケテケが完全に消えたことを確認して、安堵の息と共に体から力が抜けていくのが分かった。
ミナはその場にへたり込むとズキリと痛みを訴える拳を労わるように手を添えた。
「いやぁ…。人間、追い込まれると何するか分かったもんじゃないね…」
はは、と力なく笑ったミナは、湧き上がったその怒りがプレイヤーの操作ミスで何度もテケテケに殺されたことへの恨みだったことなど知る由もない。
「相手に実体があってよかった。幽霊とかなら拳とかすり抜けちゃうだろうし」
ちなみに、本来のゲームではテケテケを消滅させることは出来ない。
学校を徘徊するテケテケの音を聞きながら回避し、見つかれば物陰に隠れるというのが本筋であるからだ。見付かれば最期、決して逃げられない。呪文を唱えるコードなんて有りはしない。
︎︎︎︎そんな探索を難しくする怪異・テケテケが消滅した今、ミナは何も気にすることなく学校を散策できるようになった。
しかし、そんなこともミナにとっては知ったことではない。
テケテケの怪、終