第七話 アルバイト
謎解きは次回にお預けです。
「じゃあ、また明日ね」
そう言い、食堂を後にする。時間はすでに午後一時を回ったところだ。由美ちゃんも私も午後の講義はない。
本当は、すぐにでもあの喫茶店に行きたい気持ちでいっぱいだ。けれど、わたしはアルバイトがあったので今度二人で一緒に行く約束をした。
喫茶店に行くことになったのは明後日の土曜日だ。調べて分かったのだけど、あの喫茶店は週に三日しか営業していない。そして営業時間も短い。やはり、一人で切り盛りしているからだろう。
あの日がたまたま営業日だったのも、通りがかりにちょうど店長さんが出てきたのも、全部偶然によるものだ。本当に運が良かったんだと思う。
そんなことを考えながら、暮羽駅に向かって歩く。このまま向かえば、授業が始まるだいぶ前に着くだろう。でも、歩調を緩めずにわたしは歩き続けた。できるだけ早く行って、授業の準備をしよう。
駅前の人通りは心なしかいつもより多い。すれ違うほとんどが若い人だ。きっと大学に向かう人たちだろう。
いつものトートバックから定期を取り出し改札を通り抜ける。一限目の始まる前の時間帯では学生で溢れる駅のホームも、この時間では電車を待つ人はそう多くない。
ちょうど、ホームに電車が入ってきた。電車に乗り込む。
空きが目立つ席のうちの一つを確保すると、わたしは教科書を広げ、授業の予習に意識を集中させた。
「こんにちはー」
そう言いながら、塾の入り口をくぐる。ちらほらと、こんにちは、と返事が返ってきた。見慣れた部屋の中ではすでに何人かのバイトが作業をしている。
この塾も、今年になって随分とにぎやかになったと思う。というのも、今年の大学一年生が例年より多く入ったのだ。
これまで各学年の人数は四人前後だったのに対し、今年の一年生は八人もいる。もちろん、途中でやめてしまう人もいるのだけれど、それを踏まえても今年はだいぶ人数が多い。
自分の席に着き、わたしは授業の準備を始めた。教科書を広げ、今日の範囲に合わせて小テストを作る。今日も数学と日本史の授業だ。数学はともかく、日本史はどこを出題するのかが難しい。悩みつつも、過去の問題を参考にして用紙のスペースを埋めていく。授業の準備も、ずいぶんと慣れてきたものだ。
この塾では、一年目のバイトが塾生のチューターや採点業務を、二年目以降が授業を主に受け持っている。学年は三月に切り替わるので、授業を持つようになってから三か月になる。
例年は二年生もある程度はチューターを受け持つらしいのだけど、一年生が多いこと、今年から現役生向けの塾に方針が変わったこともあり、チューターはほとんど一年生で担当していた。
ここで浪人していた私としては、現役生専門というのは少し寂しい所でもある。
そんなことがあって、今のわたしは授業がメインとなっている。仕事内容に優劣をつけるつもりはないけれど、授業をするようになってやりがいが増えたのは間違いない。その分、いい授業ができるように、ちゃんと準備しなければ。
授業の準備を始めてしばらくすると、真理ちゃんがやってきた。先週の体調不良と、今日の授業の休みについて聞いてみようかとも思ったけれど、やめた。授業まで時間もそう長くないし、わざわざ聞くほどのことでもない。
納得のいくところで準備を終わらせると、授業まではあと三十分ほど。そろそろ生徒も来始める頃だ。
教科書とできたての小テストを携えて、わたしは教室に向かった。
「じゃあ、今日はここまでね。また来週、宿題忘れないように」
一回休みを挟んでしまったので二週間ぶりの授業だったが、それなりに上手くできたと思う。生徒の反応を見ながらいろいろと内容を考えた甲斐があったというものだ。
いつもと同じように、授業の後に生徒たちの質問にしばらく対応したあと、自分でも授業の反省をノートにまとめ、帰り支度をする。
部屋の反対側では、真理ちゃんと片岡さんが今日の授業について相談しているのが見えた。どうやら今度、物理の授業で苦手な単元があるらしい。わたしも今度、授業の内容について相談してみるといいかもしれない。
ただ、今すぐ相談したいことがある訳でもない。今日の所は帰ることにする。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
そう告げて、わたしは塾を出た。
次の日も、いつもと同じように由美ちゃんと授業を受けた。いまは食堂でお昼ご飯の最中だ。
「店長さんってどんな感じの人なの?」
「うーん、普通の人って感じ。黒髪で、背が高くて、色白で……」
「お、いいじゃんいいじゃん。かっこよかった?」
「えー、どうだろう……。でもだいぶ年上の人だと思うよ?三十代前半くらいかなあ」
由美ちゃんも、明日行くのが楽しみで仕方ないのだろう。抑えきれない高揚感が、漏れ出して伝わってくるみたいだ。
今日は最後の授業まで何事もなく終わった。キャンパスを出て、わたしたちは駅に向かっている。使う路線は違うけれど、駅までは一緒だ。
「じゃあしーちゃん、蓮戸駅に明日は十一時でいい?」
「うん。ごめんね、由美ちゃん遠いのに……」
「いいのいいの、私が行きたいっていったんだし。呼んだらその店が来る訳じゃないでしょ」
そう言って笑う由美ちゃんの明るさが、少し羨ましい。
赤信号だ。交差点を前に立ち止まる。ふと、コンビニ前のバイト情報誌が目に付いた。
「あれ、しーちゃん塾のバイトあるよね。他の探してるの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。目に付いただけだよ」
そろそろわたしもバイト探さないとねー、と言って由美ちゃんが冊子を一冊抜き取る。わたしも一冊手に取ってみた。
信号が青になる。歩きながら、取った冊子を二人でパラパラとめくっていく。飲食店、コンビニ、イベントスタッフ。梱包作業なんてものもある。
「塾って時給どれくらい貰えるの?」
「わたしは最初九五〇円だったんだけど、今年から一〇〇〇円になったよ。多分同学年はみんな一緒のはず」
「やっぱそれくらいだよね。まあ都内ならともかく、この辺じゃあいい方かな」
「そうだと思うな。でも、あんまりシフトは増やせないからあんまり稼ぐには向いてないかも」
わたし自身、そこまでお金に困っているということはない。実家暮らしというのもあるかもしれないけれど。
「うーん、やっぱり稼ぐなら飲食店とかコンビニでがっつり働くしか無いかあ」
そんなことを言う。あんまりお金に困っているイメージは無いけど、本人的にはそうでもないらしい。
「バイトしてないんだっけ?」
「そうそう。仕送りもそこそこは貰ってるからね」
「じゃあそんなに稼げるのにこだわる必要もないんじゃない?」
「まあそうだんだけどねー」
そんな話をしていたら、いつの間にか駅に着いていた。じゃあ明日、と言って別のホームへ向かった。
階段を下りていくと、丁度電車が来るアナウンスが聞こえた。間もなく電車がホームに止まり、扉が開く。
冊子を手に持ったままだったことにふと気づく。トートバッグの中に押し込み、発車ベルの鳴るホームから、車内へと身を移した。
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