6.とにかく、現状を疑ってみる。
「四朗! 気が付いたか! 」
気が付いたら、畳に寝かされていた。師匠がたまに寝泊まりしている六畳間だ。しゅんしゅんとお湯が沸く音がしている。
「ああ、まだ寝てなさい。寝不足で倒れたんだろう。少し休んでいなさい。お茶を少し飲むかい? 」
師匠の父親がカセットコンロに掛けたやかんで茶を淹れて、湯呑を四朗に差し出した。師匠の声が下の道場から聞こえる。四十になるかならないかの彼がこの頃では道場で師匠として弟子を教えている。
その前は、目の前にいる師匠の父親が教えていた。四朗たちが中学に入るまでは、彼から教わっていたから、五・六年ぶりか。久し振りに「師匠」に会った気がする。
‥そういえば、あのころは相崎も道場に来ていたな。
そんなことを四朗はぼんやりと思い出していた。
中学に入ったころには、「もてないし。しかも、何の意味があるの」と言って、さぼることが増えた。
だけど、今でも籍はのこっているはずだ。辞めることはあのじいさん(相崎の前々当主だ)が許さないだろう。
「ゆっくり飲みなさい。熱いから」
四朗は体を起こして師匠の父親の手から湯呑を受け取った。
「武生はまだ練習中だけど、もう少しで終わるだろうから、武生と一緒に帰りなさい、また倒れると危ないから。家の方には連絡を入れていないけど、その方がいいんだろう? 四朗は母親たちに心配かけるのは嫌だと言っていたからね」
四朗が慌てて頷いた。
「ありがとうございます。あと‥もう大丈夫です。一人で帰れます」
また頭がくらりときた。
「もう少し寝ていなさい。武生には言っておくから」
四朗がしぶしぶという風に頷いて、湯呑を枕もとのお盆に置き、布団に横になる。
天井の木目を何となく眺める。
‥上に博史のベッドがないから天井が高く感じるな。
‥そういえば、なんでうちって高校生と中学生の野郎二人が同じ部屋に寝かされているんだ? 部屋がないとは言っても、父さんの書斎なんてそう毎日使わないんだから、あの部屋をどっちかにくれてもいいんじゃないか?
畳で襖の部屋が多い相生家において、あの部屋だけは、フローリングでドアだった。中は大量の本とパソコン、それに大きな机が置いている、典型的な書斎だった。
‥あれを動かすのは無理か。そういえば、父さんと叔父さんもあの家にいた時は、同じ部屋だったって叔父さんが言ってたな。
高校生にもなったら、それが嫌で嫌で県外の大学に進学したんだ、って叔父さんは言ってたっけ。
‥俺は、そんなに嫌でもないけどな。
幼い頃からの記憶とか確執とかがないからかな。
そういえば、さっき変なことを考えた。
自分は、もともと相生 四朗ではなかったのではないかという憶測。
‥じゃあ誰なんだ。
相模様には何かが見えたんだろうか。相生 四朗ではない誰かが見えたんだろうか。
‥いいじゃない。まだ、思い出さなくても。
またあの声‥。この声は、俺の声ではない!
まずは、この声が自分の声ではないことから仮定していく。
誰かが、いるんだ。
それだけでも、大概有り得ない事態だ。別人格。俺はいつの間にか、二重人格になっていたのか。いや違うな、二重人格って、一つの人格が出ている時には、もう一つの人格がでてこれないんじゃなかったか? よくわからんが。
と、そんなことを考えていたらまた声が聞こえた。
‥まったく。お前が抜けだしたりするから、こんなことになったんだぞ
別の声?! いつも聞こえてくる声じゃない!
そう、さっきの女の声(そういえば、女の声だった)はいつも聞こえている声だ。だが、次に聞こえた声には覚えがない!
誰だ?!
俺は三重人格なのか?!
‥だって、退屈なんだもの、何なのこの子、ちっとも遊びにも行かないし。
うわあぁあ! なんか頭の中で会話し始めた!
目を見開いて、これ以上にないくらい動揺する四朗。すると、ふわり、と布団の上にすごい美少女が立った。
『初めまして? 私は鮮花。鮮やかな花と書いて、鮮花というの』
にっこり笑って女が言った。その声は、今さっきまで聞き間違いその⒉(男)と話していた‥以前からの「馴染み」‥声だった。
なになに!? やばいって!! 俺なんか変な物、見えちゃったよ?? いや、‥見えてるの本当に俺だけ?
四朗は慌てて師匠の父親を見たが、気が付いている様子は無かった。
つまり、俺の見間違い。
本当に、脳を調べてもらわなくちゃあ‥
そんなに、たまってるのかなあ。欲求不満ってやつ? 女の子には興味はないんだけど‥。
『ちょっと、現実逃避やめなさいよ』
こんな現実があるか。
寝よう。疲れている時は寝るに限る。
四朗が眠くもない目を無理やり閉じようとしたとき、下の階から騒がしい声がして来た。
「おや、相崎君。久し振りだね」
師匠の声。
‥え?! 相崎?!
「なんか、しんちゃんが倒れたって聞いたから、迎えに来たんです」
「そうか。相生君なら二階にいるよ。寝ているかもしれないから静かにね」
「はい」
いつもより殊勝な声。そして、階段を登ってくる足音。一人じゃない。‥二人?
障子が開く。そこに立っていたのは、相崎と武生だった。そして、布団の上の人影も消えていた。何だったんだろう。
「よかった。しんちゃんってば、お腹が痛かったの? トイレで倒れたと聞いたけど」
相崎が楽しそうな声を出す。俺が倒れたなんて聞いて面白くて仕方がないという口調だ。武生が相変わらずな相崎の様子にため息をつく。
‥おい、寝てるかもしれないから静かに、じゃなかったか?
「違う」
顔だけ相崎の方に向けて、四朗は、短く不機嫌な声を出した。
「相崎は余計なことをいうな」
武生が表情のない声で答える。相変わらず、だ。
武生は口数も少ないし、話し方にいつも抑揚がない。
心配している、とかそんな感情は表情も含めて見て取れない。付き合いが浅い人にとってはね。だけど、俺は少なくとも七年間この家族に次いで親しい友人をずっと見て来た。
自分の記憶の参考になるかもしれないって思ったからこそ、それこそ観察をするように。
‥あ、さっき微妙に表情が動いた。つまり、これは俺の過去に何かしらあったことなんだな。
とか。
見ているうちに、俺はこの表情が乏しい友人がすごく「素直」な奴だってわかったんだ。
父さんや祖父よりはずっと。
‥相崎は、別なんだけど。こいつの考えていることは、単純にわかる。
「帰れるか? 」
「ああ」
武生に言われて体を起こす。問題はない。別に体が悪いわけではない(多分)悪いのは脳やら精神だ(多分)
「俺、車で来てるよ~。送ってくよ」
やたらいい笑顔で相崎が言う。
‥冗談。
「頼む」
断ろうとした四朗の言葉が出るより先に、武生が相崎に頷く。
「おい! 」
「しんちゃん。我儘はダメ」
慌てる四朗に、「めっ」というような口調で相崎が言った。
‥わがままがなんだって?