6.意識すると、とんでもないこと。
「ただいま」
「あ、お帰りなさい」
目の前にいるのは確かに兄、四朗だ。朝家を出て行って、今帰って来た。それは間違いがない。
だが、本当だろうか。
「‥‥」
ぐっと、腕をつかんでみる。
なんて、ね。
あの時、目の前で違う女性に変わった紅葉を見ていらい、「目の前のもの」が単純に信用できない。
別に、誰もが、ではない。紅葉と、兄ちゃんと、兄ちゃんのお母さん。
その、兄ちゃんが目の前にいる。
とりあえず、腕を掴んで確認してみる。
ここのところの新習慣だ。
「‥ん? 」
「‥ん? って? 」
兄ちゃんの目が泳ぐ。
その腕は、しかしながら目の前の人が兄ちゃんではないことを証明していた。
「兄ちゃん、ちょっと」
「‥‥」
黒い笑顔で自分たちの部屋を指さす。
四朗も黙ってそれに従い、部屋に入ると、後ろ手で障子を閉める。
「で、誰ですか。紅葉ちゃん? 桜さんですか? 」
「‥紅葉です」
ぼそぼそと、小声で話す。聞かれたら困るから、なるだけ無駄話は避ける。
「四朗君に頼まれて」
「兄がご迷惑を‥」
博史が頭痛がするこめかみを抑えながら言った。
‥まったく、兄ちゃんは何をしているんだろうか。
「今日一日お世話になります」
四朗が、膝をついて、両指を揃えて上品にお辞儀する。
「いえ、何のおもてなしもできませんが」
普段見たこともない四朗に、博史はわたわたとお辞儀を返す。
‥勝手知ったるこの部屋と、紅葉ちゃん。
同じ部屋で寝て起きて七年間。
今までは知らなかったからよかったんだよな。
‥意識すると、とんでもないな‥。
紅葉ちゃんと‥女の人とおんなじ部屋で寝るとかって。
「あ、今日は俺、リビングで寝ますから」
「何を言ってるんですか。疲れが取れませんよ。あ、私の事気にしてるんですか? 今更ですよ。あ、そうそう。四朗君モードで話しましょう。私が、こう感じが違うから、なんか変な感じがしてるんですね」
そう。これだ。
どこまで意識されていないんだ。俺は意識しているというのに。信用されているって思えばいいのか? それも、ちょっと情けない。
「四朗。ご飯までに先にお風呂に入ってしまえば? なあに? 鞄、廊下にほったらかしにして‥調子が悪いの? 」
母さんの声が障子の向こうでした。
ここは、紅葉の言う通り、兄モードで話さなければいけないのだろう。ああ。もう仕方がない! 俺は、無の境地で臨みます! 兄ちゃん、帰ってきたら覚えてろよ!
「大丈夫。ごめん、ほったらかしてた」
爽やかに笑う兄ちゃん。これを見るのは久し振りだ。本物の兄ちゃんの笑顔は武生さん曰く「女タラシみたいな笑顔」だもんな。(これを言ったら兄ちゃんは「タラシは相崎だけで十分だ! 」って怒るんだけど)
「先入るね」
って、爽やかに笑う兄が俺に話しかける。
顔はいつも通りの兄なんだけど、意識してしまうと、もう全く兄には見えない。
「あ、はい」
ついぎくしゃくしてしまう。
これじゃあ、四朗ではなく、博史の方でバレてしまう。不審に思われてしまう。
ん?
「どうしたの? 」
立ち止まる四朗に、博史が小声で話しかけた。
四朗の視線の先は、ダイニングテーブルに座る後姿。
「父さん、帰ってたんだね」
紅葉も小声で博史に答える。
あ、そうだ。事前に打ち合わせしないといけないね。
博史は、小さく頷いた。
「そうそう。今回は珍しく長く帰ってるよ」
と、また小声でぼそぼそと。
「おじい様は? 」
「じいさんは、今回はいない。なんでも、古い友人に会いに行くとか言ってた」
「そうなんだ」
頷いて、ダイニングキッチンの前で別れた。
浴室は、そのダイニングキッチンの向こうにある。
「お風呂、入るね」
椅子に座る背中に一言声をかけると、父さんが振り返って微笑んだ。
博史くんと同じあったかい笑顔だな、と紅葉は思った。
「は~。今日はいろんなことがあったなあ」
湯船で手足を伸ばした。
のばした腕を握ってみる。細いけれど、綺麗に筋肉がついた、男の腕だ。
と、それを意識すると赤面してしまった。
‥今まで、こんなこと意識することはなかった。
男の人‥。
今日久し振りに四朗として、四朗の学校に通って、四朗の人気ぶりに驚いた。そりゃあ、眉目秀麗。文武両道の四朗はモテないわけがない。
だけど、私が気になるのは‥。
武生さん。
わあ~。
水をばしゃんと跳ねさせる。
「武生さん‥」
口に出して呟いてみて、更に赤面する。
‥気持ち悪いから、術解いていい? 四朗君の姿で赤面して「武生さん‥」は、ちょっと‥
心の中で鮮花の声が聞こえた。
「あ、ごめん。口に出しちゃってた」
鮮花は、いつもそこらへんにいるらしいんだけど、他の人(どころか紅葉にも)見えないし、声も聞こえない。紅葉の心に話しかけて来るけれど、心は読めないらしい。(ほんとかな)今は、紅葉が口に出してしゃべっていたから、聞こえたんだろう。
‥いいけど。
そう言った鮮花は笑っているようだった。
‥でも、武生さんなのね。相崎の方が顔はいいと思うけど。
「でも、相崎じゃない」
紅葉が言うと、鮮花が笑う。
‥そうね、相崎じゃあね。
‥じゃあ、四朗君は? 顔もいいし、性格もちょっと暗いけど悪くないわよ。なんだかんだ言って、何でもできるし。
「四朗君は、そんな風にどうしても思えない。なんか、自分の一部みたいなんだもの」
‥そうか、そういう感じなのね。四朗君もそんなこと言ってたわね。
「でしょう。じゃないと、気持ち悪いわよ」
‥そうかもしれないわね。でも、うれしいわ。紅葉とこんなは話できる日が来るとわね。
「鮮花ってお母さんみたいなことを‥」
‥ま、上がりましょ。のぼせるわよ。
鮮花がまた笑う。
「そうだね」
四朗の体は見ない。がばっとバスタオルを被って水を吸い取らせるだけ。
手に伝わってくるのは、いつもと同じ自分の体。
胸もちっともない、真っ平らな体。
‥ホント、男みたい。きっと、胸だけだったら、四朗君とも変わらないわね。武生さんは、‥もうちょっと「ある」方が好きなのかなあ、やっぱり‥
‥って、何考えてるんだか。
って思ったのは、紅葉。
すぐに赤面して頭を振って考えを散らした。
「素振り、しよ」
と、素振りを始めるんだけど、その習慣は四朗時代からあったし、四朗本人も日課にしているから、誰も不思議には思わないのだった。




