8.父さんの気持ち
引き戸になっている玄関の戸を開け、ただいま、というより早く四朗は制服の上着を脱いで腕に掛けた。
運動をするということで、ズボンは体操服に変えたものの、上着を脱いだカッターのままでテニスをしていたものだから、汗を拭いたところで帰宅時の四朗は汗だくのカッターに上着を羽織っている状態だったのだ。
勿論、不快極まりない。
電車に乗っている間も、周りに不快感を与えていないかと気が気ではなかったが、何故か、これではまるで制汗スプレーのCMの様ではないか。とそんなことを考えてしまってさらにちょっと落ち込んだりした。
玄関は自転車が二台は入りそうなくらい広めの土間の先にあり、上がり框には高めの段差がある。それは本当にちょっとしたもので、背の高い四朗が、靴を脱いだあと、大きく足を上げなければならない程の、段だ。
だから、小柄な清さんや祖母はこの玄関を使わず台所横の勝手口を常用としている。リフォームしたらいいのに、と思うがそれは、祖父に「これがこの家の伝統」だとかいわれるだろうし、何も言うまい。
昔、四郎たち兄弟がまだ小さかったころには、上がり框のところに二段のステップが置いてあったな、とふと四朗は思い出した。(まあ、それも持ち運び可能なもので、来客の際にはのけられていて、それに気付かず足を出して、そのままころがり落ちたりしたものだ。あれはかなり痛かった)
玄関事態は広くないが、入ってすぐに控え室の様な部屋がある。昔はここでちょっとした客をもてなしたのだろうが、今となってはよくわからない。玄関とその控えの間を分けるように、衝立が置いてある。
その向こうに三つ襖があり、向かって右側が台所に通じる襖、正面が客間、左側が四朗たち家族の部屋がある。家族の部屋は、昔ながらの田の字形になっており、手前の一つが家族の居間、その隣に祖父母の部屋、そして奥二つが四朗たち兄弟と、両親の部屋になっている。
四つの部屋を隔てているのは、襖だけで、親族が揃うときはこれらをすべて取り払うことで、大きな一部屋として使うことが出来る。
実際、一部屋にするといっても祖父母の部屋と居間を一つにするくらいだ。
だから安心して、四朗たちも両親も私物を自室に置いている。
実際のところ、客間が大きいから十人くらいの来客にも対応できる。居間と祖父母の部屋を開放するのは、一緒について来た子供たちが遊ぶためのプレースペースの為だ。
この築百年は超えていそうな古民家は、台所だけが板張りになっており、部屋は基本全部畳だ。しかし、定期的に張り替えられる畳の良い香りがこの家を古臭く感じさせることは無かった。
否、父さんの書斎も板張りに変えたんだったな。確か、本の重みで床が抜けそうになったとかそういった理由からだった。
書斎は、家族のスペースの居間と祖父母の部屋の前にある広縁の向こうにある。(因みにその横に厠もある)この部屋は厠同様、後から付け足した部屋だ。
控え室の奥、丁度衝立の陰から人影が見えた。この部屋には窓がない。玄関が明るいので、部屋の奥はかえって暗く見える。だから、目を凝らさないと奥る人が、誰だかはすぐにはわからない。
しかし、この時間奥から出てくる人は、母親か、祖母、清さんしかいない。博史はまだ部活動だろう。
「ごめん、清さん。先にお風呂使わせ‥」
何となく清さんかと思い声を掛けた四朗は、奥から出て来た人物に少し瞠目した。
「あ、父さん。帰ってたんですね」
帰って来たのは、もう少し前だったのだろう。いつものスーツ姿ではなく、彼がいつも家にいるとき着ている着物だった。因みに、祖父も家では着物で過ごしている。生地を薄いものに変えて、夏でも、甚平や浴衣の様なラフなものではなく、きちんと着物を着ている。それが、彼らのすっきりとした日本顔によく合っているが、近所の小学生男子から日曜の夜の某アニメの父親の名前で密かにと呼ばれているのは、黙っておこう。(因みに、じいさんとセットで呼ぶときはその名称の前に「ダブル」が付く)
まあ、今時なかなか普段から和服着ている人なんてね。似合うとか似合わないとか小学生男子は見ないしね!
因みに、これは四朗は気付いていないが、道着で道場に通い、素振りを欠かせない四朗は「サムライ」「ラストサムライ」とか陰で呼ばれている。同じく小学生男子によって。
「珍しく汗だくだね。今日は道場の日だった? 」
父さんが穏やかに聞くと、
「いえ、相崎とテニスを」
四朗はちょっと言いにくそうに言って、例の高い上がり框をまたいだ。
「珍しいね。勝ったの? 」
「ぼろ負けしました」
「それは、また」
珍しいね、と四朗の父親が静かにしかし面白そうに笑った。
絶対、面白がられてる。
「博史に教えてもらってリベンジですね」
四朗が宣言すると、父さんは堪えきれず少し声に出して笑った。
「じゃあ、今度の日曜は僕も家にいるから三人でテニスをしに行こうか。僕も昔は少ししていたんだよ」
「そうなんですか」
そんな他愛無い会話も、何となく敬語になってしまうものの、こんな会話が出来たことに、四朗はどこかうれしかった。
昔はいつも、何となく緊張してしまっていたな。特に祖父には。‥あの時は、もっと子供だったからかな、とも思った。
それは、しかしながら四朗だけではなかったようだ。四朗の父親もまた四朗そっくりの端正な顔に、穏やかな笑みを浮かべていた。
そして、ぼそり
本当に、独り言のように
「正直ね、君の能力が無くなった時、うれしかったんだ」
呟いた。
そして気付いた。そう言えば、紅葉と入れ替わってから、父さんに会っていない、と。彼は今までの四朗だと思って話している、と。
どうしよう。記憶が戻ったとか言った方がいいのかな。‥そう言えば、家族にもそんな話していないな。
そんなことを考えていたが、目の前の父親はそんな四朗の動揺には気付いていないようだった。
言わなくてはいけないかもしれないけれど、それは確実に今ではないな。
と、四朗は判断して口を閉ざした。
父親の呟きは続いていた。
「変な話だろう? ‥それに、勘違いしないでほしいが、別に自分に力がないから、とは別の話だ」
「そんなこと‥何言ってるの父さん‥? 」
そんなこと思ったこともない。そして、父親の言葉で初めて彼が自分に力がないことをコンプレックスに感じていたかを知った。
そんな風に思っていたんだ‥って思った。
「君は何も気にしなくていい。君に力があろうとなかろうと‥僕は君の父親だし、僕らは家族だ。勿論、それは母さんも同じだ」
「そうよ。四朗。記憶なんて戻らなくたっていいわ。相生の跡継ぎとしての力がないのも大したことないわ。私には、そういうことわからないけれどね」
いつの間に来たのか、母さんが四朗の横に立って四朗の腕から上着を受け取ってくれた。
「あなたは私の大事な息子よ。それは変わらないことよ」
と言って明るい笑顔。この笑顔で、昔から四朗の悩みやなんかを消し去ってくれた。
今まで七年間の記憶はないけれど、十歳までの記憶の中の彼女はいつも笑っていた。今の彼女の笑顔はその記憶となんら変わることはなかった。
本当に暖かくて、優しい気持ちになれる。
「父さん。‥母さん」
お母さんに、大事な息子だと言ってもらえたことは、うれしかった。
否、今までもそれは感じていた。
だけど、同時にちくり‥と心のどこかが痛くなった。
急に、桜の悲しげな顔が浮かんできた。
俺が、この人を本当のお母さんと認めるのは、桜にとってはとても悲しいことではないだろうか。
桜の本当の息子でもある、俺。
でも、それ以上に俺は桜からの俺に対する愛情を感じているし、俺も桜のことをないがしろになんてしたくない。マザコン? とかそんな感情ではない。母親‥そんな感情では、きっとない。なんせ、急に「母さん」だとか言われて「はいそうですか」ってそういうもんじゃない。桜も言わなかったしね。
でも、親戚のおばさんに対して感じる親愛の情やら尊敬やら、はたまた友情やら、異性に対して抱く愛情やら。それらすべての感情とはちがう。全く違うわけではないが、全く同じなわけでもない。俺は自分の感情に名前を付けることができない。
そして、桜の俺に対する感情も親子の情ではない。
‥なにより。桜は、俺を通して父さんを見ている。
なぜか、桜は何も言わないけれど、そう思った。
桜は不器用で、寂しがりで、
桜のことは、何故か分かった。
「ありがとう‥ございます」
四朗は黙って頭を下げた。両親が自分を見ながらちょっと困った様に微笑んでいるのが気配で分かった。
「ゆっくりでいい。君は、君なんだ。君が考えて、君が思うように生きればいい。そろそろ‥伝統も、ないのかもしれないね」
「ええ」
四朗は、顔も上げずに頷いた。
頷いたものの、「そんなこと思ってもいないくせに」と心の中では思った。
力がなくなった四朗がこれ以上傷つかないように、と気遣っているのだろう。なら、すぐ誤解を解いて安心させてあげないと‥と心が焦るのは、さっき桜の気持ちを考えたからか。
だけど、目の前の父さんの顔は穏やかだ。何かを諦めた様な顔ではない。
さっきの言葉は本心だってこと?
誰よりも頑張って相生の跡取りとなろうとした父さんと、今の「肩の荷をそろそろおろしたい」と感じている父さん。どちらが彼の本心なんだろう。




