現実脱走
平凡を絵に描いたような一人の男がいた。
男は普通の家庭に生まれ、普通の学校で学び、特にこれといった幸運も不幸もなく生きてきた。大学を卒業し、社会人になってからも生活に劇的な変化はなかった。しかし、男にとってそれは不幸でもなんでもなく、むしろ望ましいことだった。なぜならば、安定した生活は沢山の余暇をもたらしてくれるからだ。
そして男は、その時間のすべてを自らの趣味であるネットゲームに捧げていた。
簡素な部屋のパソコンの前に座った瞬間、男の偉大な冒険は始まる。純和風の美しい情景と世界観を売りにした《アマツカグラ・オンライン》は、平凡な日常では到底味わえない刺激を男に与えてくれた。救国の英雄として魑魅魍魎と戦った日々。ネットでつながった沢山の仲間達。夜の空に躍る城下の灯・・・・・・。小さなパソコン画面の中は、現実より美しい色彩で満ちていた。
だからゲームからログアウトし、パソコンの電源を切ったときには、決まって心に穴が開いたような空虚な気持ちにさせられるのだ。いつしか男にとって現実のすべての時間が退屈で苦しいものになっていた。
いっそゲームの世界に行けたのならいいのに。
そんな風に夢想したことも一度や二度ではない。もしこの望みが適うのならば、どんな犠牲を払っても惜しくはないと男は常々思っていた。
「ふう、そろそろ寝ないとな」
男は目頭をもみながら、パソコン画面の隅にある時計を見た。時刻はすでに午前一時を回っている。これ以上起きていたら明日の仕事に支障が出てしまう。男はネットの仲間達に別れの挨拶を告げ、しぶしぶ《アマツカグラ・オンライン》からログアウトした。
「あーあぁ、今日も終わっちまった」
薄暗い部屋に男の声が虚しく響く。それが余計に寂しさを加速させ、男は食器や衣服の片付けもそこそこにすぐさま毛布にくるまった。季節は初夏だというのに、こういう時は無性に寒さを感じる。三十路を目前にして尚、恋人はおらず友人も少ない。《アマツカグラ・オンライン》がなかったら、人恋しさでどうにかなっていたに違いない。
ゲーム中の自キャラである《スグリ》は、そんな男とは正反対の明るく満ち足りた少女だった。いや、男がそのように作ったのだ。
栗色のショートボブが似合う活発そうな容姿に、小柄で引き締まった体躯。下町お転婆娘のイメージそのままに、振袖のついた紅色の服を着こなす様は、我ながらとても可愛らしく仕上がっていると思う。はじめは少女のキャラクターを操ることにある種の気恥ずかしさがあったが、ゲームを進めていくうちにそんなことはどうでも良くなっていた。むしろスグリの魅力に男自身が虜になっていった。性格もスグリというキャラクターに引っ張られ、男はゲームの中では明るく社交的にふるまうことができた。
いうなれば、スグリは男の《理想の自分》であったのだ。
はやく、ゲームに戻りたい・・・・・・
男は心の底からそう思ってため息をついた。ゲーム中でこそ、自分は自分でいられるのだ。職場の同僚に気を使ったり、上司にゴマをする必要もない。ただ自由に、どこまでも冒険できる。一方、現実とは檻のようなものだ。望まないことを永遠と繰り返す刑務所の中のような毎日が続いている。
抜け出さなくては、と男は呪文のように心の中でつぶやいた。どこへ、という目的が欠如したままの焦燥感がぐるぐると頭の中を旋回する。
そんなことを繰り返しているうちに意識は朦朧としていき、男はやがて眠りについた。
意識を手放す瞬間、夢か幻か、こちらに向かって微笑む少女の姿を見たような気がした。
そよ風に頬を撫でられて目が覚めた。木漏れ日の光が眩しくて、●●●はきゅっと顔をしかめる。今、一体何時だろうか。
それにしても、こんなに清々しい気持ちで目覚めたのは久しぶりだ。吸い込んだ空気は少しひんやりしていて、体の隅々を洗い流してくるような感覚すらある。寝返りをうったところで、少し背の高い草が鼻をくすぐり、思わずくしゃみが口から洩れた。
くしゅんっ
驚いた小鳥が木の枝から飛び立っていく。
そこで●●●は最初の違和感を感じた。それを皮切りに、ようやく脳みそが異常事態を訴え始める。空気がおいしくて、木漏れ日が眩しくて、緑の匂いが心地いい。そんなことが都心の六畳間のアパートにあっていいはずがない。
●●●はガバッと上半身を起こし、あたりを見回した。途端に、理解不能なものが目に飛び込んできて、頭の中の混乱具合はさらにその度合いを増すこととなった。
中天に昇った太陽が、湖を七色に輝かせていた。周囲は鮮やかな木々に囲まれており、所々に野花の咲いた原っぱが見受けられる。今座っている場所もそんな空間の一つで、中央に生えた若木がちょうどいい具合に日陰を作っていた。
「・・・・・・どーなってんの」
呆然とそう呟き、すぐにハッとなって口元を手で押さえる。最初に感じた違和感はやはり間違いではなかった。先ほどのくしゃみといい、今の声といい、明らかに変声期を終えた男のものではない。まるで鈴を転がしたような少女の声音だ。
しかも、さらに追い打ちをかけるように新たな異常が発覚した。口元にあてた手を目の前に持ってくる。所々に拳ダコのようなものが見受けられるものの、それはほっそりとした綺麗な手だった。節くれだった自分の手はどこにいったというのか。
ある種の予感がして、●●●は恐る恐る視線を下げていく。細い腕、紅色の装束、かすかに膨らんだ胸、刺繍の入ったスカート、すらりと伸びた足、おまけに黒いニーソックス・・・・・・
順を追って目に入ってくる異物に、●●●はいよいよ参ってきた。世界がぐるぐると回り、吐き気すらしてくるほどだった。
確認するまでもないが●●●の性別は男だ。少なくとも、昨夜までは確実にそうだった。戸籍にもそう記されているし、ニューハーフに興味を持ったこともない。しかし、この華奢な体つきはどこからどう見ても・・・・・・・
「女の子、だよな・・・・・・・」
そう呟いた声さえも少女のもので、●●●はこんな時だというのに無性におかしくなった。
これは、夢だ。
ありえないことがこうも立て続けに起こると、思わずそう考えずにはいられなかった。しかし、意識ははっきりしているし、感覚も鮮明そのものだ。分析すればするほどに、飛び込んでくる情報の一つ一つが、夢にしてはあまりにもリアルすぎると分かってしまう。現に、肉体は周囲の激変した環境を何ら違和感なく受け入れてしまっている。
混乱の波が収まり、行動を起こす気になったのはしばらくたった後だった。●●●はふらつきながら立ち上がり、湖の方へ歩き出す。確認したいことがあるし、冷たい水で思いきり顔でも洗えば目が覚めるのではないのかという淡い期待もあった。
途中何度か躓きながら湖の畔にたどり着き、衣服が濡れるのも構わずにその場で膝をつく。はねた水の冷たさに●●●は身震いした。
透明度の高い水面が徐々に凪いでいき、そこに自身の姿が映るのにさして時間はかからなかった。
●●●の口から吐息が漏れる。
水面からこちらを見ていたのは、よく知っている少女だった。小さな肩を落とし、すっきりとした可愛らしい顔に力ない笑みを浮かべている。鮮やかな紅色に染まった瞳も、栗色の髪も、彼女によく似合った衣装も、すべてパソコン画面の中にあった姿そのもので、●●●は嬉しいような、途方にくれるような、複雑な気持ちにさせられた。
「やあ、スグリ」
●●●はそう言って、水面に映る自身の姿にそっと触れた。