叶わぬ恋
就職するなら、収入や環境が良く、人間関係に問題が無いところがいい。
俺、佐々木 慎司は今日、印刷会社に就職することになった。大企業という訳ではないけれど、そこそこ大きい会社だ。
「…という訳で、今日から仲間になる佐々木君だ。皆、仲良くするように」
課長がまるで小学校の転校生を紹介するような口調で、俺の事を部署の人に紹介した。
「宜しくお願いします」
頭を下げ、ゆっくりとあげる。
「佐々木君の世話役は…高宮。お前今確か、相棒を探してるとか言ってたな?」
「あぁ…、ハイ。そうですけど…」
「じゃあお前で良いな?宜しく頼む」
「えっ、でも俺まだ入社して1年半しか経ってませんし…」
「1年半も経っていれば十分だろう。困った事があれば私に言えばいい。…じゃあ、頼んだぞ」
「…ハイ」
課長はそう言うと、忙しそうに部屋を出ていった。
「……っ」
"高宮"さんと呼ばれた人の方を見ると、彼も俺を見ていた為か、目があった。
「これから宜しくお願いします」
俺は急いで頭を下げた。
「…あぁ」
彼は短い返事をした後、俺に背を向けた。
"高宮"さん―。彼の話は入社する前から聞いた事がある。何しろ成績優秀で、バリバリ仕事が出来る上に、爽やか系イケメンだ、と。社内の女性は皆、高宮さんの事を憧れや恋愛対象として好きだと騒いでいる。
…俺なんかに高宮さんの相棒が勤まるかな…
俺の頭の中は、その事だけがずっと駆け巡っていた。
入社してから、はや6ヶ月が経った。
「今日は大事な会議があるから…。佐々木、お前は先に自席に着いて待ってろ」
「…あ、はい。わかりました」
―この時からだった。俺が高宮さんに対して変わった感情を抱き始めたのは…
会議が終わったようで、課長をはじめ同部署の社員がぞろぞろと戻ってきた。
「お疲れ様です」
「あぁ、うん。本当に疲れたよ」
隣の席に座っている上司の中谷さんは苦笑を浮かべて、椅子に深々と座った。
「…コーヒー、淹れましょうか?」
「お、有り難う。じゃあ頼もうかな」
俺がコーヒーを中谷さんや部署仲間の分を淹れ、席に着いた時に高宮さんが居ない事に気づいた。
「…中谷さん。高宮さんはどうしたんですか?」
「ん?あぁ、高宮か。…そういやぁ、どこ行ったんだろうなぁ…」
中谷さんはコーヒーを一口飲んで、首を傾げた。
「…どうした?高宮に何か用でもあったのか?」
「いぇ。…別に特別用は無いですけど…」
…何故だろう。何か無性に高宮さんの事を捜したくなる…
「…ちょっと俺、見てきますっ」
気付いた時にはもう、俺は部屋を飛び出し会議室へと走っていた。
会議室の前に着いて、足が止まる。中から何やら声が聞こえたからだ。
悪いとは思いながらも、その声に耳をすませる。
「…本当に困った事をしてくれたねぇ…」
「真に申し訳ございませんでしたっ!!」
「謝って済む問題なら、もう解決してるよ」
「……っ!!!」
何やら怒りに満ち溢れ、震えている男性の声と、その後に謝る高宮さんの声…。わずかながらも高宮さんの声も少し震えているように感じた。
…中で何が起きているのだろう……
「…全く…。キミの処分は後で考えておくことにするよ。…だから今日はもう、下がりなさい」
「…っ、待ってくださいっ!!」
「…良いから下がりなさい」
「でもっ…」
「下がれと言っているだろう!!!」
「…っ」
怒鳴り声の後に、此方に近づいてくる荒々しい足音。
……バンッ!!
勢いよく扉が開き、俺と高宮さんが顔を合わせた。
「…っ、佐々木っ…」
「……えっと」
まともに目を合わせる事が出来ず、目を逸らしてしまう。
「自席に着いてろと言っただろ」
「…はい。…ですが、高宮さんが全然帰って来なかったので、心配で…」
…言い訳だ。こんなの言い訳の1つに過ぎない。
「…そうか」
高宮さんはため息混じりに言い捨て、部署の方へと歩いて行った。
俺もそれに続き、走って彼の後を追いかけた。
「お疲れ様でした~」
午後9時を回った頃、部署内にはすっかり人気が無くなり、時間が過ぎていくにつれ、益々人が帰宅していった。
午後11時を過ぎた頃、部署内には俺と高宮さんの2人のみしか居なくなった。
俺は仕事にキリがついたので、帰り支度を始めたが、高宮さんはパソコンに向かったまま、支度をする気配すらない。
「…高宮さん、まだ帰らないんですか?」
「…あぁ。…佐々木は帰るのか?」
俺に話し掛けてくれてはいるものの、目はパソコンの液晶画面を向いたままだ。
「…はい」
「………」
暫くの沈黙の後、高宮さんが口を開いた。
「…俺を待っているのか?」
「えっ!?」
…確かに待っている。それも無意識のうちに…
「俺の事を待ってたら、今日は帰れねぇぞ」
「それでも良いです」
「……そうか」
今度の高宮さんの「そうか」という台詞は、先程のものとは違い、微笑みながら言っていた。
それが俺にはとても嬉しかった。
朝日が眩しい。目が覚めたら何時の間にか、朝になっていた。
…そう言えば昨夜、高宮さんを待って……って…ここ、会社じゃないよな!?…じゃあ何処だ!?
俺は見覚えもない景色を一回り見回した。…と
「……っ!!!!????」
俺はベッドの上で座っており、隣には高宮さんが寝ている。
…と、言うことは…
「…高宮さんの家?」
俺は急いで布団を退かした。そして、また衝撃を受ける。
「…っ!!!」
俺も高宮さんも、衣類を一枚も着けていなかったのだ。
俺は基本、風呂に入る時しか脱ぐことは無い。
…高宮さんは違うのか…?
…身体が熱い。鼓動が早まる。
……この間からこの気持ちの正体には薄々勘づいていた。
…これは間違いなく『恋』だ。俺は高宮さんに恋をしているのだ。
俺は決してゲイな訳ではない。今まで男を好きになった事は無いし、寧ろ女との付き合いはかなり多い。
しかし高宮さんは違う。元は『憧れ』だったが知らない内に『恋』に変わっていたのだ。
「………ん」
「…っ!!!」
このままでは俺の心がもたない。俺は思いきって、高宮さんを起こす事にした。
「高宮さんっ、高宮さんっ…」
呼んで、揺すっても起きない。熟睡中だ。
……こうなったからには、どんな手を使ってでも起こさなければ…!!
そう思い、思い付いたのは…
「……綺麗な寝顔」
高宮さんの唇を奪いたい、俺の心の中で、あってはならない欲望が沸き上がってきた。
寝息がかかるくらい俺の口を近づけたが、やはり心の隅にある罪悪感が勝ち、寸前のところで止めた。
「く……ふ…」
高宮さんはまだ寝息を立てている。…俺の気も知らずに…
俺はもう、我慢が出来なくなっていた。