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9 パラレルワールドの静寂 

 僕がこの世界に迷い込んでから、二週間が経過した。それはまるで自身の欲が詰め込まれた夢のような日々だった。毎日のように僕は高木や、ひかりと会話する。その会話の殆どが重要な意味を携わらない。それでも僕は以前のようにこうして雑談できることを幸福に思った。たとえそれが模倣にすぎなくても。ひかりは僕の話に耳を傾けてくれる。そして鮮やかな色彩を得た素敵な笑みを見せてくれる。その笑顔につられて僕も笑みを零す。それは高木もだった。この日々が永遠に続いてくれることを僕は願う。けれど帰らなければならない。タイムリミット。僕は限られた時間について思考を巡らせてみる。西畑さんはあまり長い期間この世界に滞在するな、と言った。まるで今後の僕の未来に悪い影響が訪れるのを阻止するかのように。強い戒めをするみたいに。西畑さんが僕に忠告する。それじゃあその悪い影響とはなんだろう? まるで見当もつかない。気がつけば僕はその思索を放棄していた。帰りたくない、という意志が僕の心内に強くたたずんでいた。それを意識から除去することはできない。いや、除去しようという思いすら皆無だった。

 休日という期間がこれほど苦に感じるのははじめての経験だった。僕のこの生活を小説で表すのなら、この期間は空白だろうと思う。スペースの部分。部屋の窓から覗ける空。雲が無い。瑞々しく律儀な晴天が隔たり無く広がっている。まるで湖がそのまま上昇したように淡い色合いの空だった。僕は自分のベッドに倒れながら、その空を延々と眺めていた。窓を全開にする。鳥とたわむれる春の風。レースカーテン。風が僕の身をなでる。風が部屋の中にしのぶ。思う存分の光を部屋はたくわえる。この部屋は正確には僕の部屋ではない。そのことを僕は思い出す。僕は元々この世界にいた「僕」について想像を起動させる。この世界の「僕」は、一体何をしているのだろう。僕はこの世界にいる「僕」に敬意を表した。ここにいる堀澤という人間は、僕とは違う。ひかりの思いに答えることができた僕。「あの問題」を起こさなかった僕。この世界の僕は多分、西畑さんにもすぐ声をかけられるのだろうな。躊躇もなく。迷いも覚えず。微塵とした逡巡も覚えずに。僕はそんな自分に尊敬した。傍からみれば同一人物のはずなのだ。それなのにこの差はなんだ? 僕はなぜここまで弱い? この世界にいたはずの「僕」はどこにいったのだろう。僕はそんなことをふと思う。それからガールフレンドとなっていたひかりを思う。なぜ僕はあの時、彼女の告白を拒否したのだろう。なぜかぶりを振ってしまったのだろう。あの時僕が彼女の告白をOKしていたら――。後悔。それは必ず間隔を空けてから襲来してくる。後悔とはそういうことだ。僕はもう一度空を見る。淡白に澄んだ青色。待ち焦がれる闇をその空は深く沈めてしまう。冴えきった海面のように透明に近い青。疲れ果てて眠る無垢な少年のように、限りなく青い。雲を泳がせない。やがて僕はいささかな睡魔とたわむれることとなる。構わないさ。ゆっくり僕は意識の最後方へと歩みをはじめる。いつか生まれる雲の成長とおなじ歩幅を保って。僕は歩く。意識が遠のいていく。心地よく。構わないさ。



 お久しぶりです、と西畑さんは言った。それからコーヒーを口に含んだ。マグカップから上昇する仄かな湯気。彼女の顔の半分を覆う。西畑さんの片目が曖昧に霞んだ。コーヒーを一口吞むだけの仕草に、僕は見蕩れる。なぜ帰らなければならないのだ? 僕は彼女に訊ねたくてたまらなかった。けれど口を噤んだ。「この世界の生活はどうですか?」と西畑さんが訊ねた。

 快適です、と僕は言った。まるで夢を見ているようです。これが本当に夢なのなら、この夢は僕にとってとても大儀的なものになると思います。それだけ、この世界の生活は僕に癒しを与えてくれる。そう僕は言った。「大儀的な夢ですか」と西畑さんは関心するように言った。「ならば、あなたは今その「大儀的な夢」の中にいるのです。この世界は夢なのです。いつかは覚める。目が覚めるとそこにあるのは現実です。夢というのは疲れを癒すためにあるものなのかもしれませんね」

「そうかもしれない」。僕は言った。

「疲れが癒された先にあるのは何かわかりますか?」と彼女は訊ねた。しかし僕が答える時間を彼女は作らなかった。そこに余白は無かった。「「新しい疲労」です。人間はくりかえしの中を彷徨いつづけるのです。癒された傷は、また開く。踵を返すだけなのです」

「よくわからない」

「それでいいのです。簡潔に申しますと、夢のような日々はあまり続かないのです。遊園地と同じです。この世の「幸」の部分は、極めて少ない。そして儚い。そのようなものです、人生って」

 なるほど、と思う。それと同時に、結構喋るタイプなんだな。そう思った。西畑さんはコーヒーを一口啜る。僕はレモンティーを吞む。どうしてもですか? と僕は訊ねた。どうしても、帰らなければならないのですか? 「はい」彼女は淡白とした口調で言った。そして肯いた。「帰らなければなりません」。もうすこし居ることはできないのですか? 僕は訊ねる。できません。できるとしても、あと一日や二日ほどでしょう。あまり長い期間いるような場所ではないのです。西畑さんは僕の顔を見据えている。目を逸らせば石になってしまうとでも言うように。

「どうしてですか?」。僕は訊ねる。訊ねることを躊躇う。その逡巡を捨てる。僕は訊ねた。どこまでも鋭さを忘れずに。しつこく。「なぜ期間が決められているのですか?」

「いいですか?」と西畑さんは僕の瞳を覗き込んで言った。僕はすこし頬を赤らめる。「あなたが今いるこの世界は、あなたが本当は存在しない世界なのです。この世界にいた堀澤さんは、あなたと同一人物であって同一人物ではないのです。これは仕方ないことなんです。本来ならば、こんな場所など来ること事態おかしいのです」

 釈然としないまま僕は肯く。彼女もそれを追って肯く。そしてコーヒーを吞む。しばらく間があった。浅い沈黙。まるで放課後の校舎のような静けさだった。外部から聴こえる音は、他の客たちがもたらすものだった。僕はその沈黙をかどわかすために話題を変更する。あの、僕の元いた世界での話をしていいですか?

 構いませんよ。西畑さんはそう言ってコーヒーを吞んだ。結構なペースだな、と思った。



 僕は大学に入学するとき、正直これからはじまる生活に期待なんてしていませんでした。辺りがまた新しい出会いを見つけていくなかで、僕は滅法な闇に沈んでいきました。友人を作る、という行為はもちろん試みました。ですが無理でした。それは決して自分が人見知りだからとか、そういったことではありません(まあ、確かに人見知りなところはありますが)。それは高校のときに起きてしまった「ある事件」がきっかけでした。その事件は起きてはいけませんでした。なぜ僕はあんな事態を招いてしまったのか、今でも強く後悔しています。僕は多分、調子にのってしまったのだと思います。そんな僕の浅慮さがもたらした事件は僕の身から離れることはありません。

 大学に入学しても「あの事件」での件は強いトラウマになって、僕に様々な苦悩をさせます。見知らぬ人たちに声をかけようとすると、そのトラウマが脳裏を過ぎるんです。そして躊躇するんです。いや、躊躇というよりは阻止してくるんです。僕のその勇気を。だから僕はいつも一人でいました。中学時代からの友人がいただけマシなんでしょうが。それでも僕は孤立しているような気がしました。誰にも声などかけれない。講義をひとしきり受けて、潔く帰る。そんな日常しかないのだろうと思いました。そんなときに出会ったのが――。

「あなただったんです。西畑さん」

 僕はレモンティーで口内の渇きを潤す。自分の頬に熱が佩びていくのが理解できた。気恥ずかしさがこみあげてくる。「西畑さん」、僕は話を続けた。

 つまり、一目惚れでした。この世界ではあなたは大学に通っていませんが、僕のいる世界ではあなたは僕の視界をすぐに奪いました。一瞬にして強奪されたのです。こうして本人の前で――本人であって本人ではない――話すのはそこはかとなく恥ずかしいのですが、一目惚れでした。西畑さんはこの世の花すべてを摘んで渡したくなるほど魅力的でした。限りなく綺麗でした。一目惚れした僕はすぐにあなたに話しかけようと努めました。今なら認めれる気がします。僕は多分、ストーカーと変わらなかったと思います。気味悪がられても仕方ありません。僕は西畑さんの跡をどこまでも追っていたんだと思います。それなのに、声をかけるという行為は移せませんでした。やはり、トラウマが僕を襲うのです。結局、一言も話せないまま時は流れていきました。当然、友人も一人もできませんでした。

 西畑さんは俯く。コーヒーのマグカップを両手で包んで。静かに揺れるコーヒーの水面に自身の顔を投影していた。「……そうですか」。その声はどこか哀しみがあった。やはり、僕の告白に引いたのかもしれない。多分そうだろうな、と思う。しかし、続いて西畑さんの口から発せられたのは、予想外のことだった。

「そちらの世界では、私は平和に大学に通っているのですね。そして、異性から一目惚れされるような生活を送っているのですね」西畑さんは変わらず俯いていた。

 僕はその発言の意味がわからなかった。理解がまるでできなかった。彼女の顔を窺うこともできない。彼女は笑っているのかもしれないし、哀しんでいるのかもしれない。もしかすると、どちらともかもしれない。多分、そうなのだろう。僕は推測する。想像をする。そして暫定的に僕は決めつける。彼女は哀しみを隠しきれない微笑みをしていた。

「だから」と僕は言った。「そんな憧れの西畑さんと僕は今、会話できている。それは現実ではありえないことなのです。それがどんな話題であれ、僕はとても至福を感じているのです。そんな日々を、捨てなきゃいけないんですか?」

 西畑さんは冷めたコーヒーを吞んだ。それから柔らかな微笑みを僕に見せた。西畑さんの微笑みを僕ははじめてみただろうと思う。それはとても可憐な表情だった。柔らかな面影はそこに強くたたずんでいる。その表情を僕はいつまでも見ていたい。ひとしきり僕の世界に描写していたい。

 ありがとうございます、と西畑さんは言った。なぜか声に震えを佩びていた。涙が窺えた。なぜ? なぜ彼女は泣いている? しばらく静寂があってから、「やはり、あなたは帰るべきですよ」と西畑さんが再び口を開いた。

「なぜですか」

「あなたは私に一目惚れをしてくれた。それはとても嬉しく思います。ストーキングされてる、と聞いて喜んでいる自分に気持ち悪さを感じます。ですが、その一目惚れされた西畑とは、私ではないのです。堀澤さんが元いる世界の、今は平凡に大学へと通う女子大生の西畑なのです。ここにいる私は、その西畑ではない。堀澤さん。もう一度言いますよ? あなたは帰らなければならない。そこにはその世界の私が待っている。あなたが望む私が」

 でも、その世界にいるあなたは僕に興味など無い、と僕は言った。

 それはわかりませんよ? と西畑さんは言った。若干、意地悪そうな笑みを浮かべている。え? どういうことですか。僕は訊ねる。西畑さんはふふ、と静かに微笑んだ。まるで静寂の世界で眠りつづける少女のように。まるで深く寡黙な森の奥で妖精とはなす幼女のように。

「あちらの世界の私が、あなたに興味が無いという断言はできません。確証は無いはずです。つまり――」

 僕は肯く。

「あちらの私は、あなたを求めているかもしれない」少なくとも私にその権利があるのなら、そうなっていると思います。彼女はそう言った。やはり静かに。川面に出現する森林のように。



 その晩僕はひとしきり思考を巡らす。細かな蔦を這うように。僕は喫茶店で西畑さんとした会話の内容を幾度と反芻する。一体どういうことだ? あちらの彼女も、僕を求めているかもしれない? もし私にその権利があるのなら、そうなっている? 意味がわからない。僕を元の世界に帰すための冗談かもしれない。涙まで流して? あの確信できる偽りのない優しい微笑みをしてまで? あの微笑みは嘘だった? そうじゃないことを僕は願う。それから自分が元いた世界のことを思う。

 あなたは帰らなければならない。彼女はそう言った。その発言の具体的な意味を僕は探る。詰まれた雑草の中から花を探すみたいに。それからベッドに横になる。僕が追及しよういう気になるものは殆どが答えが見つからないまま終了するな、と思った。やはり僕には西畑さんの発言の意味がわからなかった。ベッドに身を沈めていると、僕は今朝と同じ眠気を覚えた。今寝てしまえば、明日がくる。明日を迎えても休日であることは変わらない。日曜日。日曜日を憂鬱に思う時が来るとは。僕は思わず苦笑した。高校のときは当たり前だった光景が、今になっては貴重な記憶となって僕に癒しを賦与してくれる。最近は心地よい眠りばかりだ。すべて円滑に、幸せに時が進む。ただし、「時が進んでしまう」。この生活を僕は中断しなければならない。「「幸」の部分は極めて少ない。そして儚い」。彼女が言うことはすべて正しい。納得はしていない。けれどなにかしら理由があるのは確かだ。いつかは帰らなければならない。また、「あの日々」に戻らなければならない。「踵を返すだけなのです」。彼女の言うことはすべて正しい。やはり。

 室内は寂寥とした空気が滲んでいた。部屋の明かりは点いていない。窓から差し込む月の光だけを受け入れていた。部屋は蒼白く染まっている。月光は僕の肌に蒼い光を配る。ガラスのテーブルは不思議にその光とたわむれている。神秘的な泉のような煌びやかさを佩びている。カーペットも月に照らされる。僕と僕の部屋は、その純粋な月の存在だけを許していた。それだけを求める一途な恋のように。濁りも汚れも無い、疲れを知らない澄んだ愛のように。僕は蒼白く包まれて眠る。瞼を閉じるとその色に景色が染まる。蒼白い光が瞼の裏から滲む。夜空を渉る雲と同じ歩幅を保って。僕は――。

 唐突なチャイム音に僕は思わず目を覚ます。怪奇な奇声のようなものを上げてしまう。それからベッドの上で身が強く弾む。危うくベッドから転がり落ちそうになる。なんだ? チャイム? 枕元にあるデジタル時計で時刻を確認する。午後九時四十四分。深い夜にへと進行していくこの時間帯に何のようだ? 誰が? それは確かに「僕」に用事があるのだろうな?

 僕は玄関まで行く。ドアについた小さな穴を覗く。栗色の髪。灰色のパーカー。スリムなブルージーンズ。顔の部分が切れていて確認できない。栗色の髪――。いささかな警戒を密かに僕は抱く。それからドアを開けた。堀澤? という声がした。女性の声。聞き覚えの……ある声だった。

 ひかりだった。何の用だろう。ちょっと待て。ひかり? まさか。

 ひかり? と僕は訊ねる。ええ。彼女は肯く。なにか違う。僕の「ガールフレンド」のひかりと、抽象的だが確信とした違和感がある。僕は訊ねようとする。「ひかりって――」

 「堀澤」。名前を呼ばれて僕は一瞬だけ凍結する。ひかりは僕の顔を見つめる。探したわ。彼女は言った。「一体どういう――」、僕の質問を彼女は途中で断ち切る。声を挿んできたのだ。強く毅然とした声で彼女は言う。


「帰ってきて」





 

はい! この作品も後半に突入します。ラストにかけてかけますよ。

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