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8 虚ろな独り言 

 妙に既視感を覚える。その視野に再生される光景に。青年の前に現れた男。その男は傘を持っている。紺色の傘。青年はその傘を持った男に奇妙な感覚を抱く。以前にも――過去にも――このように傘を持った人と出会った。いや、傘を持った人間など幾らでも会ったことはある。青年自身、傘を携帯して外に出かける機会は多い。しかし、その既視感はそういった光景との一致ではなかった。もっと青年自身の個人的な過去から連想されるデジャヴだった。青年はその記憶を脳裏から呼び起こそうと試みる。朝日を手招きする夜のように。朝の香りをじっと待つ夜の鳥みたいに。けれどその記憶はひどく霞んでいた。それは現実で見た景色だっただろうか。それすらも曖昧に淀んでいた。それを鮮明に思い出すことは不可能に近かった。砂場に埋められた地図を読み解くくらいに。やがて青年はその感覚を脳の隅にへと寄せる。どこかで現状と似たような体験をしたことがある。それは確かだった。それが事実だ、という断言はできないけれど。青年は既視感への追及を破棄する。もうすこし凝らせば思い出すかもしれない。そう考えると未練が残った。沈んだ夕日のわずかな欠片のように。



 その登場は、高木の視界を占領するには十分すぎた。しかし、その占領する正体を高木は信じることができなかった。それは堀澤だったのだ。今まで探していた堀澤だった。姿を晦ませていた堀澤だった。堀澤は紺色の傘を持っている。高木はまばたきを忘れていた。陰鬱そうな顔を覗かせる空は小降りな雨を滲ませている。地面が暗く染められていった。雨が高木の髪を濡らす。顔を濡らす。肩を濡らす。雨粒が高木の前髪をつたる。堀澤も傘を開かずにいた。高木をみるだけだった。ただ見つめていた。そして――感受性のよさそうな青年の優しい微笑みをした。

 堀澤なのか? と高木は訊ねる。雨が肌を這う感覚があった。そうだよ。その男は(堀澤は)そう言った。お前は。高木は口ごもる。雨が徐々に強度を増す。高木の肌を濡らすのではなく、打つ。やがて雨は肌を打つのではなく、叩く。「俺が今探している、堀澤なのか?」

 違う、と堀澤は言った。「僕は君が探している堀澤ではないよ」

 やっぱりか、と高木は案の定だった返答に肯く。それと同時に一瞬だけ覚えた安堵は、一瞬にして失せた。「それはなんとなくわかった」と高木は言った。

「僕は君の知ってる堀澤じゃない。けれど、君の力にはなれると思う。君は今迷っている。君の知る堀澤がどこに行ったのか。探しているんだろう?」

 高木は肯く。ああ、と言った。探している、と言った。真剣な表情をつくるその顔を雨が叩いた。堀澤は思わず微笑む。寛容そうな柔らかい微笑み。それは堀澤に違いなかった。けれど高木の知っている堀澤ではない。

 とりあえずどこか話せる場所へ行こう。堀澤が提案する。高木はすぐ近くにある喫茶店が脳裏に過ぎる。そうだな。高木と堀澤はそこへと足を運んだ。さすがに堀澤は傘を差した。紺色の暗く淀んだ色合いの傘だった。雨を弾く音が、止め処なく二人の耳に続いた。



 席につく。コーヒー、と高木は言った。僕も、と堀澤は言った。そして椅子に腰をおろした。短い沈黙があった。堀澤はメッセンジャーバックからハンカチを取り出す。それでさっさっと濡れた肩や顔を拭う。高木もそれを受け取る。肌をおおう雨を簡単に拭く。「さてと」

「これから僕が話す内容は、いくぶん現実感のない話だ。しかしそれは事実だ。僕は本来、君に「ヒント」を与えるような役割じゃない。だけれど、君に言わなければならない。僕はそう思う。君には堀澤くんを――いなくなってしまった「僕」を――連れ戻してほしいと思っている。だからいささか信じられなくても、肯定するように努めてほしい」

 わかった、と高木は言った。そして肯いた。

「君が今探している堀澤は、今ここではない世界に行っている。いいかい? もう一度言うよ。君の前から消えた堀澤くんは今、「ここではない世界」にいる」

 高木は思わず首をかしげた。は? と声が洩れそうになった。「ここではない世界?」。そう、と堀澤は肯く。「ここではない世界」。高木はそのことについて考えてみる。何もわからなかった。話を続けてくれ。高木は堀澤に言う。

「簡単に言えばパラレル・ワールドだね。君はこういうSFな概念を信じる人間かい?」と堀澤は微笑みながら訊く。

 信じないな、と高木は言った。というより、と言葉をつけ足す。「信じられない」

「そうだろうね」と堀澤は笑みをこぼす。「僕の知っている「高木」もそう言うと思うよ」

「そうかい」。高木は言った。

 話を続けよう。堀澤の表情が神妙なものにへと踵を返す。高木は肯く。「それで――」と堀澤が言い始めたときに店員が席に訪れた。トレイにのせた二つのコーヒーをそれぞれの前に置く。白い皿にのった白いマグカップ。ごゆっくり、と店員は捨てセリフでも吐くように言って消えた。高木はそれにミルクを加える。砂糖を注入する。ブラックのままのコーヒーを高木は好まなかった。本当にパラレルワールドというのが実在するのなら、そのコーヒーへのこだわりはどこの世界の高木も共通だろうと思った。

「それで」と堀澤が言う。「堀澤くんはその別の世界に行ってしまった。堀澤くんが行ってしまった世界には、その堀澤くんが求めるものがある」

 求めるもの? と高木は言う。そう、と堀澤は肯く。

「堀澤くんは「無くしてしまったもの」が幾つもある。それは主に「ひかり」のことだ。なんとなく察しがつくだろう?」

「ああ」高木は肯く。

「その悲しみに堀澤くんは相当ダメージを覚えていると思う。人間は「無くしてしまったもの」を求める生き物だ。堀澤くんは無くしてしまったものを求めている。けれど、この世界にそれはもう無い。なくしてしまったものはとっくに灰になっている。無いものをねだっているんだ」

 そうかもしれない、と高木は言った。いや、そうなのだろう。

「でも堀澤くんは――自分のことを説明しているようで気持ち悪いね。なんか――その事実を拒んでいた。求めることを諦めなかった。でも、彼は求める「だけ」に過ぎなかった。意味がわかるかい? 彼はとても弱い。彼は無くなったもの――ひかりとの思い出を――を取り戻したい、と思うだけだった。思うだけ。それを実行することはできなかったんだ。彼は弱い。僕と同じなのだから、わかる」

 なるほど、と高木は言った。納得できた。

「それでもその欲が滞ることは無かった。虚しく蓄積されていった。小説家が納得いかない出来の原稿用紙を丸めて屑箱に捨てるみたいに」

「それで、その「無くなってしまったものがある世界」に行ったっていうのか?」

 そう、と堀澤は肯く。「そのとおり」

 急に現実感が失せるな。高木は言った。堀澤は苦笑した。はは、と笑みを表情に含ませた。確かにそうだね。考えられない話だ。堀澤は言う。ああ、と高木は肯く。でもそれが事実なんだ。現実なんだ、と堀澤は言う。前向きに肯定しようとしているさ。そう努めている。あんたにそう言われたからな。そう言うと、堀澤は「よろしく」と言いながら静かに笑った。

「それで」と高木は訊ねた。「その世界のひかりは堀澤と仲がいいのか?」

 そうだよ。堀澤が肯く。なるほどなあ、と高木は言った。コーヒーを一口吞む。さっぱりついていけなかった。まるで異なる話題を無理やり共通なものにして、無理やり会話しているようだ。高木はただ肯くことしかできない。中学の数学の時間もこんな感覚だったな。高木は思い出す。

「まあ、君が困惑するのもわかるよ。僕もそうだった」

「一つ質問していいか?」と高木は言った。堀澤はコーヒーを啜りながらどうぞ、と言った。高木とは違い、ミルクも砂糖も入っていない。

「じゃああんたは、何者なんだ?」

 堀澤はマグカップを皿の上に戻す。食器の触れ合う音が必然的にした。よどみのない、気持ちいい音響だ。「僕は――」と堀澤は続ける。

「そのパラレルワールドに迷い込んでしまった人間を、元いた世界に帰す役割さ。職業名のようにしていうなら、「案内人」だね。正確には「迷子の案内人」。消防士、警察官、医者、「迷子の案内人」だね」と堀澤は言った。

 わかんねえ。高木は少々粗い口調で嘆く。だろうね。堀澤は笑む。春の日差しのような微笑みだった。久しく見ていなかった笑顔だった。その笑顔に高木はなぜか安堵した。前にいる堀澤は自分の知っている堀澤ではないのだ。けれど、その微笑みを目にすると高木はいささか安堵を得ることができた。あいつは元気でいるだろう、と思えたのだ。こことはまた違う世界。そこで堀澤は楽しくいるのかもしれない。堀澤が幸せなのなら、それでいいのかもしれない。そう思った。しかし、自分は置いていかれた。その事実が高木に寂しさを送った。

「ちょっとまて」高木は用事を思い出したて彼方へと飛び去る鳥のように、突然声を吐いた。

「なんだい?」

「それならあんたは、俺じゃなくて堀澤の方へ行かなきゃならないんじゃないか?」

 そうだね、と堀澤は言った。でもあっちは今頃僕ではない「迷子の案内人」が向っているはずだよ。気にすることはない。そう言った。じゃああんた。俺の方にこなくてもよかったんじゃないか? と高木は訊ねる。堀澤は静かに笑みを洩らす。それから「僕個人の意思だよ」と言った。そしてまた微笑んだ。そのあとに自分と彼は同級生だということを思い出した。



「じゃああのひかりは……」思わず声が洩れていたことに高木は気づく。

 その日の夜。高木は堀澤に教えてもらった幾つかのことを脳裏で整頓していた。その途中で、この前出会った「ひかり」のことを思い出した。二つを重ねてみる。まるで同一人物の手の平のように、それは見事に合致した。すべて合点がいく。それから自分は何をすればいいのだろう? と思索した。自分ができること。それは何も無いように思えた。



 堀澤の失踪がわかった。そのことを高木はひかりに言った。翌日。食堂で昼飯を食べているとひかりが来たのだ。ひかりは相変わらずぎこちなかった。なぜ来たんだ、と高木は思わずにいられなかった。ひかりは高木と向かいあうようにして腰をおろす。それで……堀澤の失踪は判明したの? とひかりが訊ねたのだ。

 高木はひかりに昨日起きたことをすべて話した。なにも隠さずに説明した。別の世界から訪れた堀澤に出会ったこと。高木の探している堀澤は今こことは違う世界にいること。その世界に堀澤がいってしまった理由(これが一番説明するのにこたえた)。そして高木の前に現れた堀澤はそれを元いた世界に帰すという役割だということ。けれどなんとなく、この前出会った「ひかり」のことは噤んだままにした。

 「そう」それらのことを一通り聞いたひかりが言った言葉はそれだけだった。とても無愛想に。ひかりの表情はとても落ち込んでいた。高木はふと思う。ひかりは自分のせいで堀澤が消えた、と思っているのではないか? と。それは無いか。かぶりを振ろうとした。しかし、それはできなかった。高校時代とひかりの思考が変わっていなければ、そういうことを考え込んでしまうだろうと思った。「そう」という一言。それはそういう意味を示唆しているのではないか? 


 午後の授業が終了する。高木の心内には不安が拭えないままでいた。忌々しい予感が高木の胸に這い蹲っていた。講義が終了した後、高木はすぐにひかりを探した。しかし、ひかりの姿はどこにもいなかった。嫌な予感がした。胸騒ぎがした。つい最近味わった感覚と似ている。ひかりの友人らしき人物に訊ねていく。ひかりの性格のことだから、友達は結構いるだろう。その推測は案の定正解だった。ひかりの友人はすぐに見つかった。ひかりを知らないか。訊ねる。今日はもう帰ったんじゃないかしら? 彼女は言った。まさか。いや、まさか。ほかにも友人はいた。その人にも訊ねた。ひかりがどこにいったか知ってるか? ひかりなら午後の講義サボって帰っちゃったわ。身体の具合が悪いんですって。ところであなた、ひかりのボーイフレンド? 彼女はそう言った。高木は違う、とかぶりを振ってから礼を言った。まさか。まさか。まさか。ひかり。お前。堀澤を迎えにいったんじゃないだろうな。

 高木は心から祈った。胸騒ぎが高木の肌にへと沁みこんでいった。目の前に広がる景色が震えるような気がした。高木は強く祈った。迂闊に、口元から洩れているかもしれない。


 頼むから、俺を一人にしないでくれ。


 






今回も長かったです。今日は一日中起きてました。なんででしょうね。

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