7 パラレルワールドの静寂
僕は眠ってしまっていたらしい。日差しに照らされたベッドの匂いがする。今が朝だということに気づくのは簡単だった。カーテンは開いたままだった。ベッドに倒れたまま、僕は静かに昨日のことを思い出した。それは意識の片隅から淡々と広がっていった。やがて僕は身を起こす。ガラスのテーブルには、空の容器となったインスタントラーメンがあった。隣には呑みかけの状態が守ってあるコップがあった。どうやら飯を食べてすぐ僕は眠りに落ちたらしい。
僕は昨日のことを鮮明に思い出そうとした。それは容易い行為だった。意識が完全に覚める道を辿るのに従って、その記憶も明白に蘇ってきた。西畑さんとの会話。僕はその会話の内容すらもすべて、脳内に呼び起こすことできた。そして今の僕の現状について――現在僕が彷徨っているこの世界について――思考を巡らせた。僕は、本来来るはずのない場所に訪れてしまっている。帰還しなければならないのだ。脳のなかで様々な物事を整頓しながら、僕は水を一杯だけ呑む。それからまたその行為に耽った。
西畑さんの声を聞くのはこれがはじめてだろう。僕は彼女の声をはじめて耳にしたのだった。西畑さんは僕の前に立っていた。黒い傘を携帯している。それは影と同じ役割をはたしているようにも思えた。唐突な西畑さんの登場。僕は困惑するしかなかい。西畑さんは神妙な顔つきのままだった。どうやら僕の困惑が落ち着くのを待っているらしかった。しかし、その困惑は思うように剥がれなかった。そんな単純なものではなかった。
僕は彼女の顔を窺う。それから訊ねた。「西畑さん?」
「はい。そうです。いま名乗ったとおり、西畑です。堀澤さんを「あなたにとっての基準の世界」に連れ戻しに参りました。「案内人」を務めさせていただきます」と西畑さんは真剣な表情のまま言った。実に恭しい口調だった。感情を忘れたような無機質な声。
「は、はあ」と僕は辛うじて肯く。なにか返そうと思ったが、何も浮かばなかった。脳裏では様々な困惑が支配している。けれどそれを文章に替えて、彼女に問うことはできなかった。僕はただ口を虚ろに動かす。餌を頬張る金魚みたいに。
奇妙な寂寥さを漂わせている西畑さん。彼女は延々と僕に視線を走らせていた。その背後には僕の住むマンションが見えた。マンションの白い外壁。それは西畑さんの姿をたたえる役目としては、あまり相応しくなかった。わびしさを拭いきれない背景。西畑さんの色彩が溢れる煌びやかさにその背景は、毛の先ほども及んでいなかった。西畑さんの傘は奇妙な異観のようだった。その傘と西畑さんのシリアスな表情。それらが場の空気を不可思議な漂いに変哲させていた。ようやく僕は声をこぼせることができた。蛇口から垂れた一滴の水みたに。
「僕にとっての基準の世界?」
「ええ。今から私はいくぶん信じられないことを話します。ですがそれは事実なのです。よく耳を澄ませてください。単刀直入ではありますが――」彼女はそこで一度区切った。息を吸う。それから言葉を続けた。「あなたが今存在するこの世界は、あなたが元々いた世界ではありません」
その発言は、僕を理解に苦しませた。意味がまったくもってわからなかった。同じ日本語でここまで奇妙な文章を作り上げることができるのか。僕は摑めないまま、ただ「はあ」と声を洩らた。それしかできることはなかった。現実感の無さ過ぎる発言だったのだ。「まったくわからないのですが……」恐縮しながら僕は言う。
「そうでしょうね」と西畑さんは淡白な口調で言った。「理解に苦しむのは十分承知しております。今から詳しく説明しますので、脳内で強い混乱を覚え始めたらいつでも断ち切って質問してください」
この時点で訊ねたいことは幾らでもあった。けれど僕は肯くだけだ。
「あなたは今、元いた場所とは異なる世界にいます。簡潔すると、あなたは今「平行世界」に訪れているのです。さらにわかりやすくすると「異世界」。もっと言いますと「パラレル・ワールド」です」
はあ、と僕はまた肯く。脳裏には強い困惑が強いれていた。さっぱりだ。
「この三日間ほどの間に、強い眩暈などに襲われたりしませんでしたか?」と西畑さんは訊ねた。
確かにあった。記憶を辿らなくてもすぐに同定できる。あります、と僕は言った。ですよね、と西畑さんは言った。
「その瞬間から、「あなたがいた世界」は「あなたがいたはずだった世界」にへとなったのです。堀澤さんがこれまで地に足をつけていた世界――わかりやすく申しますと、「基準の世界」ですね――その世界から「別の世界」に来てしまったのです。なので堀澤さんは最初、強い違和感を覚えたと思います」
確かに強い違和感を覚えた。その違和感の正体を追及しようともした。しかしそれは不可能だった。だから諦めた。気づいた頃にはその違和感は消えていた。
はい、と僕はそこで西畑さんに訊ねた。手を上げる小学生みたいに。西畑さんもはい、と言った。生徒を当てる教師みたいに。
「なぜ僕はその「平行世界」に来てしまったんでしょう?」
西畑さんはすこし黙り込む。しかしその沈黙は短かった。「詳しくはわかりません。ですが、安易な可能性として、あなたは元いた世界にうんざりしていた。そこにはもう無くなってしまった「何か」を強く求めていた。そうじゃないでしょうか」
「……そうかもしれない」いや、そうだった。僕は自分が元いた世界にうんざりしていた。それは「あの事件」が発生した時からだった。僕は殆どのものを失った。損なってしまった。廃らせてしまったのだ。僕の身から、様々な部品が欠けていくような錯覚を覚えていた。そんな状態のまま。時間がつくる橋を僕は辛うじて歩いてきたのだ。暗闇に包まれて。
「平行世界に来てしまう人間は、大概がそんな理由なのです。いつでも人間は「無くしてしまった」ものを求めます。その欲がピークを超えたとき、人は知らない世界にへと無意識に赴いていくのです。その知らない世界が、このような場所なのです。迷い込んでしまった世界には、必ずその人間の「求める」ものがあります」
僕はひとしきりその事について思考を巡らせてみた。確かにこの世界には僕の求めている要素が揃っている気がした。離隔してしまった僕とひかりとの関係はリセットされている。それどころか、彼女は僕のガールフレンドとなっている。――そして何よりも、僕の憧れの人物とこうして会話できているのだ。以前はそんなことあり得なかった。西畑さんの印象が、いささか異なっているのも事実だけれど。僕は言う。「多分、それは正解だと思います」
西畑さんはゆっくりと、静かに肯いた。可憐な空の少女のような肯きだった。
「そして西畑さんは、僕を元の世界に帰す、という役割なのですね?」。僕は訊ねる。
もう一度西畑さんは肯いた。「はい。そのとおりです。堀澤さんのようにパラレルワールドに迷い込んでしまった人間を基準世界に帰す役割が私です。私と同じ役割の人間はほかにもいます。その人間らを「迷子の案内人」と自分らは呼びます」
「迷子の案内人」と僕はその言葉を繰り返した。西畑さんは肯く。それから「はい」と言った。迷子の案内人……。僕はその言葉を脳裏で繰り返し反芻する。妙に奇妙な響きだった。西畑さんは傘を持つ手を変更する。西畑さんの冴えきった新鮮な水のような瞳。綺麗にまとめられた黒髪。優しくその髪は揺れる。風とたわむれるみたいに。まるで氷の中に咲いた花のようだ。僕は見蕩れる。つい何日か前まで、僕はこの人を目で追っていたのだ(正確には違う人物だけれど)。そのことを僕は思い出す。そして今はこうしてその人と会話している。その事実を比較してみると、僕はつい高揚した。「ということは」
はい? と西畑さんは言う。
「ここ以外にも、パラレルワールドはあるのですか?」
「はい。あります。平行世界という概念は、無数に存在します。無限、といってもいいくらいあります。それは数え切れないです。人間の「望み」だけ、世界は実在することになります。そこには妙に基準の世界と変わった――というよりはズレた――世界があります」と西畑さんは言った。
「なるほど」僕はうなった。そして肯いた。なるほど。
しばらく沈黙が続いた。「それでは」と彼女は言った。「元の世界に帰還する準備をしましょう」
「待ってください」と僕は焦りながら言った。「もうすこし、待ってください」
西畑さんは思わず眉間を寄せた。表情の乏しいその顔面に、ようやく感情が浮かんだ気がした。眉をいささか寄せただけなのに。けれど、僕にはそれだけで十分だった。この顔がまた視界に映せなくなるのは、惜しい。僕はそう思った。僕の求めていた世界。そこに僕はいる。なぜ帰らなければならないのだろう? そんな疑問が僕の脳裏に過ぎってしまっていた。
しばらくして西畑さんは口を開く。「……そうですか」
はい、と僕は言った。その意思がたゆたうことは無かった。その意思はすでに完結していた。
「わかりました」と彼女は言った。僕は肯く。「ですが、あまり長い期間はいれません。その条件を守ってください」
「わかりました」と僕は言った。なぜ長い期間いてはならないのだろう、と思った。けれど、それを訊ねることはしなかった。
とりあえず脳内の整頓を終える。僕はもう一杯水を呑んだ。ここは僕のいた世界ではない。僕は脳裏でその言葉を反芻する。この世界には僕の求めるものがある。自分の望みが叶えられている世界。僕は妙に高揚していた。自分が知らない世界に来てしまったというのに。TVを点ける。朝のニュースが放送していた。神妙な表情を徹底している男性キャスターが原稿を読み上げていた。意識を向けてみる。誘拐された少女を発見したらしかった。よかった、と僕は思う。それからお湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れた。
タンスに整頓されている服を選ぶ。服装を思索しながら、僕は大学にいるひかりのことを考えた。それから高木のことを考えた。大学に行けば、当然のようにひかりがいる。僕に魅力的な笑顔をむけてくれる。高木がいる。高木はひかりといる僕に目をやり、苦笑する。僕ら三人は食堂でも雑談する。くだらない話題。それはまるで僕の過去にあった光景がよみがえったようだった。それなのに帰らなければならないのか?
気がつけば、僕がその世界に訪れてから二週間を迎えていた。
今回はいささか長かったです。 なんかユリイカの頃の自分がつかめません。




