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6 虚ろな独り言 

 「ここじゃないみたい」という昨日のひかりの発言について、高木はひとしきり思考を巡らせた。しかし、さっぱりその意図は読み取れなかった。午前の講義が終わった。昨日のひかりの言動を高木は理解できずにいる。あの発言が示唆する意図に肯定できない状態が保たれているのだ。彼女の世界と高木の世界には、けしてゆえつすることのできない隔てりがあるのかもしれない。彼女は堀澤がいない、という事実を耳にし非常に深刻そうな顔をしていた。深刻そうな表情。それは高木がその事を教える前から把握しているようだった。彼女は堀澤が失踪したことをすでに知っている。一体いつから? 高木は地に降りしきる雨のように閉塞のない思考を巡らそうと努める。しかしすぐに、その雨はやむ。灰色の雲が分裂していく。水たまりがその解散していく雲を映していた。やはりわからなかった。

 午後の講義が終了し、高木は大学の食堂に向かった。本来ならば、高木の隣には(または前には)堀澤がいるはずだ。けれど、堀澤はここにはいない。いつか降った雪みたいに。堀澤がいた事実はまるで余韻を残さない。最初から堀澤という人物など存在しなかったみたいに。徹底して痕跡を抹消させている。どこにいっちまったんだよ、堀澤。高木の心境は朝焼けの光に襲われる夜の隙間のように疲れていた。のかもしれない。      

「ねえ」声がした。高木は振り向く。その声は聞き覚えのある声だった。昨日聞いたばかりの声だったのだ。記憶の中で一番最新の声だろう。ひかりだった。染めたてらしきの栗色の長い髪を宙に遊ばせている。緑色の派手な模様をしたパーカーを着ていた。

「お、おう」と高木は曖昧な声を垂らす。昨日話したばかりなのに、妙に昨日とは違う緊張に襲われた。「ひかりか」

「ひ、久しぶりね」とひかりは言った。妙にぎこちなさが二人にはあった。「元気にしてた?」

 昨日あったばかりじゃないか。高木は思う。だが言うほどのことでもない。「ああ、元気にしてる。ひかりもな。ど、どうしたんだよ。珍しいな。大学で話しかけるなんて」

 ひかりは気まずそうな顔をする。「そ、そうね。というより、初めてじゃないかしら」

「そうだな。初めてだ」。どうして今になって声などかけてくるのだろう? そんな疑問を浮かんだ。高木も昨日のこともあり、若干気まずさを感じていた。昨日の彼女の顔が脳裏に浮かぶ。機械のような神妙な顔だった。今とはまるで違う。「どうしたんだよ」

「……いや」とひかりは口ごもる。視線を視界の端にむける。高木の姿が視界から欠けた。それから視線を戻す。「最近さ、高木一人でいるから」

 おかしい。妙に変だった。違和感がした。それはひかりとの会話のぎこちなさとはまた異なるものだった。高木は昨日の光景を脳裏に投影する。昨日高木に意味深な発言をしたひかり。いま目の前で定まらない視線を向けるひかり。お互いのひかりは、高木の脳裏ではうまく繋がらなかった。一致しない。しかしそれはあり得ない。昨日目にしたひかりは、もしかして別人だったのかもしれない。それはあまり肯定できない推測だった。彼女はひかりに違いない。しかし、目の前にいるひかりとは違う。まるで夜の闇に隠れる鳥のように明瞭と存在する違和感が、高木の脳内に刻まれる。そんな違和感を抱くくらい、二人を同一人物だとは納得できなかった。

 ひとまずその違和感を脳の片隅に寄せる。それから「あ、ああ」と思い出したように声を洩らす。「なんで俺が一人でいることを知ってんだ?」それからそう訊ねた。

 ひかりは口をつぐむ。それから踵を返す。視線がふたたび高木の座るテーブルの隅に赴いた。顔をいささか紅潮させる。「私もよく食堂をつかうのよ。だから視界に映るのよ。あなたたちが」

 嘘だろう。高木は予測する。それならば高木らもひかりの存在に気づくはずだ。大学に入学してから高木と堀澤は、ひかりの姿を目にしたことがなかった。「あの事件」が起きて以来からだ。ひかりと高木らの関係は遠く離隔してしまったのだ。それからの高木たちはひかりとの復縁を望まなかった。望めなかったのだ。それだけ「あの事件」が賦与した傷は深かった。お互い顔を合わせないように努めた。いや、高木と堀澤は努めなかったといっていいだろう。ひかりが一方的に避けていたのだ。それは徹底した無視だった。彼女は強く傷ついている。それを癒すことを二人はできない。復縁の可能性などまるで皆無だった。

 もしかして――。高木の脳裏に奇妙な想像がたゆたう。彼女はもしかして――。いや、それは無いだろう。高木はその想像を脳から葬る。そんな希望をいだく価値は自分には無い。高木は「そ、そうか」とだけ言った。なぜ声なんてかけたんだ、ひかり。頼むから、俺に邪推させるような態度をしないでくれ。そう願った。

「ほ、堀澤は……」とひかりは言う。不規則な声調だった。口ごもりが解けることはなかった。「どうしたの? 風邪かしら。最近全然みないのだけれど」

 やはり昨日のひかりとは違う。いま前にいる彼女は、堀澤の失踪をなにも把握していなさそうなのだ。じゃあ彼女は誰だ? それは当然わからない。そして堀澤の失踪の真相も高木は知らない。

「それが俺にもわからないんだ。あいつのことだから、連絡くらい寄こすのに。それすらも無いんだ」

 それを聞いたひかりは一度眉を寄せた。沈黙をその場に構築させる。それから考え込むような表情をした。夕焼けの欠片を宿した宝石のような彼女の瞳。「あの事件」が起きる以前も、この瞳は変わらなかった。彼女のあの明確とした強い瞳はやはり美しかった。染めたての栗色の髪が、さらにその夕焼けの欠片をたたえた。

「連絡もよこさないまま、今日で四日目になる。ああいうことはしない奴なんだがな。嫌な予感がする」なるべく平然さを装わなければ。そう肝に銘じる。

「たしかに、嫌な予感がするわね」とひかりも言った。「どうしたのかしら……」

 再び静寂が二人を世界に導く。沈黙に満ちた空気は重い。高木はやはり妙な希望を抱いてしまう。今自分はひかりと会話している。「あの事件」が原因で、間隔が空いてしまったのに。それでもこうして会話できている。彼女は堀澤が消えたことを心配しているのだろうか? 堀澤が消え、不安が脳裏を過ぎった。だから高木に声をかけたのかもしれない。やはり――。彼女にはまだ仄かに未練を残しているのではないか? そんな淡い想像を覚える。それと同時にそれは俺たちの方かもな、とも思った。未練があるのは、高木と堀澤の方なのだ。



 「午後の授業があるから」とひかりは言いながら、高木のそばを離れた。その時のひかりの顔は、高木の脳に強く刻まれた。彼女の表情には翳りがいささか誇張されている。やはり、堀澤の行方不明が原因だろう。あの暗く淀んでしまったひかりの顔を、高木は脳裏から取り払えない。拭おうとしても無駄だった。高木はもう一度、堀澤のマンションに行くことにした。また、昨日の「ひかり」に邂逅できるかもしれない。ひかりとはまた別人の「ひかり」。高木の頼りは、その「ひかり」の存在だけしかなかった。縋るように。

 電車を降りる。駅をでる。世界は匿名的な憂いを佩びている気がした。まるで井戸の奥底のように。どんよりとした冷えを抱きかかえている。高木はその世界の憂鬱そうな表情から目を叛ける。その不吉な雰囲気に溺れないように。高木は歩みを続ける。地面を踏む。地面を蹴る。空は雲の布団を被っていた。本来の冴えきった青い空は深く眠っている。じんわりと湿気を滲ませていた。雨が降りそうだった。

「高木くんかい?」

 忌々しい空気を潜り抜ける男の声。高木の耳にそれは辛うじて届く。運ばれる。高木はその声の主を脳裏に描く。まさか、と思った。

 まず視界に映りこんだのは紺色の傘だった。傘をまとめるバンドがめくれていた。傘は妙に広がって拡張している。いつ雨が降り出しても大丈夫のようにだろう。次に黒いスニーカー。アディダスのロゴが刻まれている。それに従ってダークグリーン色のカーゴパンツ。すこし残った丈はスニーカーに蓋をするように弛んでいた。そしてネイビーのナイロンパーカー。模様は無かった。それと黒々とした色で革生地のメッセンジャーバッグを肩からかけている。

 その人物はひかりではなかった。性別の時点でそれは異なっていた。しかし、その男性を高木は存じていた。知らないはずがなかった。その男は、高木を「高木くん」なんて呼び方は絶対にしない人間だ。高木はもう一度その男に視線を向ける。なんだ? どういうことだ? 脳が混乱する。その混乱を妨げることはできない。その男は、今まさに高木が捜索している本人だったのだ。

「ほ……」高木は思わず声を洩らす。状況がまるで摑めない。いったい、どういうことなのだ? 高木は彼の姿を自身の世界に映す。どうして。「堀澤、なのか?」

 高木は静かにそう訊いた。やがてぽつりぽつりと、雨がアスファルトを濡らしていった。本来の冴えきった青い空は、寝返りをうったのかもしれない。

いささか三話をだすのに遅れました。 ええ、スランプです。

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