5 パラレルワールドの静寂
ひかりは数少ない僕の友人の一人だった。それも異性の友人だった。そして、僕にはじめて好意を抱いてくれた女性だった。僕とひかりは高校で出会った。その過去を思い出す。
僕はクラスで孤立していた。高木とは教室が隔離してしまい、僕は誰にも声をかけれずにいた。いつのまにか教室は静謐さを失っていた。一ヶ月もしないうちに教室は賑やかになった。それが僕には理解できなかった。その喧騒から遠く離れた場所に僕は隔てをつくる。読書量もますます増えた気がした。高木とも会話の数が減少した。充実した高校時代はもうあきらめようと僕は思っていた。
僕は暗闇に包まれてた。延々と続く長い橋は不安定に揺れて軋む。その橋を僕はたどたどしく歩き続けていた。はてしなく伸びたその橋は暗闇の中で揺れる。とても不規則に。その橋を取り囲むのは深い漆黒だった。真っ暗闇がそこには佇んでいた。その現状に足が竦み、歩みを中断してしまう。そうすると鈍い軋み音をあげてその箇所が崩れる気がした。なので僕は歩き続けるしかなかった。暗闇と自分との距離も測れないまま。闇に溺れて。橋に手すりは無かった。すこしバランスを崩せば、僕はそのまま深淵にへと落ちていくだろう。その深淵がどれほどの深さなのかも見当がつかないまま。
そんな日々を僕は繰り返す。充実した高校生活はもう無理だろう。僕はこの三年間、延々と橋を渡っていなければならないのだ。暗闇に取り囲まれて。僕は暗黒と同じ歩幅で、その橋の最後尾を目指した。そこには何もないことは知っている。あるのは激しい空虚感と、殺伐とした静寂だけなのだ。闇をあやかる沈黙だけが、そこにはある。それでも僕は歩き続けなければならなかった。抜け出したい。心からそう祈った。僕はこの日々から――この暗澹な漆黒から――抜け出したかった。闇はそんな僕の祈りを認めるはずがないだろう。僕は奴隷だ。この世界の奴隷なのだ。囚われている。僕を囲う闇たちが、そう僕をたたえていた。
そんな僕に声をかけてくれたのが、ひかりだった。朝焼けの光を映し、震える水面のように優しい笑顔だった。僕はひかりの顔を見上げる。彼女の優しいあの表情を僕は忘れることはできないだろう。それから僕とひかりは友人となった。ひかりは常に心優しさを携えていた。僕はそんなひかりに惹かれていたのだと思う。今思えば、恋愛的な感情も抱いていたのかもしれない。だがその隔てりを跨ぐことはできなかった。僕にかかずらっていた滅法な闇は、まだ余韻を残している。
彼女が自分に異性としての魅力を感じてくれている。そのことに気がついたのは、高校三年の中旬頃だった。彼女の態度がどこかこわばっていた。緊張している。なんとなく僕も気づいていた。しかし、それに踏み入ることはできなかった。そこで僕とひかりの関係が輪郭を崩していくことに恐れていたからだ。僕はそこには追及しないことにしていた。できるだけ。だが、その意識がさらに僕たち二人にぎこちなさを強いれさせた。お互い。じれったさを覚えていたと思う。
ひかりに思いを伝えられた。僕はわかっていたとはいえどもちろん反応に困った。たとえ僕にもその感情が(僅かでも)ひかりにあったとしても、やはり僕たち二人は「友人」という関係で留めておかなければならない気がした。
ごめん、と僕は言った。
ひかりは俯く。「そうよね」と一言だけ言った。僕は頷いた。そうよね? そうだ。空は何かの余白みたいに不気味な色合いを佩びていた。「あの事件」が起きてしまったのは、その次の日だった。僕はできるだけその過去を、思い出したくない。
「なにか様子が変よ?」とひかりは僕に訊ねた。僕の顔色を窺っている。「すこし休んだほうがいいんじゃないかしら?」
僕はかぶりを振った。「いや、なんともないよ」なんともないわけがなかった。ひかりは僕の恋人になっている。その現状に、僕は首をかしげることしかできない。ここは僕の知っている世界ではなかった。「君の……講義は終わったのかい?」
ええ、と彼女は肯く。それからもう一度僕の顔を拝見した。ひかりが何やら素振りをはじめる。僕は身をいささかこわばらせる。ひかりの細い手。僕の前髪を潜って、額に触れる。僕はさらに身がこわばる。頬に熱が佩びる。「熱はないみたい」とひかりが言った。ひかりの手の感触が、額から消える。ひかりの茶色い髪が揺れた。
「だから何もないって言ってるだろう」と僕はひかりの前に手をだす。すこし距離を空けた。
ひかりは「どうしたの?」という顔をしながら目をぱちぱちと瞬きしていた。「なんか、様子が変」
「い、いつもさ」と僕はこめかみを掻く。現状を明確に把握したかった。考えを整理する時間を求めた。
「さっき高木が私に言ってきたの。「今日の堀澤は様子が変だ」って。だから私、気になっちゃって」そう言ってひかりは笑みを漏らす。それは深緑に差し込む光のように美しかった。
「高木の様子が変になったのかもしれない」
「あの人は元からよ」
「僕もさ」
「じゃあ、その彼女の私も変なのね」
それから僕と彼女は駅で別れた。久々にひかりと会った気がした。彼女はいつのまにか僕の恋人になっている。不思議だとは思う。だが、悪い気がしなかったのも事実だった。マンションへと歩みを続ける。僕は今朝まで体の奥底に鎮座していた「違和感」を、とうに忘れていることに気がつく。
マンションへと向かう最中。僕は今朝まで身を苛んでいた違和感のことについて追及してみた。今なら摑めるかもしれない気がした。しかし、それは摑めなかった。煙みたいに。やはりそれは結論を導くことが困難なものだった。僕はあきらめる。
僕の前から何者かが近づいてくる。女性だった。夜の空を吸収したみたいに長く美しい黒髪。デニムジャケット。白いスカート。踵の低いヒール靴。その女性は左手に傘を持っていた。雨は降っていない。降りだす気配も無い。その傘は飾りにすぎなかった。黒色の高級そうな傘だった。模様は無い。その女性は美しかった。肌は晴天の光が降りしきる地に積もった雪みたいに白かった。瞳はまるで朝の香りを含んだ寄せ波に濡れるガラス瓶のように澄んでいた。奥行きがある。
そこで僕はその女性に既視感があることに気づく。忘れるはずがなかった。一目惚れだった。彼女は僕の憧憬する女性だった。彼女は僕の前で歩みを止める。
西畑さんだった。
「堀澤さんでしょうか?」と西畑さんは訊く。
僕は肯く。
「はじめまして。私が掘澤さんを基準世界へと帰還させるため参りました。「迷子の案内人」の、西畑です」
二日連発でした。 がんばりました。 明日は無理かもしれないです。




