4 虚ろな独り言
高木は本来降りなければならない駅を通りすごし、その一つ先の駅で降りた。理由は堀澤の様子を伺いに行くためだった。高木は駅から降りて、堀澤の住むマンションへと足を運んだ。これまでにも何度か訪れたことはあった。なので道のりなどに困ることは無い。高木はもう一度メールの返信が届いていないか確かめる。堀澤からのメールは無かった。どんな事情があるのかはしらない。けれどメールくらいは寄こせるだろう、と思う。不吉な予感が高木の脳裏に紡がれる。やがて堀澤のマンションへと到着する。高木はエレベーターにのる。堀澤の部屋の前にたつ。無機質な黒いドア。それは感情を携えていない。高木はチャイムを強く押した。
虚無感を連れた沈黙が、高木を頭上から覆った。静謐な空気がドアに強くこびりついていた。無愛想な印象を抱かせる。中に堀澤はいないらしい。高木はもう一度チャイムを押す。音が響く。誰もいない部屋に鳴り響く留守電話のように、それは虚ろに響いていた。高木はその余韻が遠ざかるのを見届ける。そしてマンションの玄関にへとエレベーターで降りた。しばらく待ってみよう。
自販機でレモンサイダージュースを購入する。それの蓋も開けず、高木はただ掘澤の登場を待った。階段の段差に腰をおろす。開放されっぱなしのガラス扉。石のタイルの壁。同じ素材の地面。マンションの住人たちの郵便受けが三列ほど密着して並んでいる。その列が途切れると、無機質なエレベーターの扉がある。エレベーターは二つある。渦状に巻かれた階段もあった。その階段も石のタイルの素材だった。高木の住むマンションと比較してみると、どちらも似たような物件だった。堀澤のマンションのほうがいささか家賃が高い。
それらの外壁をひとしきり観察した後。高木はもう一度メールを確認した。確認する意味などまるで無かった。高木は自分が送信したメールが掘澤に届いておらず、まだ電波の蔦が巡っている世界の中を彷徨っている姿を想像した。その可能性はあるかもしれない。いや、無かった。
「どこにいっちまったんだよ。堀澤」
レモンソーダの缶のデザインを眺めながら、高木は呟く。こんな事態はいままで一度も無かった。いつも掘澤は当然のように高木の傍にいたのだ。空が夜を招待する。それに伴って空気は仄かな冷えを佩びる。雲が縦長に伸びていくように流れていく。冷えた風と同じ歩幅で歩きはじめていた。この空は今の俺なのかもしれない。そんなことを高木は思う。この空は俺の心境を暗喩している。暗喩の空。それはそれぞれの人間の心理。雲が泳ぎ回る空は、人間の心理の隠喩なのだ。
サイダーを一口吞む。炭酸が喉を刺激する感触がある。それは執拗に高木の喉に淀んでいる。引いていく波に抗う貝殻のように。空は寡黙な夜を引き連れようとしていた。虎視眈々と菫色に染まっていく。幼い少年のように無邪気な雲は、濃い色彩を覚えていく。陽が月に支配されるまでの暫定的な時間帯。それは高木の肌にも影響を与えた。夜の翳りが高木の視界に映る世界を及ぼしていく。それらの変貌を高木は見届けようとする。夜の開催を予告する予兆が、高木にも訪れた。
やがて高木は立ち上がる。堀澤が帰ってくる気配は毛頭となかった。高木はソーダを飲み干す。空になった缶を鉄製の屑箱に放り投げる。そして駅へと歩みを始めようとした。しかし、その踏み出した足は一歩目にして、中断される。
高木は自分の先にいる女性を知っていた。当然だった。それは堀澤と関わりの深い人間だった。高木は一度つばを呑みこむ。開いた隙間から冷えた風が侵入してくるので、着用しているナイロンパーカーのチャックを締めた。高木はもう一度視界の先にいる女性に目をやる。薄い鼠色のパーカー。青いデニムパンツ。紫色をしたプーマのロゴが入った白いスニーカー。そこにいたのは、ひかりだった。
ひかりは高木のほうへと近づいてくる。「よ、よう」と高木は手を上げる。なぜここにいいるのだろう? と高木は疑問を隠せない。ひかりは堀澤と「あの事件」をきっかけに仲違いしているはずだった。かつてあったその関係は今では修正は不可能だろう。それなのに、ひかりは堀澤のマンションに赴いていた。ラフな格好で。
「久しぶり。高木さん」とひかりが言う。
高木さん? やけによそよそしくなってしまったその呼び方に、高木は困惑する。それと同時にいささか哀しくなった。やはりあの当時の俺たちはもういないのだ。
「ど、どうしたんだよ」と高木は訊ねる。こちらまでもが、思わず緊張した。
ひかりはその質問に返答は寄こさなかった。ひかりはひとしきり辺りを見渡していた。堀澤のマンションに目をやる。頭上の空を確認するように見る。それから高木の顔を凝視した。気味の悪さを高木は感じた。ひかりはそれらを観察した後、「ここじゃないみたい」と一言呟いた。
「ここじゃない?」高木は繰り返す。意味がわからない。「何がここじゃないんだ?」
「いえ」とひかりは考え込むような声調で言う。「なんでもないの。こっちの話」
「そうなのか」
「ええ」
二人の間にあるぎこちなさを、拭うことは不可能だった。高木は沈黙を恐れて会話を続けようと努める。しかし続けるべき言葉が見つからなかった。頭部を掻く仕草が多くなっている気がした。「ごめんなさい」
「え」高木は声をこぼす。
「今急いでいるの。ごめんなさい。ここには堀澤……くんはいないようね」
「ああ。いないよ」と高木は言った。「もしかして」と言葉を続ける。もしかして、と思った。「堀澤がどこにいるのか知ってるのか?」
「いえ、知らないわ。ごめんなさい」とひかりはかぶりを振った。
「謝ることじゃない」と高木は言った。落胆はそれほど覚えなかった。
「それじゃ」
「それじゃ」
そう言ってひかりはどこかへ歩いていった。やがて消えた。ひかりの背中が消えるまで、高木はずっとその姿を見ていた。久々にひかりと話した気がした。実際、久しく喋っていなかった。ひかりは堀澤を捜しているようだった。もしかすると――。もしかすると、ひかりはまだ堀澤のことを思っているのかもしれない。そうであればいいな、と高木は祈った。やはり、あの関係は崩れるわけにはいかない気がした。まずは堀澤の行方だ。高木は堀澤の失踪を追及することを決意した。堀澤は助けを求めているのかもしれない。ただの高木の深読みのしすぎならば、その時は笑えばいいだけだ。それで済む。メールを確認する。当然、来ていない。俺は堀澤の行方を捜す。その義務が、俺にはあると断言できる。空を見上げる。空はまだ仄かに明るさを残していた。空は人間の心理の隠喩だ。
虚ろな独り言サイドでした。 今日からGWです。予定は何もないので、小説書きます。




