3 パラレルワールドの静寂
それからも僕の身から、違和感が解けることは無かった。奇妙な感覚に酔いながら、僕は自身のマンションに足を運んだ。僕はすっかり消灯してしまった空を見上げる。空は深淵にもぐったように徹底した闇を広げている。違和感は相変わらず僕の心内にたたずんでいた。けれどその世界は夜を祝う街に変わりはなかった。駅からマンションまでの道も、とくに変哲はない。僕の知っている、覚えたての道だった。
マンションはすでにあちらこちらで光が点っていた。僕はエレベーターに乗り込む。緩慢な速度で僕を閉じ込めた箱は上昇していく。数字と矢印が集ったパネルが光を佩びる。そのパネルの頭上には、2Fと表示された別のパネルがある。パネルの文字が3Fに変化する。扉が開き、部屋を並べた廊下が姿をすこしずつ現した。僕は自身の部屋の鍵を取り出し、廊下をすすむ。鍵を差し、僕は暗闇を溜めている室内にへと足を及ばした。部屋の電気を起動させる。室内を支配していた闇が晴れた。
そこでも僕はいささか奇妙な感覚に陥った。部屋の中のなにかが、今朝の状態と異なっている気がした。それを具体的にはわからない。しかし、まるで僕の部屋の模様を違う部屋にそっくりそのまま写したみたいに、それは僕が以前まで覚えていた親しみとは違っていた。とりあえず靴を脱ぎ捨てる。僕はその正体を探った。模索を開始する。窓に向かい合って置かれたディスク。まるいガラスのテーブル。シングルサイズのベッド。とくに異常なものは窺えない。しかしその部屋は僕の部屋ではない。そんな気がする。赤の他人の部屋に、無断でしのんだような感覚だった。僕はベッドに腰をおろす。そこから部屋をもう一度見渡した。やはり変化を発見することはできなかった。しかし、部屋は妙に僕によそよそしい。
結局なにもわからないまま、僕はひとしきりシャワーを浴びた。身をまとう違和感は、そのシャワーでは流れ落とすことはできなかった。匿名的なその感受は、僕の体の芯から強く密着しているのだ。重ねた食器みたいに。それから僕は二杯ほど水を飲んだ。トイレを済まし、歯を磨いた。そして僕はベットに潜る。電気を消す。僕の世界は再び、闇とたわむれることとなる。眠気はすぐに訪れた。寡黙な深淵の奥底が、僕をその眠気がもたらす世界へといざなった。僕はそれに拒否を覚えることなく後を追う。夜の足跡を辿っていく。そして意識を廃らせた。その瞬間のぎりぎりまで、違和感は僕の身からはがれることは無かった――。
目を覚ます。まず淡く霞んだ部屋の天井があった。それはやがて明瞭な光景にへと認定されていく。カーテンの隙間から侵入した日差し。その光は垂直に伸びている。カーペットになにかの印みたいに線を引いて、さらに僕の上半身と下半身をつなげる骨盤あたりを走っていた。意識を徐々に取り戻していく。それは迂闊に破けた袋の穴から水が零れるみたいに、すこしずつの分量でだった。その水を僕は脳裏に流していく。
体を起こすと、必然的な兆しのように違和感が脳に襲来した。僕はまたか、と頭部を掻いた。やはり違和感は欠けずにじっと張りついていたのだ。意識を忘却していた間でも。僕はとりあえずベッドから身を離脱させた。カーテンを開け、朝の日差しを歓迎する。それからTVをつける。トイレで尿をする。強く渇きを覚えていたので、一度うがいをした。二杯目は喉に流し込んだ。
こびりつく違和感に身悶えしながら、僕はTVに目をやった。朝のニュース。僕はそこに意識を向ける。小学生の少女が、誘拐されたらしかった。感想はとくに浮かばなかった。最近はよくこういった事件を目にする。僕は湯を沸かした。とりあえず、コーヒーを吞もう。違和感への言及は、それからだ。
大学へと僕はむかう。電車に揺られながら僕は文庫本の続きを読む。車内は朝の気だるそうな表情をした人たちを運んでいた。その中でただ一人。僕は通常とは特異な緊張をしていた。昨日、高木とした会話を思い出す。昨日決意したことがあった。今日こそ、僕は西畑さんに声をかけるのだ。一言だけでいい。どうやって? 誰かが僕の脳裏で、そう呟く。その声は僕じゃない。ひかりだった。ひかりが僕に、唆していた。その邪気を僕は脳裏から外そうと努める。じっと目を瞑る。電車に揺られる。僕の中の架空のひかり。ひかりははっきりした声調で、僕の耳元で囁き続けていた。そこにためらいの余地は無かった。
外は線路をはしる軋み音が響いている。なのに、車両の中は沈黙に守られていた。それは僕にとって好都合のことだった。その沈黙は僕に落ち着きを賦与してくれる。そんな気がした。僕は幾度と西畑さんに声をかけるシチューションを脳裏に想像した。気がつけば、文庫本の内容になど意識は歩みを中断していた。朝の電車に揺られながら、僕は西畑さんのことを想像し続けた。車両の窓から入り込む朝の日差し。それを僕は手に掬う。柔らかい朝の匂いがした。
大学に到着すると、僕はまず西畑さんを探した。しかし、西畑さんはまだ大学には来ていないようだった。やれやれ。それなら仕方ない、と僕は脳裏で呟く。若干の安堵を覚えていたのも事実だった。もうすこしで授業が開始する。僕はその講義が行われる教室にいち早く行った。適当な席に腰をおろす。教室には誰もいなかった。僕はメッセンジャーバックから文庫本を取り出す。栞を抜き取り、続きを読んだ。
「よ」と声がした。「まだ講義には早いんじゃねえか?」
それが高木だと、僕はすぐに確信する。「別に予定もないしね。高木もおんなじ講義?」
「まあな」と高木は言う。僕の隣に腰をおろす。「だりー」と気力の無さそうな声を漏らしていた。高木は朝が苦手なのだ。
一、二ページ読んだだけで、僕は文庫本を閉じた。メッセンジャーバックに戻す。「なあ、高木」
「なんだ?」
「昨日、僕が言った約束、覚えているよな?」約束、という言い方は間違っているかもしれない。訂正はしなかった。億劫だから。
「は? 約束?」と高木は首を傾けた。
「いや、だから。今日こそ僕は西畑さんに声をかける――ってこと」
新たに数名の男女が、教室に入ってくる。腕時計に目をやる。そろそろ講義が始まる時間だった。高木に目をやる。返事が無いな。
僕と高木の間に、沈黙が降りる。高木は薄生地のパーカーにチノパンツという服装だった。
「……西畑?」
「え、なに? 西畑さんだよ」
高木は僕を怪訝そうに見つめたまま、首をかしげた。わざとか、と僕は推測する。「西畑、て誰だ? そんな奴、いたか?」
「は?」と僕は呆れる。高木の意図がわからなかった。「なにって、西畑さんだよ。僕が一目惚れした、あの」
「一目惚れ? 西畑さん?」高木は気味悪そうにそれらの単語を反芻する。「なあ堀澤。お前、なにいってんの?」
「は」と僕はもう一度声を漏らす。それから僕は訊ねた。「高木、大丈夫か?」
「それはお前じゃないか?」と高木は言う。高木はまるで西畑さんの名前をはじめて耳にしたかのような表情を続行している。それに僕は妙な苛立ちを覚えた。それは違和感をも伴っていた。僕にはさっぱりわからない。
「なあ」高木はさらに続けて、僕に訊ねる。「西畑って、一体誰だ?」
おかしい。僕はベンチに腰をおろし、缶コーヒーを啜る。コーヒーを吞みながら、僕は今朝の高木の様子について思考を巡らせた。今朝の彼はどこか様子が変だった。演技なのだろうか? そうであってほしいと思う。あれだけ毎日話題にだしていた西畑さんの存在を、彼は一晩にしてすべて忘れたのだ。まるで西畑さんが関係する記憶の部分だけ、ナイフで切り取ったみたいに。それは考えられない。ならば、あの態度はなにを示唆しているのだ?
やはり演技だろう。それしか思い当たる可能性は無かった。コーヒーをすこし口に含む。すでにコーヒーはぬるくなっていた。次に僕は身をまとう妙な違和感について追及してみる。やはりこれは便宜的な案も、暫定的な答えも浮かばなかった。見当もつかない。僕はもう一度コーヒーを吞んだ。やれやれ、と思う。
「あ、いたいた」と女性の声がした。
その女性を僕は一瞥する。それと同時に強い動揺が僕を襲う。なんで、と僕は口元から漏れる。胃が締めつけられる。僕は立ち上がり、その場から離れようと歩をはじめる。「ちょっと待ってよ」と声がした。僕は振り向く。
それは仲違いしているはずの、ひかりだった。ひかりは僕に微笑を浮かべている。それはレースカーテンをかろうじてすり抜けた日差しの光のような、とても柔らかく優しい笑みだった。手を振っている。僕に? 僕はまばたきの行為を忘れている。目玉が渇きを覚えていた。
ひかりは僕のほうへと近づいてくる。僕との距離が、徐々に狭められていく。やがてひかりは僕の真正面にへと来る。僕は焦りを隠せないでいる。なんだ? 何が起きている?
「今逃げようとしたでしょ?」とひかりは笑みを含んだ口調で僕に訊ねた。
「そ、そんなことないよ」と僕は言う。動揺している。「な、なんで?」
ひかりは僕の様子に、怪訝そうな眼差しを向ける。おかしい。今朝の高木といい、ひかりといい。この違和感といい。今僕がいるこの世界といい――。僕はひかりに目を合わすことができない。当然だろう。「あの事件」が発生して以来、ひかりの顔など目にしていなかったのだから。
けれどそこには、僕のガールフレンドとなっているひかりがいた。ここは僕の知っている世界ではない。ようやく僕はそのことに気づく。
パラレルワールド二話目です。 次回は虚ろな独り言サイドです。




