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最終回 虚ろな独り言

 鉄網の柵をよじ登る。それを跨いで中に侵入する。辺りは深い夜の毛布を被っている。単純な闇の色を空に貼りつけていた。高木が「迷子の案内人」の堀澤に連れてこられた場所は、この夜の工場だった。ここがなにの工場で、なぜ高木はここに連れてこられたのか。見当もつかない。それでも高木は堀澤のあとをついていた。今日の昼のことだ。食堂で西畑さんが高木に声をかけてきた。そのあと高木は堀澤を迎えにいくという選択を決意した。午後の講義を無断で欠席した高木は「迷子の案内人」の堀澤に覚悟を決めたことなどを話すために電話をかけた。本当にそれでいいのかい? と堀澤はその意思に賛成することもしなければ否定することもしなかった。ただ、本当にそれでいいのかい? と高木に確認をとるだけだった。これでいい。と高木は言った。決意を固めた意思がもたらす自身のその言葉はとても力強くかんじた。堀澤はそうかい。ならそうしよう、と釈然としないようにも思わせる口調でそう言った。高木はそんな堀澤の様子など気にもせずに肯いた。なら今日の深夜にしよう。今から僕が言うところに集合してほしい。そのような経路で高木は今この工場にいる。

 工場の中はあたりまえの静寂を居坐らせていた。空間はその静けさをは蓄えているかのようにも想像できた。夜の沈黙は工場の地を覆って、高木と堀澤の侵入した足跡を鋭く警戒していた。工場のなかには二人以外に人の気配はない。高木はふと携帯をひらいて時刻を確認する。午前の一時。世界は夜の絶頂を迎える寸前の状態にあった。空を見上げるとまるで一つの黒い扁平な板のようにも思えてくる雲も星も飾らない淡白な暗闇を広げていた。まさにそれは闇一色で単純なものだった。朝がその漆黒を喰らいはじめるまでに時間はまだたっぷりとある。新米力士の食べる飯の量ほど。ひっそりとした夜の隙間を満たすものはスニーカーが地を踏む音としんとした沈黙の海だった。

 堀澤さんは相変わらずナイロンパーカーとカーゴパンツといった格好だった。いつも変わらない。そして右手には僕も身体の一部ですよ、とでも主張しているかのような紺色の傘を手に持っていた。杖のようにしてその傘を持っており、堀澤さんの足音と平行してトントン、と傘の先端が地面を突くかわいた音をさせていた。

 その傘はシンボルかなにかか? と高木は堀澤に訊ねた。堀澤は一度彼に目をやってそんなものさ、と返答した。そして小さく笑った。「気がつけば持っていたんだよ」

 気がつけば持っていた? 高木はその言葉を繰り返した。そう、と堀澤は肯く。

「「迷子の案内人」はみんなこのような傘を持っているらしい。僕の知る「迷子の案内人」も黒い傘を持っていたよ。今考えると、彼女の「あの話」は僕がこうなることを予告するものだったんだろうな。薄々感づいてはいたんだけれどね。彼女のはなす話はいつも正しかった」  

 高木は堀澤のはなす内容の大概を理解できずにいた。いささか個人的なことを話しすぎたね。ごめん。と堀澤は言った。構わないと高木は言った。

 夜の翳りに表情の所々を隠された堀澤の顔はなかなか窺うことはできなかったけれど、どうやら堀澤は過去の記憶を思い出す行為に耽っているようだった。歩みを進めながら。高木にはそれが後悔しているようにも思えた。彼は過去に自身が犯した過ちに後悔をおぼえている。確信はないけれど。すくなくとも思い出している過去は彼にとって嬉しいものではないだろう。それは理解できた。彼女の話はいつも正しい。堀澤の言葉が脳に流れる。「彼女」というのが誰かもわからない高木はその堀澤の独り言に曖昧にうなずくのみだった。「僕はあの日の夜に降りしきった雨を今でも思い出すよ。あの雨は僕を容赦なく濡らしていって、僕の悲しみの奥底を深めていった。あの寂しさを今でも僕は忘れないよ。完全な孤独が僕を襲ったんだ」

 高木ははあ、と漠然とした声を洩らすだけだった。さっぱりわからない。高木は頭を掻いて、足取りをいささか速めたのだった。夜はさらに黒々とした煙を拡張していく。空のすべての間隔が夜に埋もれる瞬間を待ちわびるようにカラスが数羽はばたいた。夜の鳥はとても意識を尖らせていて敏捷な神経を常に働かしている。高木の足音に気づいて、一斉に上空に逃げ込んだ。そして夜の最後方へと消えていった。

 


 僕が招いたこの連鎖を、とめてくれ。と堀澤は高木に言った。いきなりの発言に高木はつい眉をしかめてしまう。堀澤と高木はあれから無断で工場の中に侵入し、いまは鉄でできた階段を上っていた。歩くたびに鉄が高い音を上げる。それを冷たい壁は吞み込んでいく。音はその空間のなかで誇張して響いた。

 僕の心は最後まで定まらなかったんだ。きっとどこかで揺れていた。堀澤はそう言った。堀澤のその声は何重にも分離してその空間に波紋を描いた。高木の耳元から遠ざかっていった。相変わらず高木は堀澤がなにを話しているのか理解できなかった。堀澤は着々と歩みを進めていった。

 俺にもよくわかるように話してほしい、と高木は堀澤に頼んだ。わからなくていいんだよ。堀澤はそう返した。高木君。前にもこれは話したかもしれないけれど、「世界その一」で起きた出来事は「世界その二」でも連鎖する。覚えているかい? 覚えている。と高木は言った。意味はまだいまいち理解していないけどな。階段の手すりに触れてみると所々の鉄が錆びて剥がれていた。剥がれた部分をなぶるとさらに鉄はぱりぱりと爛れていった。

「つまりそういうことだよ」と堀澤は言った。「僕が起こしてしまった悲劇はどこの世界でも広がっていく。森の中で広がる炎みたいに。出来事はどこの世界でも繰り返されていくんだ」

「それを俺に止めてくれ、と?」

 ああ、と堀澤は肯いた。そう肯くわりに、彼の顔はいささか遺憾を覚えているような様子に思えた。本当にこれでいいのだろうか。そんな屈託を覚えている。高木にはそんな気がした。「そろそろ着くよ」堀澤がそう言う。二人は段差を踏む。

 ふたたび沈黙が二人と夜の隙間に挿まれる。本にしおりを挿むみたいに。二人を取り囲むあたりは夜の静けさと階段を上る足音。それのみとなる。尽きることのない夜の中で、堀澤が犯した連鎖のことについて高木は思考を巡らしてみる。もちろんわかるはずもない。仕方なく高木は夜の空に目をやった。夜の空はどんよりとしていて、雲の姿も星も確認できない。すべてを黒く塗りつぶす闇の海が広がっていた。パラレルワールドにいる堀澤のことを思う。あいつは今どんなことを考えているんだろう。まさか俺が迎えに行こうとしていることなんて知らないだろう。仮に俺があいつに迎えにいったとして、あいつは元の世界に戻ってくるだろうか? 便宜的に高木は考えようと努める。西畑さんが脳裏に過ぎる。正直な気持を告白してくれたひかりを思い出す。それらを思うと、高木は肯くことができた。堀澤は帰ってくるさ。やがて階段の先から扉が見えてくる。

 


「本当にそれでいいんだね?」堀澤は高木と顔を合わせながら確認をした。高木は肯く。「ここから先は僕は責任はもてない」

 構わないと高木は言った。そして礼を言った。堀澤は未だに浮かない表情をしており、不安を扇いでくるようで高木は目を逸らした。高木は目の前にある扉をただただ見据える。息を吐く。扉の表面は所々傷をつくっており、黒く滲んでいる箇所や凹んだ箇所などが目に入った。まるで使い古された布のようだった。夜はさらに深みを増していく。星や雲までもを食べた夜は高木の頭上でじっと淀んだままでいる。

 待ってろよ、堀澤。高木はドアノブに触れる。鉄でできたドアノブは仄かに冷たい。冷ややかな雨を含んだアスファルトみたいに。「高木君」背後から声がして、高木は「なんだ」と返す。「ぜひ、堀澤を連れて帰ってきてほしい。僕がこういうのもおかしいけれど、これは君しかできない役目だと思うんだ」それだけだよ。すまない。堀澤はそう言った。高木はなんだよ、と苦笑を洩らす。

 夜がすこしだけ動作をみせる。手すりを回す。息を吐く。吐息は流れた夜がさらう。ゆっくりと、ドアを引く。僅かな隙間は暗闇がのぞいている。徐々に広がっていく隙間の間隔もまだ闇しか窺えない。唾を吞みこむ。足を踏みだす。額は汗を孕む。やがて深い闇が高木を覆い、そのあとで光が襲う。そして染まる。ふと堀澤の声がした気がした。けれどなんと言ったか聞き取れなかった。すでに高木は混沌の中にいる。なぜか先ほどの「すまない」という言葉が脳裏に過ぎった。そしてさっき堀澤はこういったんじゃないだろうか、と思い当たるものがあった。本当にすまなかった――。暫定的に彼が放った言葉がそうだったとして、高木にはそれの意味がわからなかった。



 高木の姿がドアの奥に消えた後。僕はそれをただ見つめていた。なぜ僕は彼をあちらの世界に行かせることを許してしまったのだろう。ドアはすでに踵を返して世界と世界を隔てる壁となっている。僕はそれをただ見つめている。どれだけの水を呑もうが残るであろう渇きが僕の奥底でたたずんでいた。それはつまり罪悪感だった。この夜のように深い罪悪感だったのだ。焦りに伴って訪れるやりきれない思いは僕の肌をさすった。耐えれなくなって、僕は手に持っていた傘を地面に落とす。重力に従って傘は地に吸い込まれるように倒れる。その傘を見る。僕はこの傘のようだ。そんな風に思えてくる。

 夜がすこしばかり僕を射る。罪悪感が汗を招いた。じんわりと滲むその汗は冷たい。左手を握りしめると汗ばんでいるのがわかる。それなのに僕の唇は乾ききっていた。ごめんなさい、と。僕はただそれだけを呟いていた。夜は流れ、姿を晦ます雲は泳ぐ。風のなびきに似た飛行機の音が上空からした。日陰に積もった雪のように虚ろな傘を拾い上げる。そして僕は階段を下った。その足取りは罪悪感が賦与した重みによって不安定なものだった。

 「あの」という毅然とした声。「高木を今、どこに連れて行ったんですか?」階段を下りると、僕を待っていたかのように前から女性の声がした。その声は僕の記憶の核に明確にひっかかった。僕は足元から視線を離せないでいた。まさか、と思った。僕はあの日肩を寄せて眺めた蒼い月を思い出す。まさか君は――。

「喬木になにをしたんですか! 教えてください! 高木はどこに行ったんですか!」彼女は闇雲に僕に叫んでいた。その声を耳にして僕は唇を噛みしめる事しかできなかった。思わず頬に涙が一筋流れた。それに倣うように次々と涙は僕の目元から溢れていった。それは彼女も同じだろう。彼女を見る。案の定、涙を流しているひかりの姿があった。僕たちの後をつけてきたのかどうかは、わからない。   END


 


 

 


完結でした。長かったです。この作品を書いている途中に、幾度もスランプになりました。それを乗り越えることができたりできなかったりでしたが、完結できたことをとても嬉しく思います。次回作もよろしければ。

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