2 虚ろな独り言
幼少期から高木は、脳裏で巡らせている思案を、迂闊に口から漏らしてしまう悪癖があった。その癖を零してしまう時は多々あった。その悪癖のせいで、初対面の人間はまず高木に奇妙さを抱いた。高木はその不気味なものを目にしたような視線を、これまでに幾度も味わっている。もちろん、悪くない気分などなるわけが無い。高木はこれまでに何度か、この悪癖を克服しようと試みたことはあった。しかしそれは困難な事実だった。意図的に夢を見るみたいに。
今日も西畑さんに声をかけれなかった、と嘆く友人の堀澤の隣に高木は腰を下ろす。すわる直前で一度腰を停止する。腰を預けるベンチの箇所に汚れなどが無いか、確認のために一瞥する。そして腰を下ろした。ベンチの表面はまだいささか冷えを残している。冬の余韻は、思わぬところで残っていた。その冷えた感触がカーゴパンツごしに訪れる。隣にたたずんでいる友人に目をやる。堀澤はアスファルトのように無機質な瞳で、空を見上げていた。高木もその視線を辿って空を目にする。雲が消滅し、わびしさが強く印象つける色合いだった。虚無な状態が重い沈黙のように長々と続く。堀澤はベンチに腰を沈めている。二本の足をほつれた糸みたいに気だるく伸ばしていた。ここのところ毎日目にする光景な気がする。
「……滑稽ですよ」と堀澤は自嘲気味な声調で呟く。まるで乾いた砂に覆われた岩石のような声だった。
まあまあ、と高木は笑う。「明日もあるじゃねえか」
「今どきTVドラマでも聴かない台詞をどうも」
「んだよ。慰めてるのに」高木は唇を尖らす。
「高木にとっちゃ他人事だからね」
「俺にとっちゃ他人事だからな」堀澤は唇を尖らした。
無気力な空は、なにも伴うものを要していなかった。空の瞳にうつるその景色に、わびしい色合いだけを淡く浮かばせてそれで完結した。堀澤はその空を延々と見上げている。その飾り気をもほのめかさない安い空を、虚ろに見据えている。その行為に耽っていた。高木はその堀澤をときどき目をやっては、自販機で購入したマックスコーヒーの缶を二、三度振った。それから蓋を開けて、一口すすった。「この激甘なのがいいんだよなあ」
「そうかい。僕にはわからないな」と堀澤は空を見つめたまま言った。生気の察せない堀澤の瞳が、いささか動きをみせた気がした。
「確かに甘すぎなところはある。正直俺も二、三口呑むとそれで満足だ」もういらね、とまだ八割方なかに残っているコーヒーの缶を堀澤に手渡す。
「なら三口で全部飲めばいいじゃないか」と堀澤は悪態をはきながら渋々それを受け取った。「どうせなら僕でも吞むものがよかった」
そう言って堀澤は缶の口に唇を触れて、熱に注意しながらちびちびと啜った。それを喉に押しこみながらまた表情が死んでる空に視線を戻した。それは義務的な仕草のように思えた。堀澤はひとしきりコーヒーを吞んだあと、一度息を吐いた。「――よし」
「ん?」
堀澤はコーヒーの缶を口元から離脱させる。空になった缶を一瞥する。そして唐突に堀澤は言った。「明日だ。明日、必ず話そう。西畑さんに声をかけるんだ」
「何だ急に」と高木は思わず驚いた。訊ねる。
「僕は明日、西畑さんに声をかける。今決めた。明日だ。うん。明日」と堀澤は暗示でもかけるように自分に言い聞かせていた。
高木はその一瞬にして変貌した堀澤の態度に、呆然としていた。「なんだ急に」としか言えない。堀澤はうんうん、とうなずいていた。気味が悪い。「気持ちわりぃ」脳裏に浮かんだ言葉が、そのまま口元に流れた。
「高木も明日、応援してくれよ」と堀澤は言った。「僕は今決意したんだ」
「……わかったよ」と高木は呆れた口調で言った。それからやれやれ、と頭部を何度か掻いた。
翌日。大学に堀澤の姿は見当たらなかった。これまでに堀澤が大学を休むことなど、一度も無かった。それは中学のころも、高校のころもだった。いつも学校に向かえば、そこには堀澤がいた。高木はそれを当然のように思っていたし、堀澤本人もそれを義務的なもののように務めていたと思う。しかし、堀澤はこの日に限っていなかった。その大学からは、堀澤がいた事実そのものの根拠が消失してしまったようにすら思えた。一切の痕跡すらも残さずに。何かあったのかもしれない、と高木はつい邪推をしてしまう。一度休んだだけなのに、思惟しすぎだと自分でも思う。
海面に垂れた雨粒のように痕跡も残さず消えた堀澤に、高木はどこか妙な胸騒ぎを覚える。猜疑心が高木の心中にさまざまな邪推を与える。執拗にその懐に忍ぼうと試みてくる邪気。高木はそれを煩わしく抱いたまま、その日は全講義を終えた。講義の途中で、何度か西畑さんの姿を目にした。西畑さんは堀澤の欠席を、知るはずもないけれど。
高木は自分のマンションに(大学に入学して、一人暮らしを始めた。もともと片付けなどの行事は苦手で、部屋はまだダンボールの箱に支配されている)帰る途中、電車の車内で堀澤にメールを送信した。なんとか発見できた空席に腰を沈める。窓からの景色を見る。空を射るようにそびえた楼の建物たち。それらは淡々と無愛想な空気を散らして窓の枠から除外されていく。目にした建物はその瞬間から、残像の概念と変貌するのだ。高木の視界の中で。
線路を駆けて削る鈍い轟音。それは延々と車内にたたずむ乗客の耳元を歩いている。それらがその場に存在する限り、この車内に静謐さを求む余地は無い。車内には部活を終えた学生が大半を占めていた。それらの殆どは自身の携帯電話と見つめあっている。たまに三、四人のグループで雑談をしているものもいた。
本来ならば、いま高木の傍には堀澤がいるはずだった。特に会話はなくても、その場に存在するだけでそれは良い記憶の類に値されることだと思う。陰鬱な車両の揺れに襲われながら、いつも車窓から落ちてくる夕日に肌を染めている。眠気に誘われ、欠伸をする高木。夕日の燈を利用して、読書をする堀澤。その二人の寡黙な光景だけでも、幾らでも物語るものは存在した。まあ、明日があるしな。高木は「大丈夫か?」と一言だけ打って送信したメールに「ああ、大丈夫。軽く頭痛がしただけだよ。明日こそは頑張ろう」という返信が返ってくるのを、車両に従って揺れながら虚ろに待ちつづた。脳裏にこびりつく怪訝を、取り払いたいから。
メールの返信は翌日になっても訪れなかった。さらにそれは二日、三日と続いた。抽象的な状態を保っていた猜疑心はじょじょに明晰さを描いていった。妙な忌々しさが高木の脳裏を襲う。嫌な予感が過ぎったのだ。いや、まさか。高木は否定の意思を挿む。しかし、メールの返信が無いという事実が、その忌まわしさを強く物語っていた。まさか……。
いや、まさか。高木はそこでも悪い癖を漏らしてしまっていた。虚ろな独り言。「いや、まさか」
もうひとつの物語でした。二つ分プロットをたてるのは、大変ですね。




