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最終回 パラレルワールドの静寂

 それは私が十三歳のころだったことを、今でも覚えています。と、西畑さんは話し出した。僕は興味深いその話に耳を澄した。「当時私は巨大な喪失感と虚無感を抱えて生きていました。あなた――堀澤さんと同じように。まるで私は自分の身体の一部にぽっかりと空洞ができてしまったようでした。その空洞はなにで塞ごうとしても無意味で、空白ばかりが私の中で広がっていきました。その空洞がもたらす劣等感は日に日に強くなっていって、そして私はあなたと同じようにパラレルワールドに迷い込んでしまったのです。そこは本当に私が失くしてしまったもの全てだ修正されてありました。私の前から消失していったもの全てが、その世界には当然のように実在していて、さらに全てが私の望む形でありました。たとえそれが偽者であったとしても、私の身体に空いてしまった空洞を埋めていく事は余裕で可能でした。やがて私は身体に空いた空洞がすべて埋まったあとでも、喪失感や虚無感が薄らいでいったあとでも、その世界から離れようとはしませんでした。そこもあなたと同じですよね、堀澤さん。ねえ堀澤さん。私とあなたって似ていると思うんですよ。人生の歩み方も、「好きな異性のタイプも」」そう言って彼女は笑みを洩らした。僕は引き攣った笑みを作って、熱を佩びていく頬を隠した。無意味な行為だということは承知しているけれど。わかりやすいですね。と西畑さんは意地悪そうに微笑んだ。静かな微笑みは衰えをみせることなく、その美しさを恒常させている。その微笑みは僕の心情に落ち着きとゆとりを賦与した。暖かいな。そう感じた。

 僕は彼女の話の続きを待った。西畑さんは僕の顔をみて肯いた。話を再開しますね。そして彼女は話を続けた。

 そんな私をまずく感じたのか、「迷子の案内人」さんは私に毎日のように説得をしてきました。あなたは世界に捨てられたわけじゃない、だとかまだあなたには希望がある、とか。そんなことを毎日夜になると聞かされました。昔から歯向かったり、抵抗などをするようなタイプじゃない私は黙ってその話に肯くだけでした。それでもその世界を離れようという意識はありませんでした。芽生えることもありませんでした。「迷子の案内人」さんが諦めるのを待ちました。それでも彼女は私に説得をやめませんでした。彼女が一体誰だったのか、今でも私はよくわかりません。ですが覚えていることは幾つもあります。まず、虹色のカラフルな傘を持っていました。そして自らを「世界」と名乗っていました。今思うと彼女は真剣に私を救おうとしていたのだと思います。ですが私は「そうですね」と肯くだけで元の世界に帰ることはしませんでした。

 そんな日々の中で、私は徐々に新たな欲を覚え始めていました。自分の望んだものがある世界がある、ということを知ってしまった私はすぐに「新たな世界に行きたいの」と彼女に乞うことをしていました。そんなことは絶対ダメ、と彼女は頑なにかぶりを振っていました。なぜ? と私が訊いても理由は教えてくれませんでした。それがさらに腹立って、私はしつこく頼みました。人間の欲ほど恐ろしいものはありませんよ。それらを繰り返して、気づくと私はそのパラレルワールドに一年ほど滞在していました。それなのに私は帰るつもりはありませんでした。さらに自分の望む世界に行きたい、という欲だけが誇張されていきました。なのにあの人が拒否するばかりだったから、つい私は苛立ちを感じていました。そして気づくと、そのパラレルワールドの世界でも、自分が徐々に大事なものを失くしてしまっていました。もはやその世界は私にとっていらないものでした。今思うと、私はとてもあくどい思考を携えていたと思います。そんな私に虹色の傘を持った彼女はようやく、その謎を教えてくれました。人間が二度目のパラレルワールドにいくと、その者は自身の身から「大儀的な何か」を失くしてしまい、「迷子の案内人」にへとなる。そう教えてくれました。それを聞いて私は元の世界に戻ることを決意しました。その「迷子の案内人」というのが何かは詳しくわかりませんでしたが、元の世界に帰るしか選択肢はないようでした。そして今私があなたと歩いているこの道を通って、私は元いた世界にへと帰ろうとしました。

 ですが。彼女はそこでその言葉を挿んだ。ですが、というその言葉は若干強調されているような気がした。

 私の中から醜い欲望が消えることはありませんでした。その欲が私の思考を邪魔して、私は元いた世界に戻ることができずに、また違うパラレルワールドに行ってしまいました。気がつくと私は自身の中から今まで自分という存在を完成させていた重要な役割の部分を失くしてしまっていました。もう一度、私の身体に空洞ができた、と表現してもいいでしょう。知らぬ間に私は片手で傘を握っていました。その世界は雨が降っていました。

 ひとしきり聞き終えたあとで、僕は一度肯いた。彼女が話した以下のことに、僕は思想を巡らせた。「迷子の案内人」という意味。西畑さんの過去。西畑さんが失くした「大事なもの」は僕にはわからない。僕はそれを知ろうとはしない。私とあなたって似ていると思うんですよ。彼女は僕にそう言った。それにはどういう意味が示唆されていて、どういう意図がほのめかされているのか。僕はそれもわからない。様々な思想が浮かんだ。演繹的に生まれていくそれらの思考は僕を案の定混乱させた。彼女に目をやると、彼女が一体誰なのかわからなくなってしまうような気がするほどに。奇妙な緑色のトンネルを抜けたあとに待っていた足場は、ぬかるみが滲んだ獣道だった。そのぬかるんだ道から景色を見渡してみる。白銀な霧があたりを包んでいた。その鋭くたなびいた霧に姿を晦ましている木々。それは素朴な杉林だった。一歩足を進めるたびに耳障りな音が僕の頭上を弾んだ。次から次へと新たな音が生まれる。ぬちゃ、という汚れた音。それに伴う感触。僕は苦い表情をしていただろうと思う。そのぬかるみを踏むことでもたらされる音に不快感を覚えていたのだ。「大丈夫ですか?」と彼女は訊ねた。「歩きづらいですよね」まったくだ、と僕は自嘲気味な苦笑を浮かべながら返した。そこにはうんざりとしてしまった僕の嘆きの意義も隠されていた。彼女の白いテニスシューズの底が泥に覆われている。それは僕のスニーカーも同じだった。しばらく歩き続けていると、鮮明で健康的な色の葉に覆われた門のようなものが見えた。それは新鮮な緑みをたたえて、葉の表面はすこし水滴が張っていた。それを西畑さんは躊躇なくくぐる。僕も後を追った。その暫定的な区切りのような門らしきものを抜けたあとも、獣道は変貌することなくつらなっていた。足底を襲うぬかるみもそのままだ。西畑さんは自分の靴底の泥など気にもせず、ぺちゃぺちゃと音を鳴らしながら先へと進んでいった。慣れているな、と思った。素直に僕は彼女の背中をみて関心した。僕は犬の糞でも踏んだみたいな様でいるのに。彼女の落ち着きがたゆたうことはない。神妙な歩みで夜のぬかるみを抜けていく。靴底にこびりつく泥が重みとなって僕の足取りを不安定にする。

 あとどれくらいかかりますかね? 僕は訊ねる。もう間もなくですよ。西畑さんは言った。柔らかい泥を踏む音。疲弊から洩れている僕の喘ぎ。空気に息を吐く音。足取りを苛むその道を挟むように杉の木たちが不規則に並んでいる。そのか細い木の輪郭を曖昧にする白い霧。まるでたばこの吸殻から立ち昇る僅かな煙のようだ。冷えた夜の吐息のようにも思える。気温はいささか肌寒いくらいだった。僕はナイロンパーカーのチャックをすこし上げた。彼女を着飾るグレーのスーツを僕は見る。それをただ見つめる。彼女の足取りに反応して笑うようにスーツは様々なしわを作っては消える。新しい歪みを作って、また消える。一秒のうちにあらゆる表情をそのグレーのスーツは僕に披露していた。僕はそれを見つめている。ただ、それを見つめてた。

 杉林の内部は冷ややかに湿っていて、うっすらと結露を覆っている。夜の暗闇はたしかに頭上にほどこされているのに、ぬかるみの陸に近づくにつれて景色は銀色の曖昧な霧にへと変化していった。それらに演出された不気味な杉林は僕や西畑さんを歓迎しているようには思えなかった。にべない杉林の霧をくぐるように僕は歩みを進めた。

 やがて視界を遮る杉の木たちの遠く先から、青い光が差した気がした。白く霞んだ煙をすり抜けて夜を射ている。孤独に。なんだあれは。その青い光に近づいていくにつれて詳細が明白になっていく。どうやらあの青い明りは建物から放たれているもので、その建物の外壁を青く照らしていた。先ほどのトンネルみたいに。人工的な灯りだ。それを西畑さんも見る。そして吐息を洩らした。ようやくです。そう言った。先ほどからその言葉は何度も耳にしているから、あまり信用できない。辺りをさすらう夜の冷えた吸殻の煙はゆっくりと晴れていく。視界が少しずつ、確実な光を手にしていく。雨雲が分離して隙間から青空がのぞくみたいに。ようやく僕と西畑さんは杉林を抜け出すことができた。

 杉林から脱してから初めに足をつけた地は、コンクリートだった。その硬く冷たい地面に僕は靴底の泥をなすりつける。西畑さんも何度かなすりつけていた。さすがに足取りにも重みを覚えたんだろう。そのコンクリートの地面は円状を形成しており、まるで何かの広場のようだった。その広場を一周見渡す。どこにも出口はない。暗闇を懐に及ばせた狡猾な杉林に囲まれていた。杉林の中央にこの空間はあるのだ。広場の中心にはシンボルのように噴水があった。噴水からは夜の水が流れている。その噴水から湧いている水を僕は手で掬う。指の隙間からこぼれていく夜の水は冷静な動作で踵を返していった。僕は濡れた手の平をそのままにした。夜の虚空に濡れた僕の手の平はぶら下がっていた。

 あそこが終着点です。そう言って西畑さんは僕から西側の方向を指差した。西畑さんの人差し指は夜の余白を射ていた。その孤立した指が指す方向に沿って僕も視線をやる。先ほど視野に差し込んだ青い光がある。そしてその色に染まった建物がたたずんでいた。それはまるで西畑さんの人差し指のように孤立していた。

 その不気味な建物の背景を飾るのは暗闇を抱えた杉林だ。あそこにいくんですか? と僕は思わず彼女に訊ねた。そうですよ。西畑さんは神妙な顔で返答する。あまり近寄りたくないなと思った。僕は濡れたままの手の平でがしがしと頭を掻いた。そして掻いた髪をそのままにした。寝癖のようになっている。構わないさ。僕は鈍さを増していく足をせり上げて、歩みをはじめた。



 建物の中に入ると同時に視界が捉えるものは螺旋階段だった。そして次に捉えるものは無かった。その螺旋階段だけがこの空間をは埋めていたのだ。僕は空間の中央にたって、天井を見上げた。階段の螺旋に囲まれて天井まで連なる空洞はまるで空気の通り穴のようだ。上りますよ、という西畑さんの声がした。僕は返事をして西畑さんの後に続いた。円を描きながら上がる階段。西畑さんは軽快な歩みを保ったまま階段を上がっていた。この空間の壁に沿って。

 階段を上りながら僕はあちらの世界で僕を待つひかりのことを思った。ひかりと眺めたあの蒼い月を僕は脳裏に鮮明に呼び起こす。その景色を僕は明晰に描写することができた。蒼い月はひかりの頬に幻の火を灯し、僕の心情を蒼く彩る。彼女の栗色の髪は僕の肌をくすぐり、僕の蒼く光を佩びた右手はひかりの細い左手と重なった。ひかりを傍で感じながら僕らは約束をするのだった。僕は帰らなければいけない。僕を置き去りにした世界は希望を散りばめながら去った。その散りばめられた欠片を僕は広い集めて世界のあとを追わなければいけない。高木は僕を探していることだろうと思う。突如として失踪した僕を。僕はまず彼らに謝罪をしなければならないな。そして以前の三人のように僕らはやりなおすのだ。ひかりも高木も、そう望んでいると思う。僕は「あの事件」以来、強い喪失感がもたらす空白の中をさすらっていた。高木はそんな僕を心配して一緒にいてくれたが、彼も僕と同じだったと思う。高木も逃げたかったはずだ。僕みたいに。この虚ろな空白の間で僕らはいろいろなことに気づく。僕らはそれぞれに傷を負った。僕らは孤独となった。そして所々僕らは欠けていった。泡になっていく石鹸みたいに。その欠けた箇所を僕らは隠すように指で塞いだ。それでも隠しきれない空白が僕らを取り囲んだ。それに気づいた頃には僕は知らない世界にいたのだ。

 僕はとっくに乾いている手で階段の手すりを撫でた。優しく撫でた。僕と西畑さんが階段を上る足音だけが響いていた。それ以上の音を世界は失っていた。静黙な空気の煙だけが充ちている。おびただしいほどに無慈悲な煙だった。

 西畑さん――彼女のことを僕は考える。僕が求める西畑さんは大学生で、ここにはいない。僕の知る西畑さんは「迷子の案内人」で、僕の視界の前にいる。それはとても不思議なことだった。彼女は元の世界に帰ることができなかった。そして西畑さんという存在を確信させていた重要な「何か」を損なった。これからも彼女は孤独なままで迷子たちを案内し続けるのだろう。僕にしたみたいに。僕が世界に帰って再び日常を歩んだとしても、彼女はその時も迷子たちを案内するのだろう。自分自身が迷子のままで。中途半端で定まらないまま、静かな混沌と共に彷徨い続けるのだろう。

 到着しました。西畑さんは歩みを止めると同時にそう言った。僕も歩みを停止する。僕の前には新たな段差がなかった。僕は西畑さんの隣にへと肩を並べて立つ。視界の前には巨大な扉があった。「この扉を開けば別の世界に繋がっています」



 この扉が……ですか。僕は扉を見つめながら息を吞んだ。西畑さんは肯く。はい、と簡素に言った。

 僕が扉を開けると、「この世界」に僕がいたという事実は無くなる。この世界のひかりや高木は僕の存在を忘れ、そして本来この世界にいるはずの「僕」と今までどおりの日常を送る。そう考えるとすこし寂しくも思ってしまう。すべてがリセットされる。僕は「迷子の案内人」の西畑さんの存在も忘れる。夢から醒めたみたいに。彼女が僕にみせた静かな微笑みも、静寂の中でこぼした涙も。すべてそれらの記憶は僕の中から廃れる。記憶を僅かに思い出すことはあっても、それは不鮮明で漠然とした状態でしかない。僕は彼女を忘れる。女性を後悔させるのが上手ですね、と彼女は僕に言った。僕は彼女を、こんなにも簡単に忘れていいのだろうか? 彼女はこれからも迷子を元の世界に帰しては、その度に「置いていかれる」のだ。彼女を取り残す。彼女はさすらい続けることしかできないのだ。永遠の迷子。その言葉が僕の脳裏を過ぎって、やりきれない思いに僕は襲われるのだった。

「いらないことは考えないでください」と西畑さんは僕の心情を悟ったように言った。「あなたは元の世界に戻らなければいけないんです」さあ、扉を開けてください。

 僕は元の世界に帰らなければいけない。そこには一度は失ってしまったものがあって、希望がある。僕を待つ人たちがいる。――けれど。僕はこう言った。「あなたの記憶を忘れてしまうのは、嫌だ」彼女は静かに小さく笑った。ほんと、女性を後悔させるのが上手ですね。そう呟いて、瞼を閉じた。それからゆっくり彼女は肯いた。そして「大丈夫ですよ。あなたが忘れても、私は覚えていますから」、そう言った。そして微笑んだ。静寂の中で揺れる花のように。

 あなたが帰らなければならない世界だけを頭に浮かべてください。そこには余分な思想はいりません。私に慈悲の心を抱くのはやめてください。私は大丈夫ですから。いいですか? これからあなたを包むのは優しい混沌です。次元の中をあなたは泳ぐのです。脳裏にはあなたの求める世界だけを描いていてください。もう一度忠告しておきますよ? いらないことは考えないでください。神妙な表情で彼女はそう僕に忠告した。僕はゆっくり肯いた。

 やがて僕は扉を開く。僕を襲う蒼い光。まるで月光のようだ。あの日ひかりと見た月のようだ。混沌の光が僕の先でたなびく。優しく僕を包んで、誘っていった。やがて意識が薄れていく。僕の世界の色素が優しく抜き取られていった。僕が強く脳裏で思うのはひかりらが待つ世界と、彼女の静かな微笑みだった――。


 しばらくの混沌。       夜が手を振る。

      隙間。    夜の。  

                 僕の。

     

     ――――私の中から醜い欲は消えることはありませんでした。


   ――――今思うと彼女は真剣に私を救おうとしていたのだと思います……。 帰ってきて――――。↓


 あなたと同じですよね。  揺れて、          ――――ひかり。 

  堀澤さん。          揺れて、

   ねえ堀澤さん。          震えた。  蒼い灯りを配る月。

  

     脳裏に過ぎる彼女の話。   それは→  僕の未来を、        だった。

                               示唆するもの 


  ――――私とあなたって似ていると思うんですよ。人生の歩み方も、好きな異性のタイプも。――――。 混沌。

   

           

 夜を祝うように光彩が舞踏を繰り広げていて、その輝きで僕は意識の糸をたぐり寄せるのだった。やがて踊る光たちの姿を同定することができて、僕は目を醒ました。まだ朦朧とする思考がもつれて、曖昧に渉ってくる喧騒を僕はゆっくり咀嚼した。目を凝らすと、世界は色褪せていて。上から塗りたくったみたいに深い夜を迎えていた。夜が手招きして吹く風が僕の前髪を踊らせた。右手の中指に雨粒がしたたったような気がして、確かめると僕の肌は濡れていた。夜の底を冷ややかに降りしきる雨が僕のわだかまりを浄化することはなかった。淡く鉄のようなものが鼻にまとわり、それがアスファルトの濡れた匂いだということに気づいた。雨が上がった後の夜は空気を湿らしたままで佇んでいた。雨粒のほこりを掃うように風が吹き、僕の肌から体温を奪って去った。残るものは冷え切った僕の肌と、小説のスペースのような虚無感をともなう悲しさだった。

 僕はどこにいるのだろう。悲しみの夜の涙はアスファルトにへと吞まれていく。知らない場所に僕はいた。見覚えもない。僕はいま自身が身に着けている服に目を通す。ネイビーのナイロンパーカー。ダークグリーンのカーゴパンツ。そして紺色の傘。この傘はどこで拾ったのだろうか? 思い出すことはできなかった。引っかかる見当すらも、泡沫のように浮かぶことはなかった。

 僕は夜のなかで誰かの姿を探した。それが誰かなのかは思い出せないけれど。しかしその世界に僕が求めている人物の姿はいなかった。ぽつり、ぽつり、と。再び雨粒が空気を飾るのが見えて、また雨は僕の肌を濡らしていった。再度降りだした雨は冷たく夜を喰らう。僕は手に持っていた傘を開いた。けれどそれを頭上に持ち上げることはせず、その傘をそのままにした。そして持つ手をそっと離した。雨は徐々に強みを増していく。傘はまるで部屋の隅に脱ぎ捨てられたシャツのようだ。そんな傘に目をやるけれど、なにもしなかった。そのままにした。

 僕はその場に座り込んで、更けていく夜の中で雨が僕の記憶をよみがえらす時をじっと待った。 END 

  

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