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18 虹色の傘とレインコート(虚ろな独り言)  

 瞼を閉じると必然的な闇が少年を迎えた。その闇はまだ十三歳という年齢の時代を過ごす少年を眠りの森にへと誘っていった。少年はたどたどしい歩みで階段を上がる。

 少年はコンクリートでできた階段の最上階まで上る。そしてその場に立っていた。その場に立って、やがて訪れる「何か」を待った。少年のさらに前には足場は無い。細いワイヤーを上空で走らせて、それを挟むように薄暗い森が広がっていた。少年は階段の最上階から、今自分が歩いてきた道のりを見下ろしてみた。極端に傾いた道。階段を歩いてきたのだからそれは当然だが、その坂は延々と続いていて奇妙な感覚を覚えた。ワイヤーはどうやら遠くの暗闇から伸びているようだった。その暗闇の正体は洞窟だった。少年がじっと登場を待っている「何か」とは、どうやらあの洞窟から上ってくるようだった。斜めに昇っているワイヤー。斜めに傾いている道。暗闇を抱えた森。少年を境に途切れた階段。少年の前髪から水がしたたる。それが雨だと気づくのは簡単なことだった。少年はいつからかレインコートを羽織っていたのだ。ビニール素材の赤いレインコート。こんなものいつから着ていたんだろう、と少年は疑問を覚えた。疑問を覚えると同時に、今自分はリュックサックを担いでることにも気がつく。背中に妙な重さを感じたのだ。赤いレインコートを一度脱いで、少年は担いでいたリュックを肩から外した。茶色い布生地の使い勝手のよさそうなリュックサックだった。見覚えはない。中身を確認してみる。リュックの大きさと比較して、あまり物は入っていなかった。少年はとりあえずその中の荷物を全部取り出す。

 雨がガラス窓を叩く音がする。どうやら雨が降っている。少年の前髪が濡れる。少年の手が濡れる。少年の七分丈のパンツも雨を含んで、一部が暗く滲んでいる。赤いレインコートも雨をしたたらせていた。リュックの中身は、以下のとおりだった。黒い懐中電灯。マッチ棒が詰め込まれた箱。レインコートを片付けるために使用されると思われる袋。折りたたみナイフ。そして小さいラジオ。以上。それだけだった。あとはなにも無い。少年は懐中電灯を手にとって、一度スイッチを入れてみた。ライトは薄暗い森の中を一直線に駆けた。しかしあまりに森の中の夜は更けていて、この光だけでは役に立たなかった。少年は懐中電灯を片付ける。マッチを一本取り出す。箱にこすって火を点けてみる。火がマッチの頭に灯り、徐々にそのマッチ棒の姿を削っていった。少年は火を消す。マッチ箱を片付ける。折りたたみナイフを片付ける。袋を片付ける。少年は洞窟を抜けてやってくる「何か」の登場まで、ラジオを聴いていることにした。ラジオのアンテナを立てる。電源をつけた。荒い雑音が静寂の暗闇のなかで響いた。少年は驚いてボリュームを下げる。周波数を合わせようとするが、どこからも電波を拾うことはなかった。やがて少年は諦めてラジオを片付ける。リュックを改めて担ぐ。そして赤いレインコートを羽織った。

 階段の段差に腰をおろして遠くの洞窟を見据えていると、やがて孤独な光が見えた。少年は立ち上がる。洞窟から光がこぼれている。その光が拡大していくに従って、ワイヤーが冷えた空気を裂く音をさせて動く。洞窟の暗闇からケーブルカーらしき乗り物の姿が現れた。しゅっしゅっとという鋭く空気を裂く音響はその場にたなびく。ケーブルカーはワイヤーに引き摺られながら少年のほうへと昇ってくる。やがてケーブルカーは少年の前で停止する。扉が開く。少年は中に足を踏み入れた。

 車内はやはり静黙をたたずませていた。乗客など誰もいない。少年は肩をずり落ちそうになるいささか大きいリュックを安定させてから、適当な席に坐った。雨が垂れているガラス窓から先ほど自分が立っていた位置をみてみる。主役を失くしてしまったその階段は夜のなかに沁み込んでいった。誰か立っているんじゃないか、という心霊的な恐怖を少年は連想してしまう。すぐにケーブルカーの天井に視界を移した。孤独な灯りをぶらさげていた。ランプだった。ケーブルカーは動き出す。ランプが暫定的な物事のように激しく揺れる。少年の視界が頼りにしている唯一の光は不安定になる。少年の肩も大きく揺れた。

 ワイヤーに引っ張られながら上昇していくケーブルカーは実にたどたどしい動作だった。今にワイヤーが切れてしまうんじゃないか、と不安になってしまうほどだ。ガラスの板を雨が走る。それを追うように新たな雨粒の屍がながれる。見える景色は暗闇を包んだ奇妙な森だけだった。少年はそれを虚ろに見る。来たこともなければ、見たこともない景色だ。知らない場所だ。それなのに自然と恐怖はなかった。心霊的な恐怖を別にすればだけれど。それでも知らない場所にいる恐怖、というのは感じなかった。車内の静穏に身を浸して少年は瞼を閉じる。どこに向かっているのかもわからないのに、少年の心内には綽々とした余裕があった。なんとなく今自分は、夢を見ている。そんな気がしたからだった。

 やがて窓から見えていた森の景色が、完全な暗闇にへと変わる。蛍光灯のようなものがその暗闇には貼りついていた。虫が好みそうな蒼白い光を放っている。どうやら少年を連れたケーブルカーは洞窟の中に忍んだようだった。洞窟の壁は湿っている。結露に覆われていた。苔もところどころで発見した。そして差し込む光もなく、それを知らせる予兆もなく、ケーブルカーは洞窟を抜ける。また景色は夜の森。その森がやがてコンクリートの階段にへと変わる。そしてケーブルカーは停止した。扉が開いて、少年はそこを降りるのだった。

 階段は先ほど少年がいた場所と同じだ構成だった。けれどそこは先ほどとは違う場所だった。妙に階段の距離が短かったのだ。少年は階段を下りる。立派な鉄の扉があった。奇妙な空気はその扉を前にきりきりとしている。そして分厚く重い扉を少年は押した。扉が開く。そこに繋がっているのは――森の外だった。はたして本当にここが森の外なのかはわからない。だけれど一定の間隔をあけて並んだ提灯が遠くから見えた。神社などの場所を連想してしまう石の階段。そこに少年は立っていた。並ぶ提灯の奥には森の木たちが並んでいる。さらにその木の置くから覗ける景色は光が散らばっている外の夜景だった。

 なんだよここ。少年は思わず声を洩らした。思わず呟いてしまったのだ。その独り言は夜の中ではかなく消えていく。少年は今たっている段差から下を見下ろす。階段は延々と続いていた。どこまでも続いているような気がする。その中で人気がかすかにある。しかしその人間たちはどれも歪んで不自然な輪郭をしていた。少年の視界が歪んでいるのか、この夜が歪んでいるのかはわからない。やがて少年は、歪んでいるものが人間だけではないことに気がついた。並んでいる提灯の灯り。階段の足場。どこからかする川の流れる音。森の葉が夜をさすらう音。葉同士が摩りあう音。どれもこれもが少年の中で歪さを佩びていた。すべてが致命的に輪郭を失ってしまっているのだ。少年は注意深く段差を一段降りる。ここはどこか、少年は曖昧なままでいる。不思議な世界に迷い込んでしまった。これは夢なのか。夢の中の出来事だと信じたい。ようやく少年の中で恐怖心が芽生えるのだった。少年は不思議な世界がもたらす混沌に襲われてもだえた。人たちが歪んでいる。提灯の茜色の光が一つの道を描くように流れている。蛇のようにぐんにゃりと歪んでいる。少年は歩みを続けようとした。もう一段足をおろす。川の流れる音がそこはかとなくする。どこかで川が流れている。

 レインコートを濡らしていた雨がすでに乾いていることに少年は気づく。それだけでない。前髪も、手も、足も、靴も、ズボンも、どこにも水を含んでいないことに気がつく。すでに乾いている。濡れた髪が額に張りつく感触もない。少年の身体がすこし軽くなっていることに気がつく。少年はいつからか、リュックを担いでいなかった。見覚えのない赤色のレインコートを羽織っているだけだった。

 大丈夫よ。迷子君。

 女性の声がした。曖昧な夜の中で、その声は透き通っていた。その声はまるで世界のすべてを把握した覇者のような寛大なものだった。少年はその声がしたほうへと振りむいた。その瞬間に夜が世界のほこりを掃うように風を吹かせた。レインコートのフードが夜の風になびく。冷めたまま乾いた夜は、少年の前で手を振った。宙で豪快に踊りをみせる前髪が視界を所々さえぎった。髪が伸びたことに少年は気がつく。そして自分の視界の先で、鮮やかな虹の色彩が覗いた気がした。あらゆる色彩の集いが少年のまえで明瞭につらなっている。少年は自身の前髪を指でわけて、その虹の正体を探った。赤いレインコートがさすれて乾いた音がした。

 その様々な色を備えたそれは、傘の柄のようだった。その傘はこの世界で唯一の明晰さを携えていた。まるでその傘を主役に世界は地味な背景にへと化したようだ。少年は目を見張る。その傘を持つ女性の姿を自身の視界に描く。灰色のパーカーには模様もなにもない。黒いスリムパンツは身軽そうで。白いスニーカーは使い古されて所々に汚れを作っていた。その衣類は夜の背景に馴染み、彼女のもつ傘だけがそぐわなかった。あなたは――。少年は彼女に訊ねようとする。その途端。少年の唇は彼女の細く白い人差し指で封じられた。少年は驚いて唇を結ぶ。彼女は小さく微笑んだ。そして二度ほど首を横に振った。

 私が一体誰なのか。それをあなたが知ることはないわ。あなたが私の正体を知って、それでどうなるというの? なにもならないわ。知らなきゃいけないことなんてないの。あなたは私に「案内」されるだけでいいの。唯一言うと、私のことは、「世界」さんと呼びなさい。いい? 世界さんよ。それは比喩であって、比喩ではない。まあ詳しくは言わないけれど。わかった? それじゃ確認。私の名前は?

 世界さん。と少年は唾を飲み込んでからその名を言った。そして肯いた。世界さん? それでいいの。彼女は微笑んだ。さて、帰りましょう。ついてきて。少年は肯いた。そして彼女の背中を追った。

 階段を下りながら突然世界さんは口を開いた。あなたとよく似た年の女の子がいるのよ。もちろん、あなたとは関係ないわよ? 愚痴っぽくなるけれど、あの子はもうだめね。私と「おんなじ」になるわ。断定できる。百パーセント。

 それが誰だかも、そして世界さんがなにを話しているのかも少年にはわからなかった。ただただ少年はこの混沌と夜に覆われた景色を歩き続けていた。もう一度夜は手を振る。風が少年の頬をなぞる。少年はいま自分がどこに向かっているのか、わからないまま彼女の後を追っている。

 大丈夫よ。彼女はそんな少年の心情を察したのか、そう言った。必ずあなたは元いた居場所に帰れる。そして彼女は少年のほうへと振り向いて言った。

「あなたが目を覚ましたとき。この世界での経験は夢という概念に変貌している。あなたはすべて忘れる。残るのはその「夢」がもたらす不思議な余韻だけ」



目を覚ます。高木は、目を覚ます。


 

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