14 虚ろな独り言
ひかりと別れた後。高木は「迷子の案内人」の堀澤に電話をした。ひかりの部屋を出た後でも、高木の身には陰鬱な緊張を引き摺っていた。その好ましくない状況に高木は辟易とする。高木はファミリーレストランを待ち合わせ場所に決めた。たまたま近所にあったからである。堀澤の登場を待つ間。高木はドリンクバーを頼んだ。それからメロンソーダをグラスに注いだ。ワインのコルクくらいの大きさをした氷を四つほど投入する。鮮明な緑色が内部で炭酸泡を上昇させた。その世界の中で氷たちは静かに踊った。お互いが触れ、乾いた音がグラスに響いた。カラン、とした氷の音。グラスに滲みだす水滴。まるで焦りから額に流れる冷や汗みたいに。おまたせ、という声が頭上からした。見上げる。「迷子の案内人」の堀澤がいた。堀澤は以前と変わらない服装をしていた。ネイビー色のナイロンパーカー。ダークグリーンのカーゴパンツ。革生地のメッセンジャーバック。久しぶりだね。そうだな。それで、何のようだい? まあ坐れよ。そして高木は自分の先の席を指差した。まるでこれから説教をはじめる教師のような仕草だった。堀澤はああ、と言ってその席に腰をおろした。
「何のようだい?」と堀澤は改めて訊いた。高木はメロンソーダーを一口吞んだ。炭酸が喉をくすぐった。高木は先ほどの光景を思い出す。堀澤は絶対帰ってくる。そうひかりに断言したことを思い出す。あれは自分の邪気を凌ごうとした無意識な抵抗だったのかもしれない。自分のために、そう言ったのかもしれない。自分の不安心を誤魔化そうと。俺もどこかで堀澤が帰ってこない、と思ってしまっているのかもしれない。だからひかりは堀澤を迎えに行こうとした。迎えにいこうと試みた。けれどできなかった。高木は先ほどあったことをすべて堀澤に話した。堀澤は高木が話す内容に耳を澄まして、静かに相槌を打つのみだった。溝に小石を落とすような相槌だった。「迷子の案内人」の堀澤は高木が知っている堀澤とはどこか異なっているように思えた。それが具体的にはわからないけれど。しかし、「迷子の案内人」の堀澤には致命的な部分が欠けているような気がした。顔の作りも瓜二つだし、身長も奇妙なくらいに一致している。それなのにどこか重要な部分を備えていなかった。抽象的だけれど。高木はその損なわれてしまったものの正体を探ってみた。けれどわからなかった。彼に何が足りていないのか。高木が知るはずもなかった。
「あの」と高木は言った。「堀澤は本当に戻ってくるのか?」それは自分の心底からの不安だった。その猜疑心だけが高木の心内を占めていた。おびただしいほどの意思をそれは携えていた。ぽっかりと空いた空洞の中で。それは強く存在を主張していたのだ。
誰でもよかった。そしてどんなものでも良かった。高木は前向きな言葉を求めていたのだ。高木の猜疑心をいささか隠してくれる言葉を。前向きな意思の言葉を。高木はそれだけを求めていた。帰ってくるさ、とだけ堀澤が言えばそれで高木は十分だった。一人だけではやはり支えきれない。堀澤が帰ってくるとは限らない。帰ってこないかもしれない。そんな邪気が狡猾に差してしまうのだ。僅かに開いたドアの隙間から光が洩れるみたいに。しかし堀澤はただ黙っていた。黙り込んでいた。二人の間に沈黙をたたずませていた。その沈黙は酸素を奪うかのように息苦しいものだった。息を呑む。それはわからない、と彼は言った。やがてそう言った。そして後に続く言葉は無かった。
それはわからない? 高木はその発言を繰り返す。堀澤はうなずく。どういうことだよ、と高木は苛立ちを隠せずに言った。いささか乱暴な口調だった。なぜそんなことをいうんだよ、と高木は失望を憶える。「わからないものはわからないのさ」と堀澤は言った。そして自身の手の平を眺めた。思い出したかように。無意識な行為のように思えた。
やがて堀澤は眼差しを高木に戻す。そして言った。「平行世界というのはね、どこも知らないところで繋がっているんだ。わかるかい? たとえば、だ。「世界その一」があるとしよう。その「世界その一」での出来事は「世界その二」でも起きている。その「世界その二」で起きた事は「世界その三」でも起きているんだ。僕の言いたいことがわかるかい? だから「この世界」での出来事は――堀澤がひかりと仲違いし、別の世界に逃げ込んだという事態は――ここじゃない世界でも起きているんだよ」
高木は肯く。それからメロンソーダを吞む。しかし喉の中を駆けるものは溶け水だけだった。氷の溶け水。グラスを確認する。すでにメロンソーダを吞み干していたのだ。ストローの先端は噛まれており潰れていた。高木の焦りをそのストローやグラスは物語っていた。だからなんだよ。高木ははむかうように言った。自身の声はすでに震えていた。弱々しいものだった。呼吸をしようとしても空気が歯の隙間から洩れてしまうみたいに。
堀澤は淡々とした口調で言った。つまり、この世界で起きている事態は、別の世界でも起きている。その世界ではこの問題は解決しているかもしれない。それは帰ってきたのかもしれないし、帰ってきていないかもしれない。だから僕は「帰ってくるさ」とはいえない。わからないんだ。僕は迷子を案内する役目であって、未来を予知するものではないんだ。そう言って堀澤は再び黙り込んだ。その沈黙が高木のわだかまりをより深めた。わだかまりは強度を増す。やがて一つの「しこり」となっていく。そんな気がした。
「そうですか……」高木はそうとだけ返す。不安が積もっていった。夜中に降る雪みたいに。高木の心境は夜を迎えている。夜がその雪たちをぶら下げて遊ばせる。雪は一粒ずつが綽々とした余裕を備えている。それらが地面を白く染め上げていった。傷口から垂れる血液が地面に広がっていくように。円を描いて拡大してく。
僕はそろそろ帰るよ。そう言って堀澤は立ち上がる。会計の紙を当然のように手に取る。頼んだのは高木のドリンクバーだけだ。堀澤はなにも頼んでいない。いいよ気遣わなくて。そう言って高木は堀澤の手から会計の紙を取り返した。話を聞いてもらって悪かったな。そう礼を言って、高木はレジに行こうとした。堀澤を抜いたあたりで、堀澤が口を開いた。僕からも一つ訊いていいかい? 高木の背中を見ながら堀澤が訊ねた。なんだよ。高木は堀澤の方へと振り向く。堀澤はまさか、というような表情を滲ませいた。
「君はもしかして……」
「は?」
「いや、なんでもないよ。やっぱり」そこで堀澤は話すのを中断した。余白がその場には残った。
翌日。高木は食堂でオムライスを頼んだ。堀澤が食べていたものだ。西畑さんが一週間に一度これを頼むんだ。だから僕もそうする。共通点は偶然「見つける」ものじゃない。自ら「作る」ものなんだ。そう堀澤は言っていた。シンプルなケチャップライスに薄い卵をかぶせただけのものだった。卵の表面にはケチャップが蛇行した道を描いている。ステンレス製のスプーン。オムライスはアメフトのボールを割ったような形態をしていた。左側の端の部分を掬う。口に運んだ。味は堀澤の言うとおりだった。特別美味しいわけではない。高木は食堂でひかりの姿を探した。ひかりは食堂にはいなかった。今日も大学に来ていないのだろうか。
ガラスから見える空は瑞々しい晴天を広げていた。白みを含んだ透明に近い青色。雲は淡く柔らかい。風につらなり、鳥を手招きしている。人間の心理を隠喩するもの。高木は空をひとしきり見つめた。しかしいつまでも心内のわだかまりは溶けなかった。強く空洞の底に沈んでいた。俺が堀澤を迎えにいく、という可能性について思考を巡らせてみる。はたして俺にできるだろうか? 正直なところ自信はない。ならば何をすればいい? 堀澤が帰ってくるとは限らない。どうすればいい? 高木は自身に問う。空の背景にさすらう淡い雲。ようやくひかりと和解できた気がしたのに。やりきれないな。当然だけれど。
オムライスの輪郭はすでに半分を失っていた。いびつなものにへとなっている。すこし滑稽なようにも思えた。再びスプーンがライスを掬う。女性の声がしたのはその時だった。「あの」
高木はオムライスを掬う動作をやめ、声がしたほうへと振り向く。女性がいた。デニムジャケットを着ている。髪は黒く、長かった。顔立ちは瑞々しさを佩びている。すべてのパーツが整って完成されていて、そして完結していた。肌が白い。まるで――。まるで晴天の地に積もった雪みたいに。
まさか。「西畑、さん?」
はい、と彼女は肯いた。




