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13 パラレルワールドの静寂 

 どうしたの? とひかりは椅子に坐ると同時に僕に訊ねた。話したいことがあるらしいけれど。ちょっとね。僕は微笑む。店員がひかりに注文を伺う。コーヒー、とひかりは言った。淡白な声調で。僕はすでに注文してあった紅茶を呑む。ひかりは茶色い革生地のバックを隣の席に置く。上品で洒落たバックだった。そのバックを一瞥する。それからひかりに視線を戻した。ひかりはテーブルの上で手の平を重ね、僕を見つめていた。そして柔らかな微笑みを見せた。「なんか、休日に会うって珍しいわね」ひかりが言う。不満のない優しい微笑みは消えないでいる。そうだね、と僕は言う。それからひかりの重ねた手の平に目をやった。白く細い指。汚れを知らない純粋なその手は色褪せない。美しい輪郭をしていた。木製のテーブルで重ねたひかりの手。露骨に空気に晒しても許されるものなのか? この空間の空気に、あの手を晒すほどの価値があるだろうか? と悩んでしまうようなほどの美しい手。その手の主が僕のガールフレンドとなっている。しかしそのガールフレンドが求めている僕は、僕ではない。僕はあくまで、この世界から見れば知らない世界の住人にすぎないのだ。それで構わない。僕はこの世界にいるべきではないのだ。

「今日は話があって呼んだんだ。ごめんね」と僕は言った。「なにも用事は無かった?」

 あったら来れないじゃない、とひかりは言った。そして笑みを洩らした。構わないわよ。私も暇だったもの。やがて店員がコーヒーを運んでくる。コーヒーカップの内元から立ち昇る湯気。冬の空気を飾る吐息のように白い。ことん、とそれを置く。慎重に。お待たせしました。ごゆっくりどうぞ。どうも、とひかりは軽く顎を引く。今日はミルクの気分なの。ひかりはそう呟きながら、容器にミルクを注ぐ。「それで?」と言った。「話ってなにかしら?」

「いや、たいしたことはないのだけれど……」僕にとってもひかりにとっても、たいしたことある話だと思う。僕は内心そう呟いた。聞こえるはずがないな。「あまり真剣にならないで聞いてほしい」まるで今朝みた夢の内容を聞かされるみたいに。そう僕はつけ足した。

 了解、とひかりは肯く。真剣にならないで聞くわ。「まるで人の夢の内容を聞くみたいに」そう言って彼女は微笑んだ。「たまに堀澤って、とても不思議な表現をするわよね」僕は彼女の笑みを見る。自分まで頬が緩んでしまうような気がした。それだけの影響を与える力を彼女の笑みは携えていた。「ひかり」と僕は彼女の名を呼ぶ。なに? とひかりは不思議そうに首を傾ける。「君に出会えて本当によかった」そう僕は言った。どうしたの急に、と彼女は仄かにはにかんだ。頬に桃色の熱が宿る。とても素敵なものだった。まるで何かのお別れのシーンみたいね。と彼女は言って、静かに笑った。そのとおり、と僕は脳裏で呟く。君は本当に察しがいい女性だな、と。

 僕は紅茶を一口分。口に含む。そして呑む。じんわりと甘い熱が喉に広がる。喉の渇きが廃れる。いいかい? と僕は彼女に確認をとった。だからなにがよ、とひかりは笑みをこぼした。「実はさ」ええ、と彼女が肯く。「本当は僕、この世界の人間じゃないんだ」

 どういうこと? ひかりは笑う。そして訊ねた。

「君が知っている僕。まあ君の知っている「堀澤」という人物は、僕ではないんだ。ここ二週間ほど僕は君や高木と一緒に日々を楽しんだ。それは僕もとても嬉しかった。夢のような日々さ。それでもこれが「偽り」の事実という事の思いが拭えなかったんだ。君が僕のガールフレンドだとわかったときは正直驚いた。それと同時に「なるほどな」と思った。僕はこの世界にいる「僕」に関心したよ。さすがだな、て。けれど、本来ならこの世界みたいな現状に僕も選べれたはずなんだ。あの時、僕はその選択肢でNOのサインをしてしまったんだ。だから今の僕はこの様なのさ。あのときの僕はバカだった。今もバカだけれど。すこしは変わっただろうと思う。そう信じたい。僕思うのだけれど、あの選択肢はまだ選べ直せるはずだと思うんだ。わがままかもしれないけれどね。なんか、この世界にきて僕はいろいろ決断できた気がする。今までの屈託が全部失せたみたいだ。僕は元いた世界に帰らなきゃいけないんだよね。もちろん、この世界にもうすこしいたいな、と思ってしまうのも事実さ。……だけれど、帰るのさ。僕は――」そこで僕は区切る。紅茶を飲む。レモンティー。湯気はもう出ていなかった。疲れて呂律が回らなくなったみたいに。湯気は廃れ、紅茶は冷める。ごめん、なに話しているかさっぱりだよね。でも聞いてほしい。これが僕の最後のわがままさ。僕は自嘲気味に笑いながら言う。彼女はううん、と首を振る。構わないわよ。続けて。僕は礼をいう。ありがとう。それから僕は続けた。

「僕は帰らないといけないんだ。帰るとそこには高木やひかりがいる。この世界ではない高木やひかりがね。そこには僕の一目惚れした女性もいるんだ。その女性とはまだ話したこともないけれど、きっとうまくいくはずさ。そう信じている。だから帰る。贅沢すぎるな、この世界は。僕が自分で崩してしまった世界を、誰が治すんだよ。誰が修正するんだよ。僕しかいないんだ。僕は再生する。更正、は言いすぎかもしれないな。とりあえず、僕は元の世界にへと戻る。元いた世界に帰ると、多分ここの事に関する記憶は徐々に薄れていくと思う。まるで目が醒めた瞬間に、夢の内容を忘れるみたいに。それは同様で、君や高木もこの世界に二週間ほどいた――いわゆる今話している――僕がいたことを忘れていくだろう。それでも構わないさ。……構わないさ」

 僕が話している内容を、彼女は微塵と理解していないようだった。当然だろうと思う。けれど彼女は微笑んでいた。微笑みを崩さずにいた。僕の話に静かに耳を澄ませていた。ひとしきり僕が喋り終えると、彼女はコーヒーを一口吞んだ。とりあえず呑んだ、ようだった。なんだかよくわからないけれど。彼女は踵を返してマグカップをテーブルに戻す。「あなたは、自分が思っている以上に強い人間よ。そういうところに私は惚れたのよ。私の知っている堀澤はそういう人間よ。あなたはその堀澤と違うらしいけれど。それでも「堀澤」という人物の存在は共通なのでしょ? なら私は言えるわ。あなたが私の知らない堀澤でも。言えるわ。「あなたならできる」。あなたが何を崩してしまい、修正しないといけないのかはわからない。けれど、あなたにはできるわ。そう信じてる」

 ひとしきり彼女は言った。話し終えると、コーヒーを吞んだ。僕は瞼を閉じて微笑んだ。僕の心境がたゆたうことはもう無かった。この紅茶みたいに。熱を忘れた紅茶みたいに。揺らめくことはもう無かった。波紋を描かない扁平な川面みたいに。「ありがとう」と僕は再び彼女に礼を述べた。「改めて言っていいかい?」 

「いいわよ」

「君に出会えて本当によかった。この世界の「ひかり」に会えて。僕は本当に感謝している」

 彼女はぎこちなく肯く。そしてはにかむ。なんか恥ずかしいらやっぱやめて、と彼女は言った。僕は笑った。言ってしまったあとに言われても。そう返して、もう一度僕は笑った。



 その日の晩。僕はタンスから適当に服を選んでそれを着た。この世界の堀澤と僕の身長が一緒か、確認のため一枚Tシャツを取り出す。灰色の無地のTシャツは僕のサイズと正確に一致した。その上から紺色のナイロンパーカーを羽織る。ダークグリーンのカーゴパンツを履く。ナイロンパーカーのチャックを半分ほど締める。それから息を吐いた。世界の凝った演出は夜を描いていた。屈託なく続けていた。整然とした闇はゆとりをまとって空に並ぶ。夜の隙間を縫うように暗い雲が連なる。つらなる雲は複雑な輪郭を作っている。無造作に切った紙を、画用紙に貼りつけるみたいに。空には無数の星が散りばめられていた。その星の光は夜を彩る。夜とたわむれる。月の光。煙を描くような星の大群。夜が染みこんだアスファルトに足をつけて歩く僕。それらはうまく距離を保っている。僕は夜に沈んだ世界を見渡す。いま僕が見ているこの景色は、僕が知る世界の風景ではない。僕が帰らなければいけない世界の夜を思い出す。夜の隙間を様々な光彩が充たしていた。それはビルや、自動車の羅列、信号機などの人工的な光の集が正体だ。まるで夜を祝うように。夜を祝う街、と僕は思い出す。

 それでは参りましょう、という西畑さんの呼び声と共に僕は歩みをはじめる。西畑さんの後を追う。西畑さんの背中を見る。西畑さんの足跡を辿る。僕は歩みをはじめる。歩みをはじめる。僕は、歩みをはじめる。歩みを、はじめた。僕は。


 


 

なかなか最終回までつっぱしれないですね。いろいろ時間がないんです。

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