11 パラレルワールドの静寂
僕は戸惑いを隠せずにいる。当然だろう。なにかしなければならない。僕は焦りながら思案する。とりあえずコーヒーを淹れた。彼女の前にへとそれを寄こす。彼女はすぐにマグカップの持ち手の輪に指を回す。容器の縁に唇が触れる。そして湯気が立ち昇る熱いコーヒーを躊躇せずに吞んだ。僕もコーヒーを吞もうと思った。けれどできなかった。コーヒーに代行して唾を喉に流した。流し込んだ。それでも口元には唾液が溜まっていた。動揺をかどわかす何かを僕は求める。僕の部屋を見渡す。僕のSOSを察してくれるようなものは何も無かった。僕はもう一度唾を呑む。ひかりは黙り込んでいた。延々と。まるで真夜中の路地裏のような静けさだった。その沈黙は鋭く刃を光らせている。蒼白く。まるで月の光のように。僕とひかりの間に充ちる沈黙。その静けさは僕の皮膚を剥がしていくようで痛い。ぺりぺりと。きりきりと。残虐な快楽を求める拷問者のように。そのきりきりとした静寂を埋めるのは時計の針が刻む音響のみだった。その音はさらに僕と彼女との沈黙を誇張させた。
ねえ。という彼女の声。僕はようやく彼女の声を耳にする。帰ってきて、という先ほどの台詞が脳裏に揺らめく。な、なんだい? と僕は訊ねる。彼女は僕の声を久々に聞いただろうと思う。雲たちの姿を潜める夜。その夜に僕の狼狽をも隠してしまいたかった。相変わらず僕の部屋は月の光の存在だけを許可している。月光はひかりの頬を照らす。ひかりの肩を幻想的に染める。蒼白く。僕と彼女の間に月は寛容な趣きを漂わせて浮かんでいた。蒼い灯りを夜に配布しながら。ねえ……堀澤。ひかりが言う。な、なんだい? と僕は図らずも慌ててしまう。冷や汗が額に滲むのがわかった。「なぜ私がここに来たかわかる?」
わからない、と僕は言った。一体どうやってここに来たんだい? そして、なんでここに来たんだい? 僕は訊ねた。しかし曖昧だが予想はついていた。ひかりは俯く。僕はそれから目を逸らす。彼女の俯きには哀れみがあった。その哀れみは僕の首を絞めてくるようだった。だから、目を逸らす。
「どうやってここに来たのかは、言えないわ。でもここに来た理由は話せる」と彼女は言った。その声はきまずさの中で、眠りから醒めたように強く意思を主張している。「あなたも本当はわかっているんでしょ?」
まあ。今はこの様だけど、僕たちは結構長い時間を過ごしてきたからね。予想はつく。と僕は言った。彼女は肯いた。僕も肯いた。それを何かの合図のように。それから僕は言った。「僕を迎えにきたんだよね?」
そう。彼女は肯く。「帰りましょう、堀澤。私はやっぱり、あなたを忘れらないんだと思う。「あの事件」が起きてから、何ヶ月か経過した。それは今日に至るまで、ものすごく長い間隔を広げていたわ。間隔が広がっていくに伴って、私の奥底には幾つもの後悔が積もっていったわ」どうしても、私はあなたを忘れることはできなかったの。そう彼女は言った。それは僕もさ、と僕は言いたかった。けれど声に出すことを躊躇してしまう僕がいた。
僕は肯く。やりきれない思いがこみ上げた。腹の奥底で感情が震える。そんな気がした。
「大学はたまたま同じだったけれど、顔を合わすことは一度もなかったわよね。実は大学に入学したときから、既に私は葛藤していたの。毎日堀澤や高木との思い出が脳裏に浮かんでいた。復縁できるなら……という未練がそこにはあった。でも、それと同時に「あの事件」での出来事が何度も過ぎった。その二つの大儀的な感情が、四六時中脳内で絡まっていた。もつれてほどけない糸みたいに。だからあなた達の顔を見れなかった」
僕は黙り込むことしかできなかった。そんな自分に腹が立った。ひかりの言葉は一つ一つが粒子を放つ。その粒子らが僕の肌にへと忍んでいく。深い余韻が演繹的に拡散していった。平たい皿にすこしずつ水を垂らしていくみたいに。なにか僕も喋らなければいけない。
しばらく沈黙がある。月にあしらわれた空気が漂う。漂いながら、ひかりの声が残した余韻を侵食していく。その残虐な景色が僕には見える気がした。比喩に過ぎないことは僕も十分承知しているけれど。再び彼女が声を発した。そこには初めの時のような歯痒さは無い。「確かに。空いてしまった間隔は広い。その距離を測ることはできない。様々な色彩で彩られていた日々は、まるで境目でも見つけたみたいに空白を作っていった。何もない虚空よ」
その空白の中で僕は様々な苦悩を覚えていた、と僕は言った。ようやく洩れた声だった。絞りだした。その表現は違う。案外、円滑に口元からこぼすことができた。「その空虚な空白の期間は、僕の頭を冷やすには十分すぎた」後悔。それは間隔を空けて襲来してくる。改めてそう思った。後悔とはそういうことだ。
それから再び沈黙が構築された。しかしその沈黙は優しい。柔らかく僕らを包み込んでくれるかのような静音だった。僕の中でうずく葛藤。それらに静穏が帰ってきた気がした。砂漠に久々に雨が降るみたいに。その静穏はまだ欠片にすぎない。それでも僕は構わなかった。僕らは「何か」の余白の中でたたずんでいる。彷徨うことはない。もう迷わない。僕は――僕たちは――皆「迷子」だったのだ。みな深い森の中でコンパスや地図を失くしてしまっていたのだ。見覚えの無い道を歩み続けていたのだ。
ねえ、堀澤。なんだい? 私たち、またやり直せるかしら? 私と堀澤、それと高木ね。再び静かな間が訪れる。しかしその間は短く浅い。「できるさ」と僕は言った。強い意志で。迷いのない声で。曖昧な森から抜け出すように。そうね、とひかりは言って微笑んだ。その微笑みを僕は久しく見ていなかった。豊富な色彩を得た美しいほほえみを。その表情は枯渇しかけていた僕の心底に強くはずんだ。
「僕は帰るよ」と僕は言った。月を見上げる。「君のいる世界に。この世界は僕にはいささか贅沢すぎる」
「約束よ」とひかりは言った。月を見上げる。「私のいる世界も、贅沢なものにすればいいじゃない」
月はまるで氷のようだった。奥行きを感じた。その月の内部にある芯のようなものさえも、見える気がした。つまり満月だった。黒い雲を左右に寄せる。その翳りから露となった月は限りなく丸い。僕とひかりは蒼白い光に包まれる。月の光は僕たちの視界の先で鮮やかに踊っている。その光は一つの「音」に変貌する。その「音」が僕らを包んだ。その幻影的な月光の音楽に僕たちは煽られる。僕は彼女の肩を抱き寄せる。久しく忌憚していた二人の肩がようやく触れ合う。彼女の栗色の髪。その髪がふと僕の手の甲に触れる。彼女は頭を僕の肩に預ける。僕も彼女の頭に自分の頭を寄せる。寄せ合う。蒼く優しい火が揺らめく。それから二人でひとしきり満月を観察した。
もしもし。西畑さんですか? 僕は若干緊張交じりに電話を耳にあてる。西畑さんの声はすぐにした。僕の耳をくすぐる。はい。西畑です。どうなさいました?
「あの、僕は帰らないといけないらしいです。どうやら元いた世界に」
西畑さんの声調がいささか昂ぶりを佩びた気がした。「そうですか。一体どうしたんですか?」
「この世界は僕には贅沢すぎる気がします。この世界には、この世界の僕がいる。それと同様で、あの世界にも僕がいなきゃダメなんです。この世界の僕を求める「ガールフレンド」がいるのと同じで、あの世界にも僕を求める人がいるんです。帰らなければならない。それに――」
それに? と西畑さんは繰り返す。
「もしかすると、他にも僕を求める女性がいるかもしれませんからね」と僕は言った。言い終えた後、いささか気恥ずかしさが残った。
ふふ、と西畑さんの微笑む声がした。静かな微笑み。静寂の世界の住人のように。「そうですね」
はい、と僕は言ってから通話を切った。そして笑みを洩らした。さて、帰るとするか。帰るとそこには高木がいる。ひかりがいる。やり直せるはずさ。西畑さんがいる。仲良くなれるはずさ。僕は昨日の夜のことを思い出す。私は先に帰るわ。そう言って彼女は立ち上がる。「絶対に帰ってきてね」ああ、と僕は肯く。「必ず帰るさ。だから、待っていてほしい」もちろんよ。彼女はそう言ってから部屋を出て行った――。僕は今いる「この世界」の空気を吸い込む。肺をその空気で満たす。よし。それから僕は歩みを始めた。
パラレルワールドでした。次回は虚ろな独り言です




