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1 パラレルワールドの静寂 

 つまり、一目惚れだった。彼女の後ろで束ねてある黒髪を僕は目に投影する。晴天の光を浴びる地に積もった雪みたいに白いその肌を視線でなぞる。そして、日差しの光とたわむれる曲線が描くその体格の輪郭に、視界を固定される。僕は図らず歩みを中断させ、その女性に見蕩れる。虚飾だった僕の世界に、色彩がよみがえる。つまり、一目惚れだった。



 大学に入学した初日。僕は西畑さんに一目惚れをした。あまり期待していなかった大学生活は、その瞬間から僕にとって価値のあるものとなった。女性を顔だけで評価するのはいささか抵抗は確かにあった。けれどそんな道徳など、すぐに消失した。それだけ、西畑さんは美しかったのだ。一目惚れという表現が正確なほどに。僕はどこであろうと、西畑さんを脳裏に描くことができた。朝のかおりを含んだ寄せ波に濡れるガラス瓶のように奥行きの深い瞳。常に後ろで束ねている清純な黒髪。細くてある程度色を脱色された桜の花びらのように白い手。演繹的に描写したそれらの部分を、コラージュのように集らせる。想像のなかの彼女はとても煌びやかさをまとっている。それは誇張した表現では無い気がした。

 一目惚れした瞬間から僕は彼女を目で追っていた。奥底の深闇にへと辿っていく無垢な少年の眠気みたいに。僕は彼女と同じ講義を選ぶ。講義中、僕はノートを写す作業を怠って西畑さんの背中を見ている。白いブラウス、黒髪の長いポニーテールが肩の動作に従って揺れる。とても静かな揺れだった。弱風に撫でられる花のように静かだった。西畑さんは、美しい静寂の中の街にたたずむ住人のようだった。僕は空白のままのノートには視線すらもやらず、その花に見蕩れた。

 西畑さんは決まって食堂で昼飯をとる。なので僕も食堂へ向かう。西畑さんは毎日殆ど日替わりの定食セットを選択するのだけれど、たまに(主に水曜日に)オムライスを頼む。理由はわからない。こだわりなのだろうか。そしてたまに僕もオムライスを注文する。けれど特別美味しいわけでもなかった。

 ステンレス製のスプーンで、その一部を刳り抜く。口へと運ぶときも、僕は西畑さんを見つめている。相手は気づいているのだろうか? 気づいていないことを僕は願う。ストーキングしている自覚は僕には無いのだ。けれど、傍から見れば立派なストーカーだろう。その事実から僕は目をそらすことができない。

 西畑さんもオムライスを口に運んでいる。その仕草はとても瑞々しく、僕はつい口を開けてしまっている。前髪が揺れる。右側にわけられた前髪が、彼女の右目を隠す。邪魔らしく、それを右耳に寄せる。その動作に僕は思わず息を呑む。頬に熱が佩びるのがわかった。

 仲良くなれたらな、と僕は妄想をふくらませる。彼女は一人だ。僕の何列か前のテーブルで、一人でオムライスを咀嚼している。今はチャンスなんじゃないか? 僕は自身に問う。いけばいいじゃないか。けれど、僕は西畑さんに声をかけることはできなかった。僕は――女性にトラウマを抱いているのだ。

 西畑さんと平行して、僕の脳裏にはひかりの存在も常にあった。ひかりは高校からの友人で、僕の数少ない異性の知り合いだった。高校のときはよくひかりといたものだ。僕はそれに幸福を覚えていたし、彼女もよく笑っていた記憶がある。いささか不鮮明だけれど。しかし、「あの事件」は発生してしまった。僕の浅はかさが原因だった。僕は自分を責める。「あの事件」以来、ひかりは僕と目を合わすことすらも拒んだ。けれど、同じ大学に受かってしまったのだ。そして僕は西畑さんに一目惚れした。自身のおこがましさに苦笑してしまう。自身で思うほど、反省の意識が感じられなかった。

 今日も僕は西畑さんを目で追うだけだ。そしてこれからもそれ以上の進展は無いのだろうと思う。僕は永遠に、片思いなのだ。それでいい。叶うことの無い恋は、永遠に冷めることは無いのだ。それでいい。

 「よ」と声がする。僕はその方へ視線を移す。そこには高木の姿があった。「お前やるならもっとバレないストーキングしろよ」

「うるさいな」と僕は言う。それからオムライスを口に運んだ。それを咀嚼しながら言葉を加える。「西畑さんも気づいてないみたいだし、いいだろ」

「でも傍から見ればばればれだっつーの」と高木は呆れた口調で言う。それからやれやれ、と首を横にふった。

 高木は僕と向かい合うようにして、椅子に腰を下ろした。「おい、西畑さんが見えなくなるだろう」と僕は悪態をつく。わりいわりい、と顎を上下に動かしながら高木がその隣に移る。僕と高木は斜めの角度で向き合う。再び彼女の背中が僕の視野に入る。彼女の後ろ姿は、ひとつの芸術作品のように美しく佇んでいる。煌びやかな光線が、輪郭を描いている。「そこまで目を輝かせて見なくてもいいだろ。さすがに引くぞ」と高木がお盆を自分の前に滑らせながら言う。

「自分でもたまにそう思うよ」

「確信犯かよー。あーこわー」と気力のない声で高木が言う。「あーこわー」

「うるさいな。ひとが落胆している時に限って、お前は現れるな」と僕は箸を高木に向ける。「そしてさらに煽ってくる」箸を高木のほうへと差す。

「まるで特撮ヒーローみたいだな。俺」高木は箸を持つ。そしてお盆にのった丼に突きさす。親子丼だった。「あーこわー」

「そんな特撮ヒーローがいるのなら、三話ほどで打ち切りだな」と僕は嫌味ったらしく言う。「あとそれ。しつこい」箸を高木のほうへ差す。そして虚空を突く。

 「それでも三話続くんだな」高木はそう言って笑みを浮かばせる。そして親子丼を口に運んだ。熱いらしく、なぜか口をほくほくさせながら天井のほうを見上げる。僕は黙ってオムライスを食べた。ふと西畑さんの方へ視線をやると、彼女は食べ終わった皿を置いたお盆を持って既に立ち去ろうとしていた。ああ、またできなかった、と僕は西畑さんから目を逸らす。

「……やっぱ。ひかりとの事もあって話しかけることに躊躇してしまうんだ」

「まあ、そうだな。あれは酷かったからな」と高木が遠慮無しに鋭く僕に言う。

「七味唐辛子をスプレー状にして、傷口に塗られたような気分だ。今の発言のせいで」

「ぐさっときたか?」と高木が笑みを浮かべながら、訊ねる。

 僕は頷く。

「まるで特撮ヒーローだな。俺」



 午後の講義が終了し、僕は一人で重い歩みを進めていた。空はとうに薄暗くなっており、静謐な闇を抱えてる。まだいささか夕日の余韻を残していた。訪れる夜をほのめかし、僕の頭上を憔悴な色合いに深めている。道路を駆ける自動車はライトを点ける。薄暗い翳りを覚えたアスファルトの上を、その光は走る。それらが規則正しく間隔をつくる。夜を示唆する街に一直線にライトが並ぶ。まるで夜を祝うイルミネーションのようだった。信号機の三色の光が妙に罪深く思えた。世界は様々な色に、侵食されていく。夜を祝う街。僕はそこに地をつけて歩いている。暗澹な夜の最後尾を摑むように。その事実を僕は幾度も確認する。

 彩っている光が歪みを佩びはじめたのは、それからすぐだった。いや、最初から世界は霞んでいたのかもしれない。そのぼやけは強みを増していく。それは僕の平衡感覚を廃らせた。光の粒子が舞う。眩暈だった。朦朧とする意識の中で、闇が追い詰めてくる。巨大な深淵が、僕の前にあった。地を歩いている、という感覚を僕はすでに消滅していた。そして光が遮断された――。


 ――目が覚めると同時に抱いたのは妙な違和感だった。妙な違和感が、僕の身の奥底で淀んでいた。その正体を僕はぼやけた思考の状態のままで模索する。僕は息をしている。息をしている。息をしている。呼吸をしていた。空気を肺に運搬している。空気は僕の肺の中を満たしている。

 妙な違和感の犯人は、この空気だと思った。さらに意識的に、その空気を肺に送り込む。妙な不自然さが、僕のぼやけた脳を覚醒へと案内させた。気がつくと街は深い夜に染まっていた。すでに完成している。僕は何をしていた? 僕はあたりを見渡す。夜の街。夜を祝う街。雪の余韻など無い。季節は春の期間を駆けている。違和感が肺を満たす。僕は何をしていた? 僕は思案する。思考をめぐらす。疑問はまるで海辺にこびりつく藻のように、執着している。僕は何をしていた?

 ここはどこなんだ? 僕は街を見渡す。何度も見渡す。おかしい。何かがおかしい。違和感を孕んだ空気は、場に漂い続けていた。 

 




新作です。もともと「虚ろな独り言とパラレルワールドの静寂」というタイトルだったのですが、パラレルワールドという発音がいささか気にいらなかったので、このようなタイトルにさせていただきました。これからよろしくおねがいします。次回は「虚ろな独り言」です

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