【霧の中】
【霧の中】
人影が見えたというのは、リビングではなくて二階にある千恵の部屋だそうだ。
しかも、真っ黒い影がレースのカーテン越しにふらふらと揺れていたらしい。
確かに人影にみえるものの、とにかく真っ黒だったと言う。
僕は玄関から外に出て、明かりの点いた部屋を見上げる。
ベランダは確かにあるが、そこまで登れと言われても、なかなか登れそうにはないし、あの女性はスーツによくあるタイトなスカートを履いていたと、思う。
あまり自信がないのは、あの女性そのものが影に包まれたように暗かったから。
千恵の両親が親戚の家から帰るのを待った。
どうしても独りでいるのが怖いと言うから、それまでリビングで一緒にテレビを観て時間を費やした。
僕が夕食がまだだと言うと、千恵はレトルトのパスタを出してくれた。
意外に美味かったけど。
昼間預けた硬貨を、千恵は返してよこした。
何度も洗浄液につけてみたが、汚れは落ちても、全体的に黒くなった部分に関してはあまり変化がなかったという。
僕はその硬貨をポケットにしまい、彼女の家を後にした。
雨は降っていなかったが、気温が上がっているせいか路地は霧に煙っていた。
佇む街路灯の明かりはどれもぼんやりと宙に浮かんで、なんとも不思議な感じがする。
まるで地球以外のどこか遠くの惑星にでも舞い降りた気分だ。
下宿所の通りに出ると、カチャカチャと音が響いてくる。
煙った帳の狭間から下宿所の建物が見え、通り沿いに自販機の明かりがぼんやりと見えた。
そこに人が立ってる。
僕は自転車のスピードを落として、それらに目を凝らした。
自販機の前に立っている人影は、千恵の家から出てきたあの女性だった。
カチャカチャという音が再び聞こえ、僕は自転車を止めた。
近づいてはいけない気がしたから。
自販機の前の人影は、返却口に手を出し入れしているようだった。
カチャカチャと響く音は、プラツチック同士がぶつかるそれだ。
長い髪の毛が俯いた顔を覆ってどんな人なのかよく見えないが、黒っぽく見えたスーツはグレーのように見える。
それでも全体的にぼんやりとしているのは、霧のせいだろうか?
そこで僕は恐ろしい事に気づいた。
昼間部屋を出た時、廊下の給湯室にいたのは、アレだ。
どうして……。
急に膝が震えた。
膝は震えると本当にカクカク音を立てるのだ。
僕は何故か直感的に彼女に気づかれてはいけないような気がして、目の前の細路地を曲がった。
直ぐに自転車を止めて息を潜める。
通りからカチャカチャというプラスチックが触れ合う音が響き続ける。
時計を見ると、まだ10時だ。
普段ならもう少し人通りがあってもいいはずなのに、この時は他に人影もなく、ただ湿った大気に奇妙な音だけが響いていた。
彼女は、いやアレはいったい何をしているのだろうか?
遠くから車の走ってくる音が聞こえる。
走行ノイズとともに、ヘッドライトが通りを駆け抜けるのが見えた。
どうなるのかと思い、車の音に耳を澄ます。
あの車が自販機の前のアレに出くわしたら、何か恐ろしいことが起きるのではないかと思った。
自分の呼吸がうるさくて、ゆっくりと静かに息をつく。
しかし、車の音はあまりにも自然に遠ざかって行った。
車が走り去る音が消えると、あのカチャカチャという音も消えていた。
僕はそっと路地から通りを覗き見る。
気が付けば霧はだいぶ晴れていて、自販機がくっきりと見えた。
そこには、もうあの人影は無かった。
つづく
お読み頂き有難う御座います。
もう少しお付き合い頂ければ幸いです。