【暗がり】
【暗がり】
次の日、中村が夏風邪を拗らせたらしいとケイタイに電話してきた。
別にわざわざ連絡してくる事もないよなと思いながら、僕は少し気落ちした。
昨夜の事を誰かに言いたかったのだ。
一緒に笑い飛ばして欲しかった。
外は朝から雨が降っていたが、僕は外へ出ることにした。
なんだか部屋が落ち着かない。
部屋を出て階段までの途中、給湯室に人影が見えた。
アレ?と思う。
銀行の制服のような服装の女性が背を向けて立っていた。
この下宿所にも女性はいるのだろうが、この階にいただろうか?
建物全部で20室以上あるし、一年経っても逢った事のない人も当然いるだろうと、この時はあまり深く考えなかった。
もう雨には慣れていた。
その天候にがっかりする事も無く、僕は傘をさして自転車に乗り、大通りの書店へ向かう。
「渡瀬」
書店で文庫本の棚を眺めていると、後ろから声がした。
「おぉ」
僕は振り返って彼女に軽く手を上げる。
佐々木千恵だった。
「なに、読書?」
千恵は僕の手にある太宰治を見つめて笑う。
最近は漫画家が太宰の文庫本のカバーイラストを描いているから、ちょっと手に取っただけだ。
「いや、読まねぇよ」
太宰の本を面陳列された棚に戻す。
佐々木千恵は高校に入って1,2年の時クラスが一緒だったが、今年のクラス替えで別々になりそれ以来ほとんど話していない。
時に机が隣同士だったこともあり、意外に仲は良かったが、やはりクラスが別になると廊下ですれ違っても立ち止まって話す事もなかった。
他の同級生の目がないせいか、僕らはしばらく立ち話して、書店に隣接されたドトールコーヒーに入った。
彼女は雨ばっかりの夏休みにうんざりしているようで、ふらふらと毎日この本屋へきているのだと言う。
僕は雑談が盛り上がるにつれ、昨晩の出来事を話した。
「えっ……なんか気味悪いね」
千恵は曇った笑顔で言うと
「そう言えば、あそこって昔は産婦人科だったんでしょ?」
「そうだけど」
「水子とかじゃないの?」
千恵は一瞬真顔で言う。
「まさか」
僕はわざとらしく笑い飛ばす「しゃれになんねぇよ」
千恵は意外とその手の話が好きというか、興味があると言うか、その後も他の友達から聞いたという気味の悪い話をいくつか喋っていた。
「ねぇ、猿の手の呪いって知ってる?」
「いや、知らないけど」
「あのね、これは海外の話なんだけど……」
千恵の話は長かった。
「そう言えばさ」
僕は小銭入れから、昨夜の自販機から出てきた500円玉硬貨と100円と10円硬貨を取り出して見せた。
あの真っ黒な硬貨たちだ。
「わっ、真っ黒。なにソレ?」
自販機のつり銭で出てきた事を話す。
「へぇ、錆かな」
千恵は500円硬貨を指で摘まんで、裏と表をマジマジと眺め
「ねぇ、あたし貴金属のクリーナーがあるから、洗浄してあげるよ」
「クリーナー?」
「うん。液体のクリーナー。貴金属の汚れや錆を綺麗にするの」
「そんなのあるんだ」
「なんか、酸っぽいかな。触ると指がヌルヌルするから」
彼女はそう言って、左手の親指と人差し指を擦り合わせた。
結局あの黒い硬貨たちは、千恵がいったん持ち帰って洗浄してくれる事になった。
雨は止んでいたが、真っ黒な雲は相変わらず頭上を覆い尽くして、どこか息苦しさを感じた。
夕暮れは早かった。
重苦しい蒼穹は夕陽をも遮り、夏とは思えない時間に暗くなる。
早めに部屋の明かりをつけると、千恵と別れてからレンタル店で借りたコメディ映画を観た。
二時間は何も考えなくて済む。
映画も観終わり、夕飯の弁当を買おうと近くの弁当屋まで行く途中、千恵から電話がきた。
「渡瀬……渡瀬。外に何かいるみたい」
昼間の聡明な彼女とは別人のように、声が震えている。
「何かって?」
「判んないよ。なんか影がうろうろしてる」
彼女声は確かに怯えている。
「家の人呼べよ」
「いないよ。出かけてる」
彼女は半泣きになって「今から来て」
僕は躊躇した。
昨日の今日だ。
正直、これ以上奇妙な出来事に関わりたくなかった。
「ああ。じゃ、行くよ」
それでも、やっぱり行く事にした。行くしかないだろう。
自転車を飛ばして10分くらいだった。
国道を横切って住宅街の踏切を越えて右、左。
去年、二回ほど来たことがある。
低めの白い塀と、庭木で囲まれたごく普通の一軒家だった。
二つ手前の家の前で、僕は自転車を一度止めた。
目を凝らして千恵の家を見る。
住宅街は街路灯が多くて、それほど暗がりを感じないが、今は状況が違う。
明かりの届かない小さな暗闇さえも、何かが潜んでいそうだ。
大きく息をついて覚悟を決めると、自転車のペダルを踏み込む。
その時、彼女の家から誰かが出てくるのが見えた。
僕は再び自転車のペダルを止める。
出て来たのは黒っぽい事務服姿のような女性に見えたが、なぜか暗くてよく見えない。
すぐ横にある街路灯の明かりが届いて、アスファルトは照らされているのに、何故かその女性だけが暗がりを纏ったように薄暗く、色が褪せているようだった。
少しだけ見入る。
路地を歩く後ろ姿は、立ち並ぶ街路灯に何度も照らされているはずなのに、女性だけがその光を受け付けないように暗がりを纏ったまま遠ざかって行った。
自転車を降りて少しずつ千恵の家に近づきながら奇妙な女性の後ろ姿を目で追う。
それが向こう側の角を曲がったように見えたので、千恵の家の門扉を開けた。
「ん?」
何か腑に落ちなくて一瞬立ち止まったが、そのまま玄関の呼び鈴を鳴らす。
リビングに明かりが点いていて、さらに二階の一部屋に明かりがある。
千恵がなかなか出てこないので、僕は彼女のケイタイに電話する。
走ってきた勢いそのままのように、勢いよくドアが開いて、僕は後ろにのけ反った。
「遅いよっ」
うるんだ瞳が、恐怖から安堵に変わる。
「いま、女の人が出て行ったよ」
「うそ……やだ」
彼女はそういいながら、僕の手を引っ張って玄関の中へ入れる。
僕が外にいることが不安なのかもしれない。
ドアがガチャリと音を立てた時、僕はふと気づいた。
さきほど門扉を開け閉めした時に気になったことを。
あの女性……この家から出て行ったように見えたあの女性は、おそらく門扉を開閉していない。
僕が扉に手をかけた時にはしっかりと閉まっていたはずなのに、あの女性はそれを閉める動作をしていなかった。
路地からは門柱の陰で門扉は見えなかったが、おそらく開閉は行われていない。
「どんな人だった?」
千恵が僕の腕を触れて言う。
「えっ? あ、よく見えなかったけど、スーツっぽい感じ」
見えたままを言った。
「気味悪いよ」千恵が両腕を自分で擦る。
「女の覗きか?」
僕は精一杯の冗談で切り返す。
彼女は真剣な眼差しで僕を見ると
「だって、あたしの部屋二階だよ」
一瞬で僕の腕に鳥肌が立つのを感じた。
つづく