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【雨の夏】

久しぶりの投稿です。

暇つぶし程度の気分で観覧頂ければ幸いです。

【雨の夏】


 その年の梅雨は長かった。

 いや、初めは空梅雨との報道が相次ぐほどまったく雨が降らなかったから、梅雨入り宣言のミスだっただけで、実際の梅雨の期間は例年通りだったのかもしれない。

 ただ、7月の末になっても雨ばかり続くと真夏の実感はなく、湿度に塗れて生ぬるい大気を帯びるストレスだけが募るように思えた。

「なんだよ、夏いつ来んの?」

 4畳半の僕の部屋でコーラをラッパ飲みしながら、中村がぼやいた。

 僕の住む下宿所は、昔は産婦人科だったという話だ。

 病室に畳を敷いて改装したようで、確かに給湯室やトイレの風貌はどこかの病院で見たそれらと似ている。

 それよりなにより、廊下の白い壁につけられた緑のライン。

 壁伝いに歩き易いようにつけられたであろうその緑のラインに、ここへ来た誰もが何処かで見た風景だと感じるだろう。

 僕は高校に入ると同時に親戚の家に下宿を始めたが、どうも居心地が悪くていたたまれず、この下宿の噂を聞いて入居予約し、去年の夏にやっと入ることができた。

 この下宿所は夕食付でサラリーマンの単身赴任者もいるから、空き室が出る時期は春先に限らずバラつきがあるというわけだ。

「いやぁ、しかし全く夏って感じしねぇよ」

 中村が指で黒縁メガネを整えながら、本棚からワンピースの単行本を取り出してパラパラ見始める。


 高校は二学期制の為、期末考査が終わってからもしばし学校へ行き、僕らは先週末にようやく夏休みに入った。

 それでも、7月中ごろから急に雨の日が続き、これから夏真っ盛りという雰囲気は丸つぶれになっていた。

 中村はよく学校の帰りも僕の下宿に寄っては、押し入れの上の段に設けた特製本棚からマンガ本を取り出しては読み漁ってゆく。

 夏休みに入ってからも、わざわざ毎日自転車で通ってくる。


 その日僕たちは近所の弁当屋で夕飯を購入した。夏休み時期になると、学生には夕食は用意されないからだ。

 もちろん、お盆の時期には他の入居者すべての夕食は無くなる。

「さてっと」

 中村は何時もそう言う。

 そのセリフが『帰る』という合図だ。

 夜の11時を過ぎて、中村は帰って行った。

 僕は外で彼を見送ったついでに、路地の向かい側にある自販機でポカリを買う。

 朝から降り続いていた細々とした雨は止んで、咽るような湿度の濃い大気に包まれるように自販機の明かりがぼんやりと浮かんでいる。

 最初小銭を入れると、すぐに返却口から戻ってきた。

 静まり返った夜気に、カタン、カタンと音が響く。

 最近の高性能な自販機は、すり減った10円玉や100円玉を受け付けない。すり減った事で、硬貨の重さがオリジナルと違っている為だ。

 よくある事だから、僕は気にもせず硬貨の縁のすり減りを確認して、別の小銭を投入した。

 カタン、カタン、カタン……即座に返却口で音が鳴る。

「なんだよ……」思わず独り言がこぼれた。

 仕方がないからジーンズの後ろポケットから長座畏怖を取り出して、千円札を一枚つかみ、札投入口へ滑り込ませる。

 ローラーが一定速度でお札を吸い込むと、ドリンクの購入ボタンのランプが一斉に点灯した。

 僕は予定通りポカリを購入する。

 ドコドコと若干慌ただしい音を立てて、取り出し口へ落ちてくる。

 少し遅れて、返却口からお釣りが落下する音がした。

 何の気なしに返却口に指を突っ込んで小銭を取り出す。

「ん?」

 取り出した小銭が真っ黒だ。

 何だろうと思って自販機の明かりに照らして目を凝らすと、どうやら黒々としているが本物の硬貨のようだ。

 汚れなのか錆なのかはよく判らなかったが、どの硬貨も微かに金種がよみとれた。

 そこには自販機が二台並んでいるだけで、誰に文句を言えるわけでもないから、僕はそのまま小銭をポケットにいれて部屋に戻ったのだった。



 その夜は妙に寝苦しかった。

 最近は毎日例年の平均気温を割って、夜は寒いくらいだったのに、いよいよ夏なのかと思い、寝間着のスウェットを脱ぐ。

 部屋にエアコンは無く小さな扇風機だけだったが、4階の角部屋は北向きと西向きに窓があって風通りもよく、よほどの事がなければそれで充分だった。

 こんな蒸し暑い日、去年も2、3度はあったかな。などと考えながら、僕は寝苦しい夜気に虚ろいだ。

 駐車場の奥は小さな山があり、木が生い茂っているせいか夏場は虫の声が慌ただしい。

 なかなか寝付けない為か、その夜はやたらと虫の声が耳についた。

 北向きの窓から……。

網戸の向こうで突然物音が聞こえた。

 寝付けないせいで、やや夢虚ろなのかと思った。

 いや、現実だ……窓の外で何か聞こえる。

 コンクリートを軽く擦るような……なんとも妙な音だった。

 ここにはベランダは無い。

 壁は垂直な5階建てのシンプルなビジネスホテルのような建物で、窓の周辺に足場もない。

 僕がどうして「足場」などと考えたかというと、微かに生き物のような、何とも言えない『何か』の奇妙な気配がするからだった。

 窓の少し下から、確かに音がする。

 僕は音そのものよりも、微かな正体不明の気配によって急激に目が冴えていた。

 どう考えたって垂直な壁に何かの気配はおかしい。

 そう考えると、どうしても起き上がって即座に窓の外をのぞき見る勇気がわかない。

 僕の部屋とは真逆の南側の山から、相変わらず虫の声がする。

 キリギリスか、それとも……。

 意識を山へ向けようと試みる。

 このまま気付かないふりでやり過ごせるのだろうか?

 まさか、ミッション・イン・ポッシブルさながら、垂直の壁をよじ登ってくる泥棒もいまい。

 そんなリスクを冒す財宝や機密情報など、ここには皆無だ。

 僕は素早く、二、三度激しく瞬く。

 瞬きもせずに窓を見入っていたから、少々目がヒリヒリした。

 身体が汗で湿っている。

 蒸し暑さのせいなのか、それとも緊張からくる汗なのかはもはや自分でも判別できない。

 僕はゆっくりと起き上がり、手探りでスウェットを履く。

 無意識に逃げられる準備をしてから、部屋の明かりも点けずに窓に近づいたのだ。

 四畳半の狭い空間が、やけに広く感じる。

 目の前の窓が、やけに遠い。

 網戸に手をかける。

 しかし、開ける勇気がない。

 開けないまま、網戸に顔を寄せて窓の下の外壁を覗き込む。

 一瞬呼吸が止まった。

 何かいる。

 黒い影が一瞬動くのが見えて、僕は一気に部屋のドアを開けて廊下に出た。

 4畳半の部屋を出るのに数秒あれば十分だった。

 給湯室の横まで走ってから、廊下の壁にもたれて息をつく。

 鼓動が激しく胸を内側から叩いた。

 なんだか訳が解らない。

 息をつくと、思い直して部屋のある廊下の突き当たりまで歩いた。

 壁にひかれたグリーンの線が、常夜灯に照らされてぼんやりと道しるべになっている。

 部屋へ戻ると開けっ放しの入り口から中を覗く。

何事も無い。

 中へ入って明かりを点けると、何時もと変わらない四畳半。

 鼓動はまだ激しく胸を叩き、その振動で視界が揺れている気がした。

 僕はふと思い立ったように廊下を駆け出した。

 階段を駆け下って、玄関を抜けるとはだしのままエントランスへ出て、自分の部屋のある壁を見上げる。

 1階玄関のエントランスは、僕の部屋のすぐ下なのだ。

 エントランスの屋根に誰か上っているのだろうか?

 それでも、4階にある僕の部屋の窓には届くはずがない。

 息を呑んで見上げる。

 垂直の白い壁がただ闇に向かって佇んでいる。

 誰もいないし、何もない。

 あるわけはない……のだろう。

 辺りを見回しても、人らしき気配どころか犬猫の部類もいない。

 思わず深く息をつく。

 山の方から蒸した風に乗って、虫の声だけが聞こえていた。




 つづく

お読み頂き有難う御座います。

続きもお付き合いいただければ幸いですが、くれぐれも暇つぶし気分でどうぞ。

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