Phase2.恥辱の人体実験(初恋風味)
意識を取り戻した俺が最初に視たのは、見知らぬ天井だった。慌てて飛び起きようにも、両手両足はガッチリと拘束されている。
そんな状態なので、身悶えしてベッドの上を転げ回ることもできない。
……さっきの俺は最悪だった。「俺に近づくな、怪我するぜ(キリッ)」とか「媚びる女は嫌いだ(キリッ)」とか……そんなことを言えるほどイケメンでもない癖に。
きめぇ。俺マジきめぇ。
「クソッ、だから嫌だったんだ、チョコを食べるなんて……」
十年前、チョコを絶対に食べないと決めた後も、しばしばコレに近いことは起こった。ただのクッキーだと思ってかぶりついたら、中にチョコチップが入っていたとか。そんなとき、俺は必ずあのキャラになった。
どうして神様は、俺にこんな力を授けたんだろう?
そして俺は、これからどうなるんだろう……?
首だけを動かし、室内をぐるりと見渡す。ホテルのスイートルームみたいにゆったりとした清潔な部屋だ。ただここはどう考えてもホテルじゃない。窓には物々しい鉄格子が嵌められているし、部屋のあちこちに怪しい機材が置いてある。
その機材の一つから数本の線が延びて、いつの間にかパンツ一丁にさせられた俺の身体のあちこちにピトッと貼りついている。
……つまり俺は実験台なのだ。例のマッドサイエンティストの。
そう考えたタイミングで、頑丈な鉄扉が開かれた。顔を見せたのは例の少女だ。怪しげなガスマスクと、床に引きずるほど丈の長い白衣。腕には大きなバスケットを抱えている。
「あ、目が覚めたのね新之助。体調はどう?」
あたかも女医のごとく尋ねながら枕元へ近寄った少女は、俺の顔を覗き込むや「これもう要らないかな」と、おもむろにガスマスクを外した。
……現れた素顔に、俺は思わず息を呑んだ。
まるで童話に出てくるお姫様のように、清楚で可憐な少女だった。
ふんわり柔らかな栗毛のショートカット。意思の強そうな太目の眉に、くりっとした理知的な瞳。小さくも形よい鼻と唇。透き通るような白い肌。ふっくらした頬はバラ色に染まっている。
「何よ。あたしの顔に何かついてる?」
「い、いや、別に……」
「ふーん。やっぱり……か」
「はぁ?」
「何でもないわ。さあ、実験を開始するわよ!」
ドサッ。
サイドテーブルの上に置かれた特大バスケットの中には、山盛りのチョコレートが詰まっていた。続けて例のメイドさんが、ガラガラとカートを押してやってきた。そこにはさらにカゴ三個分の山盛りチョコが。
それらを指差しながら、少女は得意げに胸を張ってみせた。
「108で売ってた商品を一通り買ってきたの。どれでも好きなのを好きなだけ食べてみて」
「そんなもん食わせて、俺をどうするつもりだ!」
「大丈夫、あのキモい病気は発動しないようにしてあるから。データ測定の準備もできてるしね。はい、あーん」
キモイゆわれた……。
ショックのあまり半開きになった俺の口に、容赦なくチョコが押し込まれる。
――美味い。
外側のビターチョコと内側のクリーミーなチョコムースとのバランスが絶妙。甘みもさほど強すぎず、むしろカカオの苦みが心地良く舌の上に広がる。大人向けの高級感がある味だ。
「……美味い。めちゃめちゃ美味い」
「そうでしょ、美味しいでしょ? これあたしの一押しなんだ。ラ・メゾン・デュ・ショコラのトリュフ」
俺を覗き込んでいた少女がキャッとはしゃいだ。無垢な笑顔にどこか懐かしさを覚えながら、俺は十年ぶりのチョコの後味を堪能する。
……そうだ、俺はチョコが大好きだったんだ。
開き直ってしまえば、これほど幸せなことはない。あの変化を気にすることもなく、大好物のチョコを思う存分食べられるのだ。例えパンツ一丁の情けない姿をストーカーに晒しているとしても。
「同じのもう一個くれ」
と要求すると、メイドさんことメイさんが「わたしもそれ食べたいです……」と可愛らしくおねだり。
「困ったわね。これ一箱二粒入りなのよ」
「あ、食べていいですよ。俺は他の貰いますんで」
そう言うと、すかさず少女が別のチョコを口に放り込んでくれた。これまた美味い。
メイさんは譲られたトリュフを手に、満面の笑みを浮かべて。
「優しいんですね、新之助さまって。さすがはわたしのご主人様」
「――ブホッ!」
チョコレート吹いた。
「あらあら、お顔が汚れちゃいましたね。拭いてさしあげましょう」
可愛らしくウインクをしたメイドさんが、豊満な胸の谷間を見せつけつつ、口元をタオルで優しく拭ってくれる。
当然俺は死ぬほどドキドキし、全身からチョコレートの香りがぶわっと立ち上る。
約一分ほどこの世の天国を堪能した後、少女がサラサラとメモを取りながら言った。
「ハイ、測定完了。興奮した新之助の心拍数、体温、血圧、脳波、アレのサイズ……っと」
「ちょっと待て! 最後のだけは測るのやめて!」
ショックのあまり半開きになった口に、新たなチョコが投入される。
チョコが美味い。メイドさんがエロい。興奮したところを美少女が測定……そのパターンが何度も何度も繰り返される。なんという生き地獄。
ひたすら羞恥心に耐え、精魂尽き果てた頃、ようやく苦行は終わった。
「ハイ、お疲れさま。頭の異能無効化装置だけは外さないでね」
と念を押して、少女は手足の拘束を外し、制服を返してくれた。速やかにそれを着込み、モルモットから人間へとチェンジ。ちゃんと椅子に腰掛け、メイさんが淹れてくれた香り高い紅茶で一息つく。
そうして己の尊厳を取り戻した後、俺はあらためてドSなマッドサイエンティストに向き合った。
「……で、説明してくれないか。どうして俺にこんなことをしたのか」
「見て見て、メイ。なかなか興味深いデータが出たわよ。新之助のチョコフェロモンが高まる度合いは、一番が好みのチョコを食べたとき、次がメイの胸、次がお尻、唇、太もも、うなじ……ときて、最後が好みじゃないチョコ」
「わたしはチョコに負けてしまいましたか。ちょっと悔しいです」
……無視された俺も悔しいです。
食べ終えたチョコレートの包み紙で鶴を折りながら、俺が一人拗ねまくっていると。
「んんん? 一つだけやたら異常値のチョコがあるわね。高級トリュフもぶっちぎる興奮度の……」
ようやく注目してくれた二人に、俺はさらりと返した。
「ああ……きっとあの中に混ざってた駄菓子のチョコだろ」
「えっ? ――本当だ。あんな十円チョコで? アンタどんだけ安い舌してんのよ」
「余計なお世話だ! 補正だよ、思い出補正ッ」
そう自己弁護しながらも、俺は懐かしく思い出す。百円玉を握りしめて、近所の駄菓子屋へチョコを買いに走ったあの頃を。
十年前、俺はまだチョコを食べてもこんな異能は発動しなかった。
でもあの日……。
「どうしたの、新之助?」
「いや、思い出してたんだ。俺が最高に美味いと思ったチョコのこと」
「それなんて商品?」
「普通の駄菓子だけど、あれは特別な一粒だったんだよ。好きな女の子の、食べかけのチョコだから――」
十年前のバレンタインデー。初めて『愛の日』を迎えた世間は、大いに盛り上がっていた。
まだガキだった俺は、両親が構ってくれないことに拗ねて一人で外へ遊びに出かけた。当時ハマっていた特撮モノのヒーローを真似て、悪者を探しに知らない場所へ。
そして不思議な館に辿りついた。いかにも怪しげな、蔦の絡まるお城みたいな館だ。
好奇心にかられ、石垣を乗り越えてこっそり中に忍びこんだ俺は、一人の女の子と鉢合わせした。というか、彼女は突然空から降ってきたのだ。二階の窓から身を乗り出し、ひらひらした純白のドレス姿のまま「えいッ」とジャンプして。
偶然その着地点に立っていた俺は、まんまと下敷きになった。小柄な子だったから何とか受け止められたものの、めちゃめちゃ痛かった。
文句を言おうと立ち上がった俺に、その子はキラキラした瞳で問いかけた。
「――もしかしてあなた、あたしを助けに来てくれたヒーロー?」
その瞬間、ビビビと来た。
きっとこの子は、悪い奴らに囚われてるんだ……!
「お、おう! 俺はヒーローだ!」
「じゃあ、あたしはお姫様よ。あたしを守ってここから逃げて」
それから始まった逃避行。館から出てきた黒服の大人たちが追いかけてくる中、お互いに名前も知らないまま「ヒーロー」「お姫様」と呼びあい、街の中をぐるぐる逃げ回った。そして俺が『秘密基地』と呼んでいた裏山の小さな穴ぐらに身を潜めたまま夜を迎える。
淡い月明かりの中、俺たちはしっかり手を握り合い、襲い来る不安と闘い続けていた。そのうち彼女が「お腹空いた」と言い出したので、俺はポケットに忍ばせていた大好物のチョコをあげた。
「……何よ、これ」
「チョコだけど」
「こんなの見たことない。あたしがいつも食べてるチョコとはちがうわ」
「そりゃ、このチョコはとっておきのヤツだからな。うちの近くの駄菓子屋にしか置いていないんだ」
少女は恐る恐るといった様子で、俺が差し出した駄菓子のチョコを齧った。そしてみるみるうちに笑顔になって。
「……うわぁ、美味しい!」
「へへッ、そうだろ? 全部食べていいぞ」
得意げに言ってみたものの、俺の腹からも「きゅるるる」という情けない音が立ってしまった。少女は手にした食べかけのチョコと俺の顔を見比べた後。
「ごちそうさま。もう要らないわ」
フン、と鼻を鳴らして、少女はチョコをつっ返してきた。
「そんな安物のチョコは、お姫様の口には合わないのよ。あなたには今度、あたしがいつも食べてる美味しいチョコの味を思い知らせてあげるわ」
返されたそのチョコを、俺はドキドキしながら受け取った。
高飛車な台詞も、プイッと横を向いてしまうしぐさも、何もかもが可愛くて……こんな女の子のヒーローになれた自分が誇らしくて。
でも、幸せな時間は長くは続かなかった。
「いたぞ!」「あそこだ!」という追っ手の声がした。俺は「奥へ行ってろ」と彼女を背後へ押しやった。
世界中を敵に回してもいい、絶対に彼女のことだけは守ってみせる……そう決意しつつ、俺はチョコを口の中に放り込み――
「そ、それでッ?」
俺の微笑ましい初恋ネタに、身を乗り出して食いついてくる少女。俺はポリポリと後ろ頭をかいた。
「そこで話はおしまい」
「おしまい?」
「ああ。ちょうどそのとき“事件”が起きたんだ。たぶんこの力が暴走するような……俺はショックを受けて、前後の記憶がまるっきり飛んじまった。それから俺は二度とチョコを食べないと決めたんだ」
記憶のアルバムの中に、初恋の女の子の姿は一切ない。どんな顔で、どんな声で、どんな風に笑っていたのか……何もかもが消えてしまった。
ただキラキラした思い出の欠片だけが、今も色褪せることなく残っている。
「もしかしたら俺は、未だにその子のことが忘れられないのかもな……」
事件の後、俺はその子の家を探し回った。でもどうしても見つけることができなかった。
できるなら、一目会いたい。そしてあの日のことを謝りたい。
なんてことをポツポツと呟くと。
ドサッ。
何か重たい荷物が落ちる音がした。身を乗り出して聴いていたはずの少女が、床に尻もちをついている。どうやら椅子から転げ落ちたらしい。
「お嬢様ッ?」
動揺したメイさんが、対面の席から飛んでくる。それを手で制しながら少女はもごもごと呟いた。
「お、お嬢様って言うな。それよりメイ、新之助を家まで送ってあげて。頭の装置も外して構わないわ。もうそろそろ体内のチョコ成分も抜けた頃だし」
「――待てよ、まだ今回のこと何も説明されてないんだけど」
無事に解放されるのは嬉しいけれど、どこか釈然としない。
食い下がる俺に対し、床にペタンと座り込んだままの少女が言った。
「……全ては明日話すわ。もう一つだけ、やらなきゃいけないことがあるの」