#8 一触即発の間柄(敦彦)
――今日は始業式。
僕と泰誠は学校に着くと、いつも通りの下駄箱で靴を履きかえ、昨年使っていたのと同じ教室に入った。というのも、本日の行事は始業式だけであり、クラス替えが発表されるのは明日となっている。今日までは一学年時のクラス分けのまま過ごすことになっているのだった。
奈緒の学校とは違って僕らの学校の入学式は二日前に終わっていて、数分後に執り行われる始業式でピカピカの新入生と初めて顔を合わせることになる。幾分か楽しみだった。
「あれ……?」
沙夜がいないことに気が付いたのは、登校し終えて指定された席に着いた時だった。
そしてその事態は、「筆箱忘れた」程度の楽観視できる問題ではない。
前回の事例があるために焦らざるを得なかった。
彼女は毎度勝手に姿を晦まし、そのつど一人きりで問題を抱え込んでいる。
なにかあったのだ、と一人合点をしてしまい、ひたすらに心臓が早鐘を打った。
「いた、いたたたたた……」
「ど、どうした、あっちゃん。腹なんて抱えて」
「泰誠、見ての通り僕はとてもお腹が痛い」
「ああ、確かに顔色が物凄く悪いな。だが妙に嘘っぽいぞ」
「嘘じゃない。本当にお腹が痛いんだ。これは盲腸的な痛みだ。だから、始業式には出られそうにない。お前の口から先生にうまく伝えておいてくれないか」
「あ? それはいいけど、盲腸的な痛みって大丈夫かよ」
「大丈夫だ!」
「だ!」のところで僕はスタートを切った。教室から飛び出して廊下を走る。周りの人から怪訝に思われたに違いない。だが、疑われることなど承知の上だ。信頼のおける泰誠ならなんとかしておいてくれるだろう。
沙夜を探すべく、一階、二階、三階とそれぞれの廊下を回ることにした。どんどん不安が募っていく。
――『ごめんなさい~。今日の最下位は獅子座のあなた。大事なものが手元から零れ落ちていくかも』
まさかそんなはずがない、と思っている半面で占いの言葉が何度も頭の中でリピートした。自然と駆け足になる。
慣れない二年の廊下を全力疾走していると、曲がり角に人影がさすのが視界に映った。慌ててブレーキを掛けようと踏ん張ったが、惰性で身体が流れてしまい、その勢いのままぶつかった。
「す、すみません」
僕の頭に焦りがあったせいか、結構な勢いでぶつかってしまったはずなのだが、転んだのは僕だけだった。
その人影は僕と衝突したというのに微動だにしていない。僕の方にもダメージはそこまでなく、まるで柔らかなクッションに衝撃を吸収されたような印象さえあった。
人影から漂う柑橘系の甘い香りが僕の鼻を刺激する。
「あら? 始業式早々サボりだなんて、感心しないわネ」
妙な抑揚のある日本語が頭の上から聞こえてきて、僕の背筋は氷漬けにされた。
僕の予想が正しければ、声の主はこの学校において、唯一僕と沙夜のことを知っており、最も僕らが危険視しなければならない人物であるはずだ。
なんせ、僕らは彼女に――
――殺されかけている。
「お、大榎さん……」
そういいながら視線を上げれば、案の定、そこには“憑きもの殺し”大榎悠子の顔があった。
プラチナブロンドの長い髪。日本人離れした顔立ち。気品あふれる青眼。ハリウッド女優よろしく白く艶めかしい細い脚。
そんな彼女は目に優しくのないピンク色のスーツを着こなしている。これだけ派手なスーツが似合う日本人はどこを探しても、大榎悠子ただ一人だけだろう。また、足元には彼女が使役する憑きもの、犬神憑きの“あずき”がいる。
大榎が思いきり足を踏みつけてきた。
「いったーー!」
彼女は女性にしては背が高い。それでもって圧倒的な威圧感をまとっているためか、余計大きく感じてならない。踏みつけられた足と大榎の足の間にはスリッパがあったのだが、まるで機械に足を挟まれたような印象があった。
彼女は僕の学生服のえりを掴み、乱暴に手繰りよせ、耳元に唇を迫らせる。彼女の甘くぬるい吐息がかかった。
彼女のような麗しき美女と目と鼻の先まで接近する機会を頂けたのが、僕ではなく他の男子生徒だったならば天に感謝をしたことだろう。当然、僕の場合は喜んでいられる事態ではない。彼女の顔が間近に迫った時でさえ、僕の心臓は、「ドキリ」ではなく「ヒヤリ」とした。
「な、なにするんですか!」
横目で見れば、大榎の眼光は鋭く光り、僕は彼女の威圧だけで気絶させられるのではないかと、半ば真剣に危惧した。ぐっと息を呑む。
大榎は口元を歪ませて、わざと抑揚をつけるようにしていった。
「言葉に気を付けなさイ、藤堂敦彦。ここでは私の名前はマリア・フランクリンヨ」
彼女は、憑きもの落としの家系で育った憑きもの殺し、大榎悠子。マリア・フランクリンという偽名でこの学校の特別英語教師を勤めている。
外国人の特別英語教師というものは、一年周期で交代するものだと思っていたが、ここに彼女が存在しているということは、どうやら例外もあるらしい。
そもそも彼女は“僕を監視するため”に、特別教師としてこの学校に潜伏しているのだ。だとすると、僕が高校を無事に卒業するまでは永劫い続けるつもりなのだろうか。憑きもの殺しが組織的なものであるならば、それぐらいの情報操作などお手のものであるのかもしれない。
監視する理由というのは、他でもない、僕が莫大な妖力を所持した藤堂家の人間だからだ。僕ほどの妖力を誇った人間が憑きものを使役して悪だくみを企てれば、世の中はたちまち大混乱に見舞われる。だから、彼女は問題ごとが起こる前に解決しようと息巻いている。
そして、この間、目を付けられた理由というのは、世の中を混乱に陥れた小娘憑き、沙夜と藤堂家の人間が偶然にも巡り合ってしまったからだった。沙夜はいわくつきの憑きものであるわけだし、悪い気配がするものは早いうちに芽を摘んでおこうという発想ゆえだろう。
なので、沙夜が消えたこと。
ここで大榎悠子と遭遇したこと。
二つの出来事が重なったのが偶然だとは考えられない。
「……沙夜は、沙夜はどこです!」
僕は決然とした口調で問いかけた。しかし、
「はぁ? なんのこと?」
大榎悠子からは素のリアクションが返ってきた。
こちらの切迫さがバカらしく思えてくるほどの軽い返答だったので当惑させられる。
僕は地面を見つめ、しばし黙考した。
おかしい、彼女の性格から考えて、なにか嘘をいう時はあざけるように発言するはずなのだ。少なくとも今まではそうだった。
――『ジョークといっても、なにもなくして帰すわけがないじゃないのヨ。これからあたしたちは特・別・授・業。これで逃げていては男の風上にもおけないわヨ』
それに、彼女の性格からして、いずればれてしまうことをわざわざ隠したりなどしないような気がする。
しかし、それほどに大榎との付き合いが長いわけではないために、それだけの理由で、「沙夜がいなくなったことと大榎悠子は無関係だ」と断定するのは尚早というものである。
「とぼけないでください……」
ぐっと目に力を込めて問いかけた。
威勢よく言葉を放つのはいいが、僕は彼女に襟首を掴まれたままの間抜けな恰好をしている。赤子の手を捻るように始末される恐れだってある。しかし、臆している場合ではない。前回は後手に回ったことで沙夜を傷つけてしまったのだ。
今度はひたすら前進だ! そう、自分にいい聞かせる。
「知らないわよ。なんであの小娘憑きの行方をあたしが知っていないといけないの?」
「沙夜がいなくなったんです」
「だから、知らないってば、そういうの元来は警察にいうべきことよ」
「警察、ってふざけているんですか」
「とにかく、あたしじゃないって。登校中のどこかで落っことしてきたんじゃないの」
よく思い出す。校門をくぐった時には沙夜はすでにいなかった。
確かに沙夜が消えたのは間違いなく登校中のどこかだ。
となれば――。
「本当にあなたの仕業では、ない?」
「最初からそういっているじゃない」
大榎は心外そうに眉間にしわを寄せた。傍にいたあずきが「冤罪だ!」と訴えかけるように犬らしい声で「ワン!」と吠えた。その後、大榎がいわくありげに憫笑しながら、僕を掴んでいた手の力をゆるめた。
急に襟を放されたので、僕はなすがまま地面にしりもちをついてしまった。
「まあ、あたしを疑ってかかるのは殊勝な心がけだと思うわ」
倒れ込んだ姿勢のまま、大榎を睨みつけた。
「あなたは油断ならないですからね」
喧嘩腰になるつもりはなかったが、刺々しい口調になってしまう。
この間の一件で、沙夜を半殺しの目に遭わせたことを僕はまだ根に持っていた。決して許してなるものか。
「凄まじい敵愾心を持っているのはいいんだけど、校内ではもう少し謹んでくれないかしら。一応この学校でのあたしは『おしとやかな女教師』って設定になっているのよ。それにいっておくけど、今はまだあなたたちに手を出すつもりはないわ」
「今は、まだ?」
「そ、今はまだ。あたしはとりあえず見送りってことにしているから」
「それは、どうも」
「ただ、その調子で気をつけていた方がいいかもしれないわね。ここのところのあなたたちは、すっかり安心しきっているようだけど、もし複数でこられた場合、対処の仕様がないんじゃない」
「複数……?」
「だってそうじゃない。あの子はあなたを護ることに特化した守護系統の憑きもの。大変ねたましいことだけど、攻撃系統においては最高クラスのあたしたちだって無理だったんだもの、真っ向からぶつかってあれを打ち破れる憑きものなんてそうそういやしないわ。でも、“護る範囲は限られる”」
沙夜の力は妖力による攻撃をかき消す力だ。守護系統の道と呼ばれる。
守護の道は生半可な努力だけでは身につくものではない。例えば、相手の力が『1』の場合は『1』を、『100』の場合は『100』を――というように放たれた攻撃に見合っただけの妖力を防御の結界として注がなくてはならない。多すぎても少なすぎてもダメなのだ。計算が素早く、憑きものに関してのデータを暗記している聡明な沙夜だからこそなせる技だ。
そして、僕の莫大な妖力が彼女の力を後押しする。よって大抵の道を防ぐことが可能だ。
――最強の盾。
沙夜の力を目撃した大榎は、彼女の道をそのように称した。
ただし、いくらどんな攻撃でも防げる盾があったところで、背後から刺されたら終わりだ、彼女はそういいたいのだろう。
「でも、たかだか僕みたいな子供を大人数で取り囲むなんて、マフィアの映画じゃあるまいし――まさか」
「十二分に有り得るわ」
大榎はばっさりいい切った。
もし、また憑きもの殺しの連中が現れたら――想像するだけで悪寒がする。
それは死に対する悪寒ではない。
これから先、いや、きっと近い将来。憑きもの殺しに相対することになるだろう。僕の身に命の危機が及んだ時、沙夜はどんな対応をするだろうか?
過去に放った彼女の言葉が克明に再生される。
――『私は罪を償いたいんです』
あいつが生を諦めてしまうことだってある。
そして、そうなった場合、“とめる権利”が僕にあるのだろうか。
「精々気をつけることね」
彼女はそういいながら颯爽と踵を返した。体育館に続く渡り廊下を横断しようとしている。
僕は身体を起こして、立ち去る背中に問いただした。
「あなたはどうして、僕にそんなことをいうのですか?」
ずっと気になっていたことだ。
僕らのことを危険視している彼女が、僕らに助言する必要などないはずだ。なにか思惑でもあるのだろうか?
大榎はこちらへ向き直り、プラチナブロンドの髪を思う存分はためかせると、真っ白な歯を見せた。
「さぁ、あたしは気まぐれなのよ」
彼女の奔放さあふれる仕草を前にして、忸怩たることに胸がときめいてしまった。
“憑きもの落とし”の家系で育ちながら、“憑きもの殺し”という職に就いた。そして僕らを命を脅かし、殺すのをやめた。“気まぐれ”が彼女の性格を表すぴったりの表現であるように思えた。
妹の帰還、不気味なアネモネの存在、沙夜の失踪、そして、なりをひそめている憑きもの殺し――。
新しく始まる新生活というのは、誰もがここまで厄介なものなのか?
悩ましいイベントが盛りだくさんだ。
ただならぬ予感が頭にこびりつく。
沙夜を案じて背筋がそわそわし始めたところで、僕の携帯からメールが届いたことを知らせる着信音が鳴った。
すぐに携帯を開き内容を確認するが、本文の欄にはなにも書かれていなかった。その代わりそのメールには画像データが添付されている。
僕はなんの気なしに画像を開いた。そしてあまりの驚きに目玉が飛び出そうになる。
――なんだよこの写真!
僕の目に飛び込んできた写真には、にわかには信じがたい光景が撮影されていた。
その写真には、手足を拘束され、口をガムテープで塞がれた沙夜の姿が写っている。
場所はトイレだ。駅のトイレ……、いや、どこかの学校のトイレか。
その中でも異質である点が二つある。
まず一つは、沙夜がどうしてだか服を着ていない、つまり“真っ裸の状態で拘束されている”点だ。
そしてもう一つは、送信者の欄に“我が妹の名前があげられている”点だ。
肩から指先までの筋肉が急速に弛緩した。めまいがして、危うく携帯を落としそうになる。
――そういえば、間宵は沙夜と手をつないでいた。
よくよく思い返せば、あの時、沙夜は間宵に手を引っ張られていた――ような気がする。
なんのため? それは送られてきたこの画像が証明している。
駅前の駐輪場で僕が泰誠に気を取られているすきに――拉致したのか。
頭がぼうっとなった。
「う、うちの妹はなにをやっているんだ……?」
というか、気が付けよ、自分。