#49 ありがとうございます(敦彦)
七時間授業を終えて家に帰ってきた僕は、疲労感をぬぐおうとリビングのソファーにどっぷりと腰をおろした。そのまま適当にチャンネルを回してみたが、目ぼしい番組がとくになかったので、僕は電源を消した。
しばらく休んでいたのちに、そういえば、最近は料理をしていないなと思い至った。京子さんは今晩帰りが遅くなるらしいから、僕が作ってしまおうか、などと企む。
だいたいの料理が完成したところで、二階から間宵が下りてきた。顔色が明るかったので、僕は密かに安堵の息を吐いた。もし先の惨事により後遺症が残っていたら、あまりにも悲惨すぎる。
「体調はどうだ?」と軽く問いかけた。内心で吐いていた息が漏れていなければいいが――。
「うん。もうばっちし」
そういいながら間宵は元気さをアピールするように、腕まくりをして晴れやかな笑顔を僕に見せつけてきた。妹の思惑通りというか、僕が単純すぎるというか、少々悔しいけれど、そのあざとい表情に安心させられた自分がいる。
「ほら、今日は僕がご飯作ったから、そこで待っててくれ」
今日のメニューはご飯と味噌汁と麻婆茄子、冷奴。そして、沙夜の作ったたまご焼きだ。少しありきたりなラインナップだが、これが今の僕が調理できる渾身のフルコースなのだから仕方がない。
それにしても――沙夜に料理をさせておいて本当によかった。あれは僥倖だったのだろうが、僕らがしてきたことは無駄ではなかった。努力の成果を発揮するのは難しいけれど、努力して得た力が証明された時に、押しよせる喜びというものはたしかにある。
「うえ、お兄ちゃんの手料理」間宵は料理をしている僕を見るなり、喉を抑えるようにして、苦々しく呻いた。
「なんだよ。文句あるなら食べなくたっていいんだぞ」
「うそうそ、冗談。あーお腹すいた。まだかなー、お兄ちゃんの手料理」
「たく、兄をばかにするのもほどほどにしろよな」
「えへへー、たまご焼きは私が作ったんですよ」沙夜は自信満々な表情だ。
「へー、どれどれ」間宵は沙夜が持っていた皿から、たまご焼きの一切れをつまんで口に入れた。「あ、美味しいじゃん」
「まだ、食べちゃダメですよ!」
ちなみに、たまご焼きを作る技術に限っていえば、沙夜の能力はすでに僕よりも上で、端から端までふっくらした玉子焼きを作る技術を体得していた。
「京子さん、帰りが遅くなるから先に食べていてくれだってさ」
「りょーかい……」間宵はソファーに腰をおろしながら、気だるそうに返事をした。まだ、疲れが抜け切っていないらしい。大事を取って、明日も学校を休ませた方がいいかもしれない。
普段の間宵はソファーに座るとすぐにテレビを点ける。けれど、今日の間宵はソファーに座ったまま、じっとしていた。その態度が僕にはコミュニケーションを取ろうと意識しているように感じた。
「ところでさ……」なので、僕は口を開く。
「えー……?」
「お前……、アネモネのことはもういいのか? マリ……、大榎さんのところで暮らすことになったようだけど」
そのように何気なく問いかけた。おせっかいな話題ではあるとは気づいていた。間宵はそういう話題を避けたがる。へたをすれば、怒り出す恐れもあった。しかし、今日の彼女は癇癪を起こすことなく、平坦な口調で答えた。
「もういいもなにも、元々そういう関係じゃなかったんだよ」素っ気なくいうが、その目はどこか切なげだった。「……でも、うん、まぁ、寂しいっちゃ、寂しいよ」
「そっか……」
それもそうか。
僕はなにを当たり前のことを訊ねてしまったのだろう。
「だけどさ、もう二度と会えないってわけじゃないし、お兄ちゃんの学校に遊びに行けば、いつでも会えるわけでしょ?」
「学校は遊びに行くところではないけどな。まあ、いつでもこればいいさ」
「うん。でもね、しばらくはできるだけ会わない方がいいんだと思う。アネモネだって、私のことを考えて距離をおいてくれたわけだから、ちゃんと彼の気持ちも汲んであげなくちゃ」
“でき”のいい妹は、きちんと整理をつけている。
「主として……か?」
「そうだよ、“元”主として」
今だからこそわかる。彼女の気持ちが……。間宵は強がっているのだ。けれど、だからといって僕が指図する必要はない。それは間宵が決断することだ。焦らなくたっていい。僕は妹を支えてやれればそれでいい。味噌汁をおたまですくい、味見をしながら心の中でそんな自問自答をしていた。
「へえ、用心棒がいなくなったというのに気楽なものだな。あとになって心細いって泣き出すなよ」しんみりした空気が嫌だったので、むりやりに喉の奥から明るい声を引っ張り出して、コンロに向かったまま間宵を茶化した。
「そのことなら大丈夫だよ。だっていざとなったら――」
僕は振り返った。すぐそばに間宵がいる。
気がつかないうちに後ろに立っていた。
僕のことをじっと見つめながら、
間宵は屈託なく笑った。
「――お兄ちゃんが“つ”いててくれるんでしょ?」
その妹の表情を見て、笑顔を見て、なぜだか声が出なくなった。
胸の内から、心臓から、身体の中心部から、全てを支配するような痺れがほとばしり、全身の感覚が麻痺したかと思えば、身体が小刻みに震えだす。妹が助かったという実感、そして、それをも超越するくらいの精神的な快感が胸をえぐる。
「お、お兄ちゃん。なんで……泣いてるの?」
「な、泣いてない……。味噌汁が、目に入っただけだよ」
「え、どんな作り方したらそんなことになるのよ」
僕が流してしまった涙により、この場の空気が気まずくなった。作った料理を兄妹二人が協力し合って、食卓に詰めていく。その光景を沙夜に微笑ましそうに見られているのが気恥ずかしかったので、僕は何度か蹴りつけた。お前も手伝え。
食卓に全て並べ終えて三人が席に着くと、間宵はどこか照れくさそうにはにかみつつ、炊きたてのご飯を頬張った。
「あー!」すると沙夜が間宵に指を突きつけた。「間宵さん! ダメですよ!」
「……え?」
「ふっふーん、知らないんですか?」得意げな顔した沙夜が、両手をぱちんと合わせる。
「ご飯を食べる前には、“ありがとう”っていわなくちゃいけないんですよ」
そして――。
長い沈黙が流れた――。
「あり……がとう…………?」間宵が唇をふるわせる。
「そうですよ。感謝の気持ちを込めて、とりあえずいうんです。ありがとうございますって」
間宵はゆっくりと僕の方へ振り向いた。
「お兄ちゃ……」
妹は唇を結んで、今にも泣きだしそうな顔をしている。間宵とアネモネ、二人の間にどんなやりとりがあったのか知らない。「……行ってこいよ」僕がそのようにいうと、けたたましい音を鳴らして間宵は駆け出していった。
彼女が立ち去ったあとの食卓は散らかっていた。礼儀マナーなど、今日くらいはどうだっていいだろう。間宵の姿を無言で見送る。エールを送るように、胸の中で『頑張れ』と叫んだ。
「あれれ? 間宵さんはどちらへ?」
「ふふ、まだまだ、お前は未熟だな」
僕はずずっと味噌汁をすする。少しばかり味が濃すぎたか。僕も沙夜のことをいえない。まだまだ未熟だ。
「ふむう、人間という生き物はいまだに、わからないことだらけです」
「そりゃあ、無理もないよ。でもま、お前にもいずれわかるだろうさ」
「わかるでしょうか?」
「わかるさ、きっとな」
またしても僕が休んでいる間に、妹はスタートを切った。そうしてまた、果敢な妹は兄の何歩も先に進んで行くのだなと思うと、空しいような誇らしいような気持ちが押しよせ、結局は見守っているしかないのだと、割り切っている自分がひょっこり顔を見せる。
兄だからといって、先に進む必要はないのだ。
主だからといって、不当に威張っていいわけではないように――。
悪魔憑きだからといって、全てが悪い憑きものではないように――。
「それにしてもこのお豆腐、冷たくって美味しいですねぇ……はうッ!?」
「あははは、な、だからいったろ。冷たい方が美味いものもあるんだって」
「ババ、バカな! そ、そそそ、そんなことが起こりゆるのでしょうか!」
「あるんだよ。お前が偏った見方していただけだ」料理を完食した僕は箸を置き、どこかに思いを馳せながら、食卓に向けてとりあえずいった。「ありがとうございました」
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