#47 過去――これから――(アネモネ)
どうしてだろうか、無重力の空間に放りだされたかのように身体が軽い。現世のしがらみや重力から解き放たれた快感のままに、俺の精神は未知の世界へ突き動かされていく。早々に抵抗することを諦め、流れに乗っかり、安楽に身を委ねることにした。
俺はもうじき消えるのだろうか――。
これが死と対峙するということなのだろうか――。
怖くはない、むしろ、心地がいい。
今思えば、悪くのない生涯だった。
俺は悪魔憑きだ。生きていてはならない憑きものであり、相応の危険性があると俺自身、自覚している。人に苦痛を連想させ、不快な気分にさせる――そんな憑きものだ。
それでも――。
――『こんな所で行き倒れ?』
あいつは俺に手をさしのばした。
こんな時になって、素直な気持ちでいえることがある。
――俺はあの人間に恋していたのだろう。
あの人間を愛していたのだ。あの人間のことが愛くるしくて仕方なかったのだ。死んでいく今だからこそ恥じらいなくいえる。なんせ、それが隠しようのない真実なのだと、この期になってようやく気がついたのだから――。
どうして、生命の限界に瀕するまで道を使い続けていたのか。
なぜ、悪魔憑きとしての殻を破り、自分の命を懸けてまで人間を護ろうと思ったのか。
元来の俺の性格から考えて、それらの行動を取ることはありえない。
ずっと人間を莫迦にしてきた。虚仮にしてきた。
人間に裏切られるために、人間を信用しなかった。
そういった性質を持った憑きものだったはずなのだ。
そんな俺が変わったのは、予期せぬ力――例えば恋だ愛だのという謎めいた感情――が働いたからに違いない。
他に考えようがない。だから――恋していたのだろうという考えに帰着した。こんな風に筋道を立てて熟考しなければ、内面の感情に気がつけない、自分の鈍感さに嫌な気を起こす。
答えはわりと簡単なところにあった。五臓六腑、埋め尽くすように、ずっと前からここにあった。憎たらしいことに、この甘ったれた感情がいつの間にか俺の一部になっていたから、溶け込んでいたから、すぐそこにあることにも想像がつかなかったのだろう。
ずっとわからなかったことが、ようやくわかった。
だからもういい、納得ができた今、俺は満ち足りた。
心残りといえば、一点。
間宵はどうなった? 無事なのか?
聴覚が働かなくなる寸前、聞こえた、間宵の声。
――『アネモネッ!』
確かに、あれはあいつの声。
そうだ、無事だったのだ。
ならば、心残りはない。
本当に、なにもない。
筋肉を脱力させると、気持ちが安らいだ。
そのまま俺は、無心の彼方へ身体を委ねる。
…………――。
……――。
――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「………………は?」
――どういうことだ?
どう考えても死ぬと思っていた。助かる見込みなどないと考えていた。自分自身のことだからよくわかる。間違いなく、「死んだな」と思ったのだ。死の実感は思いの外、わかりやすいものだった。しかし事実は違ったようだ。どういうわけか何事も無かったかのように、俺は意識を取り戻せていた。
柔らかい布団の感触が俺の身体を包んでいる。違和感が全身に走る。身体を“横にした”のは久しぶりのことだった。
室内には柑橘類の甘い匂いが立ち込めている。働いているのは嗅覚と聴覚だけで、視野がまったく認識されない。目が開き方を忘れてしまったかのように、まぶたが腫れぼったい。
あとから次々に疑問が湧いて出る。先の戦闘で味わった痛みがどうしてだか、全て吹き飛んでいた。ここは死後の世界ではなかろう。俺は天国などというものは信じない。これはまがいもなく現実だ。
なのにどうしてだ。身体の痛みが引いている。……のみならず、道を使い始めてからずっと継続していた疲弊感がぬぐわれていた。そこから、さっきの出来事は全て夢だったのではないかという発想に至った。
俺は生まれてこのかた、夢を見たことがない。
眠ることがなかったのだから、当たり前だが……。
縁側を挟んで外の景色が覗けた。靄がかった視界は端から端まで黒く染まっている。もう夜なのか。おかしい。先ほどまでは昼だったはずだ。時間が飛んでいる。
もしかして眠っていたのか。これが眠るということなのか――。これだけ爽快なことを睡眠だとでもいうのならば、人間だけではなく、あの沙夜とかいう小娘憑きまでもが夢中になる気持ちもわからなくはない。
――夢か。
これまで寝たことのなかった俺には、どういった原理で不可解な映像が瞼の裏に映るのかがわからない。そのため、夢の規模などは想像もつかない。中には己が夢だと認識できないほど、長期の夢もあるのかもしれない。
どこからどこまでが夢だ?
空虚な思考を働かせる。間宵が助かったことも夢か? 日本に帰った間宵が兄の敦彦に本当の気持ちを伝えたことも夢か? それとも全てが、藤堂間宵と出会ったところから全てが夢だったのか? それならば、これほど残酷な夢はない。俺の頭では意識を占領するように、悲壮感漂う大人しげなあのメロディが流れていた。
「やっとお目覚め? 随分と長い間、眠っていたじゃない」
すぐ近くから聞き覚えのある声が聞こえた。未だぼやけている視界のまま、視線を横に流せば、そこに微笑みを口元に湛える大榎悠子がいた。覗き込むように俺のことを見据えている。柑橘類の甘い香りが広がっているのは、この女のせいだったのか。どうして、この女がここにいて俺を介抱しているのか、ことの成り行きが掴み切れない。
徐々に視界と意識がはっきりとしたものに変わっていく。天井に穴が穿たれていることに気がついた。障子や壁はぼろぼろに倒壊し、畳は無残に剥がれている。死神憑きの放った道のためか、至るところから焦げた匂いもする。ここは憑きもの殺し大榎悠子の屋敷だ。これら全ては死神憑きの攻撃によって、つけられた爪痕だ。闘いは本当に行われたということになる。
夢ではなかった。ならばどうして俺の身体は――。
「俺の傷は……どうして治った?」睡眠のせいだろうか、想像していた通りの声が出てこない。
「ふふ、やっぱり、相当効果があったようね。白雪姫にしては少々武骨だけど」大榎は訳の分からぬことをいった。
「どういうことだ……?」
「さあ……。とっておきの道を使ったのよ」再度問いかけてもいわくありげに笑うだけで、返答らしき返答はなかった。
「まあ、いい。なんにせよお前が俺を治療してくれたんだな」
「さあね」
この女の思わせぶりな態度にむっとなったが、いい争っても仕方のないことだ。助けられたというのならば、なおさらここで啀み合うわけにもいくまい。
俺はくたびれた身体をむりやりに起こし、周りを見渡す。どこにも間宵の姿がない。ひっそりと感じ取れるのは、閉じることすらままならなくなった障子から入り滲む夜気ばかりで、屋敷内に人の気配がない。
「あの子たちは、無事よ」
俺の視線に気づいたか、相変わらず勘の鋭い人間だ。「そうか……」
「夜も更けてきたことだし、未成年のあの子たちは帰らせたの。それに、そっちの方があなたにとっても都合がいいと思ったから」
「……すまない」
――恩に着る。
間宵が無事だと聞かされ、俺は安心していた。
俺は即座に柔らかい布団から立ち上がり、煤けた畳を踏みしめつつ、室内を立ち去ろうとした。やや身体に疲れが残っているし頭も思うように働かぬが、どうにかしてここを立ち去る必要がある。いつまでも世話になるわけにはいかない。そう思った。
歩き出したところで、大榎から声をかけられた。「あなた、これからどこへいくの?」
決めていなかった。だが、しかし――。
――一刻も早く去らねばならない。
ここから――。間宵のいる日本から――。
自分自身それがどこから湧いてくる使命感なのか計りかねたが、ただただ焦らされた。
「さあな、詳しいことはまだ決めていない。だが明日にでもこの国から出ていくつもりだ。もう、あの家にはいられない……」
「あら? あなたはあの子の命の恩人よ。あのお気楽な人たちは歓迎するんじゃないかしら」
あいつは、あいつらは、きっと歓迎するだろう。
だが、俺は――。
「ふざけるな、俺はあいつの恩人なんてものじゃない。こんなものはただの――」
――マッチポンプだ。
「知っていると思うが、悪魔憑きは憑きもの殺しに狙われる。俺がそばにいればあいつに災いを招く」
死神憑きほどとはいわないが、世の中で頭数の少ない希少種である悪魔憑きを、殺したがる憑きもの殺しの連中は多い。危険視し発狂したかのように向かってくる輩も山ほどいる。治安維持のために殺す、といえば聞こえがいいが、連中は珍しいものを殺すことが楽しかったり、人命を脅かす敵対勢力を早いうちに潰しておきたかったりとするのだろう。
実際それが正しい。この世には死ななくてはならない憑きものはいる。その考えは今でも変わらない。そういった暗黙の規律に、このそこはかとない怠さに、抗うつもりは毛頭ない。
あいつは――思いやれる人間である間宵は、それでも構わないというに違いない。それでも俺と一緒にいるというに違いない。あいつは――温かいのだ。それが俺の肌に合わないのだ。俺が立ち去ろうとする理由は、それだけだ。それだけだ。それだけ――。
いや違う。いい加減、自分に素直になるべきだろう。俺は大切な人間を傷つけたくないのだ。
それが――
――嫌なのだ。
全くもって莫迦らしい。悪魔憑きであるこの俺が、人間に対してそのような感情を抱くなど。
「あいつが死んだきっかけを作ってしまったのは――俺だ」
俺がいなければ、間宵が憑きもの殺しに目をつけられることはなかっただろうし、マリア・フランクリンが隙を見せることはなかった。すなわち死神憑きが覚醒することもなかった。そうだ、他人事のように思っていた因果の連鎖は、全て俺から始まっていたのだ。
「そうね。ついでにマリア・フランクリンが死んだのもあなたのせいよ」
「ふん、手厳しいな」これくらいばっさりいってもらえた方がすっきりするが――。
「けれど、自分の命を犠牲にしてまでも、藤堂間宵を救ったのはあなたよ。そのことくらいは誇りに思ってもいいんじゃない?」
不意の気遣いに困惑した。声色は、この女のものにしては不気味なほど優しいものだった。もしも俺が人間だったら、感動のあまりに彼女に飛びついていたりしただろうか。まさか――と、くだらない思考を打ち消した。
「まさにマッチポンプってやつだな。物はいいようだ」
「あら? いいじゃない、マッチポンプでも。もっともポンプが遅すぎてあたしの家は全焼に近いけれどね」焼けた屋敷を見回しながら、大榎はにやにやと怪しげな笑みを湛えている。「けれどやっぱり、あなたのやったことは正しかったんじゃないかしら? 大体の人は責任を放棄するなり、負い目を感じるなりして逃げ出すものよ」
「だからといって、俺が日本にいてもいい理由にはならない」
「あなたはそれでいいの?」
「いいさ。わけがわからないといった顔をしているが、理解されなくたっていい。俺は単に……“気まぐれ”なだけだ」
自分でいってから、その『気まぐれ』という言葉が性に合っているように思えて、悦に入った。「気まぐれ、ねえ」すると大榎悠子は、くすくすと音を立てて笑った。
「なにがおかしい?」気障ないい回しをしてしまったことに、若干の後悔をした。
「いいえ、なにも……」といいつつも、大榎は笑いをこらえている。
俺は今度こそはと、大榎から顔を背けて歩き出した。「とにかく俺は向こうに戻る。迷惑かけたな」
「あなた面白いわね。よかったら、“あたしのところ”にこない?」急な要求に俺は眉をひそめた。この女のいっている言葉の意味が理解できない。「っていうか、あたしの居場所はここだけどね」といい、もう一度けたけたと笑った。
「聞いていなかったのか? 俺は悪魔憑きなんだ。お前のことを利口な人間だと思っていたが……軽々しくそんな提案をしてくるとはな……。人間の給仕を雇うのとは話が違うぞ」
「ふふ、そんなの心配することないわよ。あたしの妖力はあの子たちと比べてしまえば微弱なものだけれど、二匹の憑きものくらい平気で使役できるわ。悪魔憑きだからといって例外ではないのよ」
「……そんなことをいっているんじゃない。俺と一緒にいれば、お前に危険がつきまとうことになると、いっているんだ。厄介な憑きものが寄ってくることもあれば、憑きもの殺しに命を狙われることだってあるだろう。マリア・フランクリンの二の轍を踏むつもりか?」
「あなた悪魔憑きのくせに人間を庇うつもり? 忌々《いまいま》しい藤堂家の毒気に当てられた憑きものは、みんな気持ちの悪いことをいい出すのね。厄介な憑きものも、憑きもの殺しも大歓迎。そもそも、あたし、どこの組織に与してないから、仕事の依頼もくそもない、なんちゃって憑きもの殺しみたいなものなのよ。だから厄介な連中が向こうから来てくれた方が、あたしとしても助かるわ」
そして、大榎は布団の傍らにあった、電卓の画面を俺の顔面めがけて突きつけた。見れば、その小さな電子モニタにはずらずらと、途轍もないほどの桁数の数字が並んでいた。「――というか、うちの屋敷の建て替え費、憑きもの殺しの代金。総じて億はくだらないわよ。これを藤堂間宵……もとい斉藤家に請求するというのも、一つの手だけど?」
「ふん、悪魔憑きを脅迫か。お前の方が悪魔じみている」
「ええ、脅迫は得意よ。そりゃもう本物の悪魔以上にね」
そして、嫌らしい笑みを浮かべる。「その分、あなたにはしっかり働いてもらうから、覚悟なさい」
「なぜだ。なぜ俺のような憑きものを――」
俺を仲間に迎え入れたところで、得することなどないはずだ。人間は妖力を消耗しすぎると疲弊してしまう。妖力は生命力でもあるのだ。二匹も憑きものを使役してなんの得がある。どう考えたって、合理的とはいいかねる。
大榎はじっくりと考え込んでいる。どうやら本人もよくわかっていないようだった。この人間の持つ複雑な人格を理解できていないのは、周りの人間だけというわけではないらしい。
「さあ、どうなのかしら。自分でもよくわからない。少なくとも、親友が生かした命を護りたいなんていい子ちゃんぶった考えはないわ。ただ一つわかっていることは――」
そこで大榎は、にっと笑って顔をよせてきた。
「――あたしもね、あなたに負けないくらい“気まぐれ”なのよ」
思わずため息が出そうになる。
全く――。この国の民は酔狂な人間が多い。
次回 ▷ #48 ちょっとだけずるい(敦彦)
日時 ▷ 本日か明日
残り三話。ちなみに――読み返していただけるとわかると思いますが、このシーンのために「気まぐれ」という単語が、二人の会話に多用されています。そういうところに注目して読んでいただけると、作者冥利です。歓喜します。




