#40 決戦前の決意と躊躇(敦彦)
正午過ぎ、大榎のいた町から電車で戻る。帰りの車両の中で町並みが見覚えのものに変わっていく。その光景の変化にやっと日常に戻ってきたかのような安堵感を抱いた。
コンビニで昼食を買ってから僕は家に帰る。玄関で靴を整え、リビングのドアを開けた。リビングにいつもどおり間宵はいた。置かれたソファーに深々と腰を下ろして、録画してあった連続ドラマを見ている。その横顔に不安の色は浮かんでおらず、むしろ画面を眺めて微笑んでいるようにさえ見えた。僕の存在に気がついた間宵は、振り向くことをせずに無感情な声色で、「お兄ちゃんおかえり」といった。「ああ、うん。ただいま」とだけ僕は応じる。
――なにかが変だ。ひょっとして、間宵はもう助かりたいと思っていないんじゃないのか。思えば、三ヶ月もの長い間、恐怖と闘っていたんだ。いつ限界がくるのかわからない恐怖にさらされながら生きているうちに、気が触れてしまうことだってあるはずだ。生死についての感覚が麻痺していても不思議ではない。まさかとは思いながらも、そんな考えが過ってしまう。
「ご飯食べた?」考えごとに没頭していた僕のすぐ後ろに、間宵の姿があった。やっと怒りが冷めたのか、僕に対して他人行儀ではなくなっていた。
「いや、まだ食べてない。お前はもう食べたのか?」
「まだだよ」
普段と変わらない間宵の態度。ひょっとすれば、動揺しているのは僕だけなのかもしれない。間宵は毅然とした表情を崩さない。とっくに覚悟を決め終え、取り乱していない妹の気丈さに感心するべきなのかもしれないが、僕はそんな彼女を見て、どうしようもなく、おぞましさを覚えるほどに――悲しかった。
「こっちこいよ。一緒に食べよう。ほら、コンビニで鍋焼きうどん買ってきたから」
「鍋焼きうどん? うーん、そうだね、久しぶりに食べたいかも」
僕と沙夜と間宵の三人が椅子に腰をかけると、アネモネがリビングに入ってきた。アネモネは無言で間宵の隣の席に腰を下ろす。
僕らは少しだけ遅い昼食をとった。京子さんは今日も仕事だ。日曜日以外、彼女が昼時に家にいることはほとんどない。隣にいる沙夜のようすをうかがった。好物である鍋焼きうどんを食べているのに、彼女の表情は暗かった。
「なあ間宵、最近なんかあったのか?」我ながら白々しいとは思ったが、聞かずにはいられなかった。
「え? なんにもないよ。どうして?」間宵の表情はほとんど動かない。箸でうどんをすくい、口に運ぶ。
「だって、ずっと元気がなさそうっていうか」上滑りする僕の言葉。話を聞くまで間宵の身になにが起きていたのか、気がつかなかったのに。そんな鈍感な僕が、心境を悟ったような言葉をかける権利などないだろう。「なんかさ……見ていてつらそうに感じるんだ」
「あはは、なにいってんの?」
なにごともなかったかのように僕をからかう間宵。そんな間宵の態度に憤りを覚えた。どうして平常心でいられるのか理解ができない。まるで、自分の命などどうでもいいと、いっているようなものだ。間宵はまったくぶれることのない淑やかな挙動で、ただ箸を扱う。間宵の表情も、身体も、声も、箸の先までもが、露聊かも震えていなかった。
もう少し焦れよ。もう少し怖がれよ。
もう少し、僕を頼れよ。頼ってくれよ。
なに悠長に飯なんて食べているんだよ。
憑きものの研究を途中で断念せざるを得ないんだぞ。
連続ドラマの続きを知らないまま、お前は死んでいくんだぞ。
なにもかもを、途中で投げ出さなくてはならないんだぞ。
中途半端が一番嫌いなんじゃなかったのかよ……。
もうじき、死ぬっていうのに――。
死ぬってことの意味わかってるのか――。
ここで疑問がわいた。これで――。これで本当にいいのか――。彼女になにも伝えないまま、死神憑きを討伐してしまっても、本当にいいのだろうか。そんなこと、今さら考えたってしょうがないのかもしれない。それとも、今だからこそ考えなければならないのかもしれない。その答えなき問いかけに心が揺さぶられる。結局、決断すらできず、僕の思考能力は深く考える前に遮断された。
僕は食器を洗いに立ち上がった際、さり気なくアネモネを僕の影に入れ、わざと箸を床に落とす。間宵に悟られないよう、アネモネと“思い”でコンタクトを取った。
『アネモネ、死神憑きの件だが、大榎悠子って憑きもの殺しに頼んでおいた』
『あの風変わりな人間か、それで?』アネモネは一切、不審な素振りをしない。
『明日の正午、間宵を連れて行く。だから、さり気なく間宵を誘導してくれ。理由はなんでもいい。そのメモに住所が書かれている。そこまで間宵をつれてきてくれ』
落とした箸を拾うふりをして、アネモネの足元にメモの切れ端をそっと差し渡す。アネモネは即座にそれを靴で隠した。
『任せたぞ』
『心得た』
アネモネに間宵を救う大義名分などないだろう。それでもアネモネは力強く返事をした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
昼食を取り終え、用件だけをアネモネに告げると、まるで間宵から逃げるように僕は自室に入った。毅然さを偽っている間宵の姿など、とてもじゃないが痛々しくて見ていられなかった。落ち着きすぎている間宵の態度がどうしても気になった。けれど明日に彼女の命運が決まるというのだから、今、なにをしても無駄なことだろう。己を励ますような言葉を、ずっといい聞かせている自分が情けない。
僕は椅子に座る。傾けたスタンドライトを照らし、沙夜に妖力を供給してやる。気を抜くと、口からため息がもれた。なにかをしていないと落ち着かず、そういえば英語の宿題が出ていたなと、鞄からテキストブックとノートを取り出す。ノートを開いて、シャープペンシルを握った。英文を何行か書き連ねるが、まったくはかどらない。書き写すだけといったシンプルな課題でさえも、片付けられる心境ではなかった。手を休め、虚空を見つめていると、知らず知らずのうちに空想の果てに思いを馳せている。
一人で背負いきれるものではない。気がつけば指先が震えていた。大榎が協力してくれることは心強かったが、だからといって安心している場合ではない。妹の命を救うための――無関係な人たちにまで被害が波及する恐れがある闘いを、明日に控えている。なにより、闘うということは、沙夜を巻き込むこととなる。僕はすぐ後ろにたたずんでいる沙夜に、背を向けたまま声をかけた。
「沙夜、僕はできるだけお前を使役したくなかった……。理由はわかるよな?」
考え込んだのちに、沙夜の口から言葉が返ってくる。
「……私のため、ですか?」
「いいや、僕のためだよ。僕は僕のために、自分の生活を守るために、お前を使役したくなかった。この平穏な日常を失いたくなかったんだ。だから、お前を使役しないのはお前のためだとか、そんな偉そうなことはいえない。いうつもりもない」
僕の言葉をしみじみと受け取って、沙夜は優しげな声色でいう。
「ご主人様はとても優しいお方です。あなたが望んだ未来は明るいものです。少なくとも私にとっては、なによりも明るいものなのですよ?」
「違う……。違うんだ、沙夜。僕は毎日、自尊心を守るために必死なんだよ。それだけなんだ。どうすれば自分を傷つけないですむか、そんなことばかり考えて生活している。誰かに情けをかけるのは全て、褒められたい自分のためなんだ。自分がまっとうに生きているのか、確認したい。それだけのために……誰かを思いやろうとすることだってある」
だから――時々見失う。自分の証明するためだけに闇雲になって、いつも空回りしてしまう。そうして、人を傷つけてしまう。両親が他界し精神の安定に抜き差しならなくなった僕は、沙夜と出会うまでの間、ずっと自分の周囲に殻を作っていた。間宵を突き放し、無感動な人間を演じた。すべては自分を守るために――。
「優しさの源は自尊心であると、私は認識しております」沙夜が口を開く。「感謝されることを目的として、人のために動けること。それのどこがいけないのです? 見返りを求めずに行動できるという点は、誰しもが見習うべき真摯さであるといいきれましょう」
「そうか……。そういってくれると気が楽になる」
僕は英単語をぼんやりと見つめた。こんなコンディションでいるうちは、集中できるはずがない。頭の中が心配ごとばかりで埋め尽くされており、知識の入る余地がないのだ。僕は大して書き込まないうちに、開いたノートをそっと閉じた。
「けど、とにかく僕は、大榎さんと闘ってからずっと、お前の心情をきいたあの日から、決めていたんだ。お前を危険な目に遭わせないこと。お前を自分勝手な理由で使役しないこと。それに――」
ぐっと目を瞑り、過去に自分がいった言葉を思い出した。
――『これからは、そんなこと心配する必要なんてないよ。僕は憑きものに詳しくのないただの学生だ。それに、あいにく愚か者だから、お前の利用方法なんて想像もつかないし、欲望は人よりもないつもりだ。だから、お前は普通の生活をしていればいいんだ。お前の生きたいように生きればいい』
椅子を回転させて、沙夜の方へ振り向く。
「――お前にこれ以上の罪を背負って欲しくないんだ」
沙夜の罪を知っていた。そして、彼女が夜な夜な泣いてることを知っていた。彼女の小さな身体は日頃から、罪の意識に苛まれ続けている。心身ともに傷つけられる沙夜の姿を二度と見たくなかった。だから――。
「自分本位なことでは、絶対にお前を使役しないつもりだった」
自分本位なこと。我儘なのだろうか。我儘なのだろう。けど――。けれど――。
「今回は――。今回だけは――」
僕は沙夜に頭を下げた。
「――頼む……沙夜、力を貸してくれ」
沙夜に心から申し訳ないと思う。そもそも彼女には関係のない話なのだ。どんな事情があろうとも、これは僕の私利私欲である。命を張って一人の命を救うという勇敢な決断ではない。大勢の人間を死の掛け値にして、僕は欲求を満たそうとしているのだ。間宵の命を救おうという我儘な欲求を。そんなことばかりを思い詰めてしまう僕に、沙夜が微笑みかけた。
「なにいってるんですか。やはりあなたは愚か者です。……当たり前じゃないですか。私はあなたの憑きものなんですよ?」
沙夜が僕の肩に両手を添える。部屋中にルクリアの香りが広がった。
「それと、ご主人様は勘違いされています。私はもうすでに生きたいように生きています。あなたのためならば、どんなことをするのも厭いません。いいえ、以前のように主だからという理由で盲従するということではありません。あなただからこそ信頼できるのです。あなたの願いは私の未来でもあるのです。ご主人様、どうか顔をあげてください。どうか一人で背負わないでください。間宵さんを助けることが罪だというならば、ご主人様が私の罪を背負ってくれた時のように、私も一緒に背負いますから」
「ありがとう……」僕は立ち上がって、もう一度頭を下げた。
「だから……、そんなつらそうな顔をしないでください」
衝動的に沙夜のしなやかな身体を抱きしめた。強く抱きしめた。なんて突発的な行動なんだろう。これではいつもと立場が逆じゃないか。
「……ご主人様?」
「……沙夜、お前がいてくれてよかった……」
「どうしたんですか、急に……」
「お前が僕の憑きもので、本当によかった……」
どうしてだろう、ここにいてくれる沙夜のことが、愛くるしくて仕方なかった。だから、思わず――本音が漏れた。僕は沙夜の姿に視線を送る。彼女は僕を見つめたまま、ツインテールを揺らした。
「それは――」
――お互い様ですよ。沙夜が笑った。
次回 ▷ 早くに! もっともっと早くに!(訳:次回は特に大事な話なので、慎重かつ迅速に執筆しようと思っております。投稿は明後日の予定とさせていただきます)




