#38 残酷な現実(敦彦)
学校を終えた僕は玄関で靴を脱ぎ、上り框にあがってしゃがみ込み、靴を整えた。こういった几帳面なことでもしっかりやっておかないと、あとで京子さんに叱られてしまう恐れがあるからだ。玄関には間宵の靴があった。ということは、彼女は既に帰宅しているらしい。
一度リビングによって京子さんがまだ帰ってきていないことを確認した。リビングの時計を見ると針は六時をさしている。六限の授業を終えたあと大榎に呼び出されたために、いつもよりも帰宅時刻が遅い。とにかく、今日中にアネモネにもう一度、話を訊いておく必要がある――そんなことを考えながら、鞄を頭近くまで持ち上げ、階段をのぼった。
階段をのぼり終えた時に僕は足を止めた。僕と間宵の部屋が向かい合って並んでいる廊下、間宵のプレートがかけられたドアの前でアネモネがたたずんでいたからだ。腕を組み、思案投首な姿勢のまま固まっている。この男が真面目くさった顔で考え事をしている姿は正直、かなり気味が悪かった。
「……おい」僕は足を一歩踏み出す。
僕の接近に声をかけられてはじめて気がついたというように、アネモネは目を細めて僕らを見た。この男にしては隙だらけな挙動だった。大榎の話が正しいのならば、こいつはなにかを知っているはずだ。僕は気持ちを落ち着けることができず、鞄を廊下のふちに放り投げ、アネモネに掴みかかっていた。妹のことがあるためか気が逸っているのが自分でもわかる。
「アネモネ。今度こそ、本当のことを聞かせろ」
「……藤堂敦彦」
そうして――アネモネの口から返ってきた言葉は予期していなかったものだった。
「お前に頼みがある。あいつを――藤堂間宵を救ってやってくれ」
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とりあえず、会話が間宵に聞こえないようにとアネモネを僕の部屋に連れてきた。アネモネは異議を唱えることはなく、黙々と部屋に足を踏み入れた。やけにずかずかと入室してくるなと眺めていたら、部屋の中心あたりで突然、前のめりの姿勢になった。不可解な行動に驚いた僕は咄嗟に身構えたが、彼に攻撃する意志はないらしく、頭を低くした姿勢で硬直した。というよりも、これは――。
「ど、どういうつもりだよ、アネモネ?」
「悪魔憑きが人間に頭を下げるなんておかしいか?」
「い、いや」想像だにしていなかったアネモネの行動に僕は調子を崩しかけたが、なんとか続く言葉を探し出した。「それで……。今度こそ教えてくれるんだろうな。本当のことを……。間宵は今、どうなっているんだ?」
「お前がどこまで知っているのか、それはわからないが、とにかく一つ確定している事実を伝えておく必要があるらしいな」
口元を指先でなでながらアネモネが周囲一帯に目を配らせる。僕の部屋の内部事情を観察しているのではなく、僕に事情を打ち明けるべきか、やめておくべきかで思案しているようだった。真剣すぎるアネモネの表情を見ているうちに僕の鼓動がどんどん速まっていく。嫌な胸騒ぎがするのは、悪魔憑きであるアネモネを前にしているからなのか、それとも――。
決心がついたのか、定まらなかった焦点を僕に結んだ。そして静かに口を開く。
「間宵は一度死んでいる」
「なッ!」
――なんだよ、それ! 激しい胸の高鳴りと共に、息を呑む音が身体のなかで反響した。思いもしていなかった言葉に頭の中が真っ白に変色し、突如としてなにも考えられなくなった。
「し、死んでいる……? 冗談……だろ……?」
「冗談なわけがないだろう。間宵はたしかに一度死に、そして蘇った。あいつは死神憑きに取り憑かれたんだ」
「蘇る? 死神憑き、取り憑き……。ちょ、ちょっと待てよ、アネモネ。それはおかしくないか……。だって、憑きものは、“憑きもの筋には憑依することができない”んじゃなかったのか? 膨大な妖力がバリアの役割を果たしているとかなんとかって理由で……。そうだったよな、沙夜」
「ええ、そうです。どんな憑きものであっても莫大な妖力を持った人間に取り憑くことは不可能です。しかし……死神憑きの道は別物なんです」鈍感な僕とは違い、沙夜はことの深刻さに気がついているようだった。憂いげなまつげをそっと伏せたまま、考え事に没頭している。
「別物?」僕は沙夜から視線を外し、今度はアネモネを見やった。
「ああ、その通りだ。あれは例外だ。契約だからな。いわば、あれは使役方法、道の一種だ」
「ご主人様……。この場合どちらかといえば、死神憑きに取り憑かれているというよりも、間宵さんは自らの意志で死神付きを半憑依させている、ということになります。そう考えれば、大榎さんが仰っていた、得体の知れない憑きものが間宵さんの影に潜んでいる、という話にも得心がゆくはずです」それだけいうと、沙夜はじっと僕を見つめ、眉根を垂らした。「すみません。私が間宵さんの異変に気がつくべきでした。憑きもののことを詳しく知っていながら……。迂闊でした。まさか、死神憑きが間宵さんの影の中にいたなんて……」
「沙夜……。お前のせいじゃないよ」これはどう考えても、僕が気がつかなくてはならないことだった。「アネモネ、それで? 間宵はどうして……死神憑きに取り憑かれたのに、どうしてまだ生きていられるんだ? それはお前が道を使っているからなのか?」
「その通りだ。やつが間宵と契約を結んだ直後に、俺が新しく契約を結んだ。道を封じる道。契約の上塗りという奴だな。間宵に頼まれた俺はしばらくの間、死神憑きの道を封じると――寿命を延ばすと約束したんだ」
ここで、アネモネがこの状況に陥ったいきさつを訥々《とつとつ》と話し始めた。死神憑きとはどういう憑きものなのか、アメリカでなにが起こり、間宵の身にどんな不幸が起こったのか、そのあらかたを語った。間宵は痛ましい現状を僕に悟られないよう、決して他言しないようにとアネモネに頼んでいたらしい。おそらく今度の述懐は本心であろう。
その話を聞きながら、僕の胸の裡に悲しみだったり、怒りだったり、様々な感情が芽生えていた。死神憑きのことが憎かったし、気がつかなかった自分に嫌気がさした。なにより、こんな窮地に追いやられてなお、強がっている間宵に腹が立った。
これらは全て悪魔憑きである自分の責任だと、話を締めくくるようにアネモネは言葉を結んだ。普段は猛々しい気性のアネモネらしからぬ、ぼんやりとした声色だった。
「わからないことがある」アネモネの言葉をさえぎって僕は口を開いた。「どうして、間宵はお前にそんなことを頼んだんだ……? こんなことはいいたくないけど……あいつは強がりで意地っ張りで勝ち気なやつだ。だから、あいつだったら、生の未練を断ち切って死を受け入れるはずだ。間宵は、そういう頑固な性格なんだ。それなのに……どうして……?」
「おい、そんなこともわからないのか?」
「……え?」
一瞬、アネモネの顔がどこか切なそうに見えたが、気のせいだったのかもしれない。もう一度視線をやり直した時には、普段通りのしかつめらしい態度を決め込んでいた。
僕は目を閉じて、間宵のことを慮ろうと想像を巡らせたが、思考に靄がかかったように彼女の気持ちがはっきりとしなかった。まぶたの裏に浮かぶのは、目頭に涙を溜めたあの日の間宵の顔ばかりだった。そもそも、僕は兄でありながら妹の間宵のことをほとんど知らずにいるのではないかといった心もとなさを伴いつつ、だんだんと自信が喪失していく。とにかく慚愧に堪えない思いが僕の心を蝕みつづけた。
「お前のいうとおり、あいつは――、己の原状を受け入れたんだ」アネモネが口を切る。「その上、俺に『生きたい』とも『死にたくない』ともいわなかった。……それらの願いや悲しみを呑み込んで、たった一言だけ、俺に懇願した」
「なんて……いったんだ?」
僕の言葉を皮切りに室内は沈黙した。窓を叩きつけるように吹いていた風の音がやみ、室内はしんと静まり返る。その重々しい空間の中で、低いアネモネの声だけが細く響いた。
「最期に……、お前に会っておきたい……と」
「え……」思わず、声をあげていた。気がつけば、次の間には拳を強く握りしめ、叫び声を発していた。「おいアネモネ! どうにか……、どうにかする方法はないのか! たとえば、僕が代わりに……! 間宵の代わりに……!」
「ご主人様……なにいってるんですかッ!」沙夜が悲鳴のような声を発しながら、僕を睨みつける。
「間宵の代わりに命を擲つつもりか? 無理だ……。そんなことでは納得しないだろう。契約を結んだからには必ず、どんな手を使ってでも間宵当人を殺そうとするはずだ。奴と取引しようなど考えるな。死神憑きは融通がきかない。お前だってわかっているはずだろう。奴らには奴らのルールがあるのだからな」
「だったら、どうすれば……いいんだよ……。間宵は……助からないのか……」
「助ける方法ならある……。とても縷々《るる》たる希望だが……」
「本当か!」発した声は上ずっていた。
「あることは――ある。しかし、“ない”。可能性は“ない”」
「かまわない! 話してくれ!」
「俺たちの手で死神憑きを――」
苦々しい顔をしながら沈思黙考した。再びこの場を支配する沈黙の空気と、心の中で荒れ狂う悲痛な感情。重たそうな唇をそっと開いて、厳然とした口調でたった一言、アネモネはいい放った。
「――……殺す」
アネモネの言葉を聞きとった時、胸が静かに鳴った。徐々に猛威を増していく暴風のように、識別できない感情がうねりをあげ、何度も反響し、鼓動の衝撃に胸が圧迫された。どんどん動悸が激しくなってくる。内面からこみ上げてくる緊張感に吐き気さえも覚え、息をつこうとするたびに、むせかえってしまう。僕は目頭を強く抑えて、どうにか崩れそうになった精神を沈静化させた。ぼやけた視界に映るのは、低頭するアネモネの姿だった。
「だからこうして俺は頭を下げている。俺のわがままに巻き込まれてくれないか……」
「お、お前……、間宵のためにそこまで……」
「あいつは俺の――主だからな」
アネモネの本意は伝わった。間宵を助けなければならないという義務感はあった。死神憑きに復讐したいという気持ちもあった。
けれど、妹のために憑きものを殺さなくてはならない――。
人間が生きるために憑きものを殺さなくてはならない――。
人間と憑きものの共栄を心から願う僕にとって、その現実は――
――なによりも残酷だった。
次回 ▷ 『憑きもの殺しの領分』
投稿日 ▷ 迅速に仕上げます(明日かな? 明後日かな?)
8幕 真相の噺 終
9幕 兄妹の噺 続
さて残すところ、あと3幕となりました。
ここまで本当に長かった。けれどこの3幕がまた長いんだ笑。
話数でいえば、あと十二話くらい。文字数でいえば、十万文字くらい。
自分でカウントして驚いたくらいに長いんだ笑。
三日に一話ペースで、なんとか十月中に完結させたいところです。




