#37 愛の夢(アネモネ)
クラシック音楽は素晴らしい。
不思議なものでこの旋律は、何年経とうが、何度リピートしようが、褪せることない感動を与えてくれるらしい。それらの感動は小説や映画ではなかなか味わえるものではない。音楽と絵画は芸術の象徴とするものだ。理由の一つとしていえることは、他の芸術作品には言語があるからではないかと俺は思っている。言語のある芸術では、自国の言語で演じられたものでなければ深い意味合いが通じない。違和感を生じさせないように変容して、自国の言葉に馴染ませたものになってから初めて大衆のもとに公開される。すると結局、でき上がったものは違和感だらけの芸術作品となってしまう。言語での伝達ゲームは思いの外、はかばかしくいかない。音楽や絵画という芸術の分野は受け手が誰であろうとも、ノイズの混じることがない純粋な芸術として成り立つのだ。
様々な楽器から織りなされる音色に意識を向けているだけで、波乱万丈な人生というやつに身を委ねている錯覚が起こる。心地よく、荘厳で痛快奇天烈、得手勝手であり、傲岸不遜、春風駘蕩たる穏やかさがあるように思えれば、時につっけんどんな対応がある。悪魔憑きであるこの俺が人生を語るなどおこがましいことこの上ないが、吹き抜ける風のような甘美な音の旋律が、凝固した人生の形であると捉えても差し支えないだろうと、そんな着想が頭によぎった。
平日の昼下がり、間宵の部屋に呼び出された俺は今、ベッドに腰をかけてクラシック音楽を堪能している。アメリカにいた時は、こうして間宵の部屋でクラシック音楽を聴くことは家常茶飯なことだった。兄に気をつかったのか間宵のいいつけにより、日本にきてからは屋根の上にいるようになった。彼女の部屋をこの時になって初めて見渡した。シックなベッド。白黒のカーテンにスチール製の勉強机。他の年頃の娘とは思えないほどの落ち着きを払った調度品でまとめられている。山のように積まれた本の多さには圧倒された。特にオカルト関連の本が多く並んでいる。
もともと、このように音楽をのんべんだらりと鑑賞する機会なんてものは俺の生き方にはなかった。基本的に屋外で生活していたし、俺の主となる利己主義な人物の欲望の充溢のために殺戮を繰り返していた。ゆっくりしている暇などなかったから、この世にこんな心地の良いものがあることすらを知らなかった。俺がこうしてクラシック音楽を好んで聴くようになったのは、いうまでもなく、新しく俺の主となった粋狂な人間、藤堂間宵の影響を受けたからだ。
間宵と同じ時を過ごすようになってから、人間らしい生活を送っているうちに、人間の生き方が大体わかってきた。否、俺が育ってきた向こうの人種、つまりは欧米人と違いがあるので、日本人独特の生活スタイルというべきなのかもしれないが。
彼らの人生は、円になるよう描かれた一本の線上を辿るように、同じ経路を延々と巡り続けるのだろう。日本の路線、(山手線というのだったか)それに似ている。この国の人々は誰しも、何度も何度も同じ箇所を行き来し、そして心安らぐ停車駅を探しているのだ。魚のように休むことなく延々と生きるために動き続けて、不安を抱えながら憩う場所を切望する。人によっては、早々に終着駅に辿り着く者もいれば、早々に理想を手放す者もいる。かたや死ぬまで探し続ける者もいる。この国の不気味なところは、路線から外れた異質な者を徹底的に排斥しようとする気質があるところだ。
忙しないルーチン。はたしてそれが人生の本質なのかと問われれば、客観的な意見として「やはり違うだろう」と答える他にない。彼らの生き方は傍から見ていてあまりにも凄惨だ。
日本人は日本人のルールで生きる。同じように生きることが良しとされ、統制をとって生きることが絶対だと望まれる。貧富の差を均し、ジェンダーを平等化し、出る杭を執拗に打ち続ける。「平和を維持するために高望みをするな。横一列になって同じ価値観を共有しろ。常に完璧な人間でいろ――」それらの定められたルールに悖る行為は罪業であり、非難の的となる。この国で生きる限り、決められた環のうちから、永遠にはみだしてはならないのだ。
すなわち――平和といえば平和なのだ。けれど倫理観が高いゆえに自分と違う人間が存在することを信じない。異質な者を見てあざ笑ったり、異常に恐れたりする。そこのところは憑きものの世界に存在するルールとよく似ている。
だから――。
だから。俺は――。
あれから、あの日から幾度も後悔していた。
あの日、どうして、さっさと見限らなかったのか。
あの日、どうして、とっさにあんな真似をしてしまったのか。
俺のしたことといえば、いずれ死に至ることを実感させる猶予期間を間宵に与えてしまったことだけだ。死神憑きに一度殺され、延々と続くはずだったが世界が突如として遮断された。その時点で、たとえ“生きているにしても間宵は生きる資格を失ったこと”になる。どうせ助からない命ならば、死の実感なんてしない方がいい。この世で生きる生物は、みな、死ぬと決まった時にぽっくり逝った方がいい。
その決定したはずの死を、迫った魔手から一時逃れる方法を、諦めきれなかったのは誰だ。
間宵か――。俺か――。
わかっていた。わかっていたはずだ。
切り離された路線の断片で生きていくこと。先の見えた人生の道程を辿ること。この国で生きる者にとって、それほど惨いことはない。
間宵の言葉がふと頭に蘇る。
――『ほんとはね……。こんなはずじゃなかったの……』
今までの俺は「胸が痛む」などという言葉の意味がわからなかった。胸の圧迫感にきりきりと痛みを伴いつつ、のたうち回るようなものではなく、他者の悲壮感から生じる同情、その心境そのものを顕す表現であろうことは想像がついた。あくまで概念的なものであり、物理的なものではないと信じ込んでいた。人間の戯言であり理解し得るものではないと思っていた。しかし――あの時、たしかに胸が傷んだ。物理的な痛みがそこにあった。
幾たび後悔してもやりきれないので、俺はおとなしくクラシック音楽に耳を傾けることにした。すべてを忘却するように意識を没頭させる。
この悲壮感漂う大人しげなメロディは、間宵が一番気に入っているフランツ・リストの「愛の夢」という楽曲だ。華やかな協奏曲を好みとする俺にとってピアノ独奏曲は退屈だった。第一楽章から第二楽章に入った時、突然、スピーカーから響いていた音がやんだ。ベッドに腰をかける間宵がリモコンでオーディオを停止させたようだった。
「ねえ」
間宵が俺の顔を覗き込む。不意をつかれミュージックを消された俺はやや不機嫌な顔をしていたかもしれない。
「もうじき……だよね?」
「ああ……そうなんだろうな……」
彼女の足元にある影が死神憑きの形を呈して、烙印のようにぼうと浮いている。それを見るたびに、俺は如何ともしがたい焦燥感に駆られた。俺がその影を注視していると、彼女はこちらを向いて笑った。恥ずかしいものを見られたといわんばかりに頬を赤らめ、わずかに首を傾げ、その姿勢のまま笑っている。
笑って――いる。
あの日以来、なぜ彼女は笑っていられるのだろうかと不思議に思っていた。人間は脆い生き物だから、本当につらい時、本心をごまかそうと無理して笑うのだと思っていた。だがおそらく、この笑顔は常人のそれとは違うのだろう。
――『どっちみち死んじゃうにしても前々から死に構えておいた方が、瞬間的な痛みは少ないような気がするわけ。心の整理もつけられるしさ』
あれは嘘偽りの言葉ではなかった。はじめから強がってなどいなかったのだ、この娘は。
強いのだ。
もし、間宵が強がりや恥じらいなどを無視して動けるような人間だったら、俺はどうしていただろう。もし、「生きたい」と俺に泣きすがりついてきたら、俺はどうしていただろう。否、きっとどうもしていない。俺は人情がわかるほど、人間でいうところの“でき”た憑きものではない。言葉の裏に隠された感情を慮れるほど器用な憑きものではないのだ。
これは諦めか。憂いだろうか。
諦めだろう。憂いだろう。
間宵がこちらを向いて、微笑んだ。
「ありがとね。わたしのために」
――ありがとう?
「どうした、あらたまって」
「いや、だって、アネモネがそこまでしてくれる必要なんてなかったじゃない。約束の三ヶ月はとっくの昔に過ぎてるよ」
「ふん、構わない」
「前にも聞いたけど、どうしてまだわたしといてくれるの? 日本に来て、お兄ちゃんに会うまで、命を長引かせてくれるだけじゃなかったの?」
「前にもいったろう。悪魔は“気まぐれ”なんだ。死神と違ってな」
「死神は違うの?」間宵はそういい、自分の影を一瞥した。
「違う。こいつらは格式張っていて堅苦しいんだ。だからユーモアのセンスがない。かけらもな」
「ふふ、アネモネがユーモアを語るとは。変なの」
言葉のやり取りが終わると間宵はオーディオを操作して音楽を再開させた。何事もなかったかのように、安寧なメロディが一室を支配する。
まだ――笑っている。
まただ……。
俺を俺とたらしめている殻が音を立てて揺れる――。
この感情はなんなのだ――。
鼓動が鳴る。
どうするべきだ。
頭に雑念がよぎる。
お互いの身体は、もう限界に近い。これ以上道を使い続けていたら、俺までも死んでしまうかもしれない。自分のことだからよくわかる。
助ける。無理だ。なぜだ。勝てる見込みがない。そもそも俺とは無関係だ。所詮人間なんぞ切って捨てるべき存在だ。これまではそう考えていなければ生きていられなかった。そのように心を捨て去り、悪魔らしい悪魔憑きとして生きていくこと。そのために被ることを余儀なくされた仮面。それこそが俺の心を覆っている悪魔憑きの殻。
部屋に染み込んだ反響。耳にまとわりついた残響。やけに重低な鼓動。
気がつけば俺は立ち上がっていた。ベッドの弾力に持ち上げられたのではなく、俺の意思が俺の身体をそうさせたのだろう。つられたように間宵も立ち上がった。物理の法則に従ったシーソーさながらの挙動だった。そちらへ振り向けば、彼女は不安げな顔をしている。
「どこいくの?」
なんて物悲しいそうな顔をしているんだ。莫迦な。見捨てられるとでも思ったのか。
もう少しだけ――。もう少しだけ――。
「ああ、外の風でも吸いに……」
「そ。いってらっしゃい」間宵は小さくため息をついた。
そっとドアを閉めた。背もたれにし、ふうとひと呼吸つく。
久々に逃避したい衝動に駆られた。全ての億劫をほっぽり出して、この場から逃げ去ることができれば、どれだけ気楽に生きられるのか。己の首を掻っ切る爪牙にも成り得るこの不安定な感情を背負って生きるくらいならば、憑きもの殺しに狙われていたあの頃の方がよほど楽だった。そうとさえ思えるほど、俺の心は荒んでしまったのか。あいつが死ねば、きっと静かな夜になることだろう。
俺は腕を組んで目を瞑る。思考を遮断させるように頭の中では、未だミュージックが鳴り続けている。華々しい楽曲ではない。聴けば聴くほど哀愁感を増幅させるあの曲だ。今の俺にとって据わりの悪い不快な旋律だった。
どうかしている。
どうすればいい。
なにをすればいい。
なにができるというのだ。
悪魔憑きとして――。
否、俺は俺として――。
憑きものの長とも呼ばれる死神憑き相手に、悪魔憑きなんぞができることなどない。人間たちにルールがあるように憑きものにも定められたルールがある。はみ出しては生きていけない領域がある。
脆弱な心だ。
軟弱な肉体だ。
虚弱な頭脳だ。
俺はあいつの最期に――
――なにをしてやれる?
そんな時、床が揺れた。何者かが階段をのぼってくる足音。
「……おい」
俺は顔をあげる。廊下の端。
そこに――藤堂敦彦が立っていた。
この男らしからぬ鋭い眼光で俺を睨みつけている。
「アネモネ。今度こそ、本当のことを聞かせろ」
明晰とした声色でそう告げると、俺の胸ぐらをつかんで、壁に叩きつけてきた。俺は払いのけることをせず、ただ、口元に微笑を湛えた。ふと頭にちらついた幽けし光明を、上手く胸裏に隠しつつ。
――そうか。たどり着いたのか。
俺の口が動く。
「……藤堂敦彦。お前に頼みがある。あいつを――。藤堂間宵を――」
この感情の正体はいまだに掴めぬが、
「――救ってやってくれ」
俺はあの娘が大切だ。
今はまだ、それを結論としてもいいはずだろう。
次回 ▷ 未定




