#35 そうしてわたしは――(間宵・回想⑥)
肩にぶら下げた青色のヘッドホンが歩行のテンポに合わせて揺れている。厚地のジャケットを羽織って、大きな通りに出たわたしはまっすぐと歩いていく。呼吸するたびにこぼれる息は白く、街並みを綺麗なものへ彩っていきます。季節は秋から冬へ移り変わりました。穏やかであるサンフランシスコの気候は、冬場でもあまり冷え込むことはありません。
アメリカでの暮らしも残すところあと二ヶ月ばかりとなった二月初旬のある日。爽快な気持ちに後押しされるように、わたしはマリア・フランクリンの家へ向かっていました。
アネモネから何度も彼女には会うなと釘を刺されていましたが、彼の目を盗んで時々訪問することがあります。
――『あいつには近づくな』
彼の言葉に一応従うことにしているので、マリアさんと顔を合わせる頻度は格段と低くなりました。そういう事情もあってなのか、わたしが訪れると彼女はいつも嬉しそうな顔をしてくれます。
このようにして今わたしが外出できているのは、今朝起きた時にはアネモネがいなかったからです。アネモネは時々、わたしが起床するずっと早くから、遠くの地に足を運ぶことがあります。その理由は彼の命を狙う人間に居場所を探知されないようにするためではないかと、わたしは勘ぐっています。
広い道を進み、高いビルが乱立する街並みに足を踏み入れました。
もう少しで着く。わたしたちの家は歩いていける距離にあるのです。
そんな時――。
「ミス、トウドー……」
背後から名前を呼ばれる。わたしは振り向きました。この時、眉をひそめていたことでしょう。そこには黒いスーツに身を包んだ男がいたのです。重厚な衣服をまとっているため、見た目からは性別が不明確でしたが、低く、くぐもった声色から察してそれが男性であると、わたしは判断しました。
――誰だろう、あの人。
アメリカにきてからというものの、道端で名前を呼ばれるという経験がなかったので、無意識に反応してしまったのです。条件反射で振り向いてしまったことに若干の後悔をしていました。もうちょっとだけ用心しているべきだったのかもしれません。今更になっていいだしても仕方のないことばかりですが……。
「……なんでしょうか?」
学校での関係者である可能性も否定できないので、怪訝な顔つきにならないよう意識しながら、簡単な英語で訊ねました。その人はフードをたくし上げ、隠れていた顔を見せました。やはり男の人でした。口ひげをたくわえた彼は表情を和らげて紳士のような笑みを浮かべる。
――なんか、変だ。
それが作られた笑顔であるとわたしは一瞬で看破しました。
四十代と思しき男が目尻にシワをよせながら、一歩、わたしに近づいてきます。そして手が差し伸べられる。
「我々と一緒にきてもらおうか、ミス、トウドー」
わたしはあとずさります。この人に近づいては駄目だ、危険な予感がひしひしと伝わってきました。この男から漂う、アネモネと類似した不気味な雰囲気。熟考した末の結論は――。
――逃げたほうがいい!
怯えて鈍くなった両足を鼓舞させる。踵を返して懸命に来た道を走りました。広い道を駆けて、できるだけ人通りの多い道を探して逃げ込む。遠くへ逃げるふりをしながら家に引き返そう。それが今できる一番適切な判断であると、わたしは思い至りました。それが向こうの思惑通りであるということをつゆ知らず。
細く立ったビルの隙間に逃げ込んでから、そろそろ巻いたのではないかと、後ろを振り返る。けれど――。
「な……なんで……!」
わたしは驚きを隠せませんでした。男が先ほどと同じような姿勢で立っていたからです。荒い呼吸を吐くわたしとは違って、その男の息は全く乱れていません。まるで瞬間移動したかのように――。
「逃げても無駄だ。先回りさせてもらった。君がお世話になっている家に帰るには、この人通りの少ない道を通る必要があるということを知っていたからな。君のような若い子供の考えなど簡単に見破れる。行動パターンなど手に取るようにな」ふうとため息をついて両手を上げる。「逃げることはない、抵抗しなければ君に危害を加えるつもりはない」
その時、男の影からにゅるりと出てきたものがありました。体長三メートル以上はあるのではないかと思えるほど大きな動物……。姿は鼬とよく似ています。ですが、鼬にしては大きすぎる。あんな動物はみたことがありません。多分、憑きもの。その憑きものには特殊な道があり、男をここまで運んだのでしょう。わたしは頭を落ち着かせながら冷静に分析していきます。
男の口が開く。それは今までで一番低い声でした。
「……ミス、トウドー。……悪魔憑きはどこだ?」
――この人は……まさか、憑きもの殺し!
先ほどの憑きものの姿を確認すると、猩々緋色の模様があることがわかりました。そうです、あれは憑きもの殺しの印――。
間違いありません。アネモネがわたしの元にいることに気づかれたのでしょう。悪魔憑きである彼はこの世の中では生きていてはいけない憑きものなのです。だから憑きもの殺しのこの男は、アネモネを殺そうとしているに違いありません。
素直に答えるわけにはいかない。ここは白を切るのが得策であると考えたわたしは、虚勢を張って男と対峙しました。
「わたしは、なにも知りません!」
「勇敢なお嬢さんだ。しかし隠しごとをしても無駄だといっているだろう。どうやら影の中にはいないようだが……。ミス、トウドー。悪魔憑きをどこに隠した?」
「し、知りません……」
「とぼけても無駄だといっているだろう?」
「……」
表情を変えないようにわたしは唇を噛む。すると、対面にいる男が本性を見せるように怒鳴り声を上げました。
「居場所を教えろッ! さもなくば……」
男の右手が振り上げられ、その動作に連動するかのように体毛を奮い立たせる憑きもの。わたしを護ってくれる人はいない。わたしは目を閉じる。
――もうダメだ。
「……勝手なことしないでくれないかしら?」
――え、この声は……。
その通りの向こう側から歩いてきた女性。銀縁の眼鏡にブラウンベージュのポニーテール。見間違うはずもありません、それはわたしの友人、マリア・フランクリンでした。彼女はすっとこちらまで小走りで駆けつけると、男からわたしをかばうように立ちました。
「よかったわ……。なんとか、間に合ったみたいね」
「マリアさん……、これって……」
「ごめんなさい。どうやら気づかれてしまったみたい」
「マ、マリアさんのせいではありません。わたしが、無茶なお願いを……」
「私のせいでないならば、あなたのせいでもないわ」
優しくそういったのち、ちょっとだけ微笑みました。こんな窮地に立たされているのに、この人はわたしを安心させてくれる。
「ミス、マリア。どうして悪魔憑きのことを隠していた?」と男の声。
「ふん、いたいけな少女を“大勢”で襲うなんて感心しないわね。そんな卑怯なことばかりしているから周りから嫌われるのよ」
――大勢?
周りをよくみれば、わたしたちを取り囲んでいるのは、どうやらその男一人ではありませんでした。家の間。高い木の影。ビルの上。たくさんの気配がそこら中にあります。
黒服の男がマリアさんを睨みつけました。そばにいる鼬の憑きものが戦闘の意志を示すように両手を上げる。
「質問に答えろ。なぜ、悪魔憑きの存在を確認したのにもかかわらず、殺さなかった?」
「危険な憑きものを皆殺しにすること。それが本当に正しいことだと思ってるの? ミスタ、ケニアス」
「ミス、マリア。お前はミス、オオエノに似てきた」
「たしかに。感化されちゃったのかもね。最近ね、任務を終えたあと少しだけ感傷に浸ってしまう時があるのよ。……でも、あれは悪くのない気分ね」
「優しくなることが正義だとでも思っているのか?」
「厳しくすることだけが正義だと思ってるの? いい年こいて正義なんて幻想を後ろ盾にしているのね?」
「我々にそんなことまで考える必要などない。我々にとっては、上の命令に従うことだけが正義だ。残念だ。お前は優秀だった」
「ふふ、心外ね。今でも優秀かもしれないわよ。なんなら……試してみる?」
睨み合った二人。そして周囲からぞろぞろと現れた二十人ほどの憑きもの殺し。
そして……もう一つ。
「ふふ……」
不気味な笑い声……。
マリアさんの背後から現れた……影……?
――あれは……。
その憑きものには見覚えがありました。
マリアさんと初めて出会った日。見かけた小柄な少女。
その憑きものを一瞥してケニアスが、突然、張り裂けんばかりの叫び声をあげました。
「き、貴様! 悪魔憑きのみならず、“死神憑き”まで匿っていたのか!」
するりと一歩進み出そうとする、死神つきと呼ばれた憑きもの。そろりそろりと進み出る彼女の動きをマリアさんが右手で制します。
「出てきちゃ駄目よッ! マリーッ!」
マリーと呼ばれた少女は大人しく動きを止めました。少女が乱入しただけで、あたりに伝わっていく不気味なほどの静けさ。
「お、おい、これは、……重大な問題だ。悪魔憑きだけならば、まだ弁解の余地があったが、死神憑きを匿っていたとなると、ただではすまない」
「ええ、いいわ。こんな組織やめてやるわよ」
「ただで抜けられると思ってるのか?」
「まさか。私のことはどうでもいいけど、悪魔憑きとマリーだけは見逃してくれない?」
「無理だ。どんな見た目をしていようとも殺す」
「見解の相違ね。残念」マリアさんがケニアスを鋭く睨む。
「ああ、本当に残念だ……。お前の処罰の決定はあとだ。まずはその死神憑きを殺させてもらう」
「マリア……」か細い声を発しながらマリアさんに近づいた死神憑き。
「大丈夫よ、マリー」マリアさんは少女の髪を優しく撫でます。「あなたを危険な目に遭わせたりしない。あなたは私が……」
途端――。
わたしの目の前に飛び散った、赤い液体。
赤い……液体?
――…………え?
わたしの目の前が真っ赤に染まりました。死神憑きの手に握られた巨大な鎌……。
「マリー……どう……して……?」
すっかり衰弱したマリアさんの声。
「死んじゃえ……」
死神憑きが鎌を振り下ろす。
割れた眼鏡。
曲がったフレーム。
「マリア……さん?」
解けた髪型。
ブラウンベージュ。
そして、血だらけの……。
「……マリ……アさん?」
なにが起こったのかわかりませんでした。
わたしの眸に映った光景。血だらけで倒れたマリアさんと、不気味に笑う死神憑き。
「いやぁあああああああッ!!」
「まったく……」少女の口から発された不気味な声。男とも女とも取れないような――無機質な声。
小柄な身体であるはずなのに、空間を歪めるような威圧感があります。
「甘っちょろいたらありゃしませんね……。死神憑きであるボクが人間のいうことに従うはずがないでしょう」
「なぜだッ! どうして死神憑きなんて憑きものが!」
「ボクは妖力が尽きているところをそこの女に助けられました。従順なふりをしてうかがっていたんです。無防備な器がボクの前に現れるチャンスをね」
かぶっていたフードを取り払った。そうして露わになった気味が悪いほどに白い肌。
「や、やれええええ!!」
あたりに瞬いた光。少女と対立した人たちが一斉に道を使ったのでしょう。ですが、少女の身体へ攻撃が至る前に……。死神憑きが大きな叫び声を轟かせました。
「ギィァアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
――これはあの日と同じ……!
「……ああ、うう」
わたしは咄嗟に耳をふさぎました。少女の一声でかき消えた道。意識が薄れるもかろうじて無事だったわたし、叫んだだけで憑きもの殺しの三人ほどがばったりと倒れていく。いえ、きっとわたしが見えないところでもっと大勢の人が倒れたはずです。そのことを証明するような低く鈍い落下音が聞こえてきました。
「こんなところで、死神憑きと相対することになるとはな。全く……己の不運を呪いたくなる……」
「うっざいなあ。ピーピーピーピーと……」
ケニアスに向かって、死神憑きがふらりふらりと歩みよる。
「動くなッ! 貴様は大人しく、我々に殺されて……」
「ボクがあんたらのいうことに従うとでも思ってやがんですか?」
「従うつもりがないのならば、我々は勝手に殺しを遂行するだけだッ!」
ケニアスが声を張り上げると巨大な鼬の憑きものが突撃した。音を立てるほどの凄まじい速度です。しかし、死神憑きマリーはいとも容易くするりと避けて、二三歩ステップを踏んでから空を飛びました。そのまま駆け巡るように空を浮遊する。
「興味がないんですよ。あんたらみたいなド三流には。ボクが興味を持ったのは……」
ちらりとこちらへ振り向く。そして少女は意味ありげな微笑を湛えました。
「ちくしょうッ! ……やけに元気じゃないか! 貴様、マリアの妖力を吸い取ったのかッ!」
「ええ。咄嗟のことだったんで、契約を結ぶことはできませんでしたが……。しばらく動ける分の妖力は確保しています。少なくとも、あんたらを殺せるくらいの妖力はね」
「我々の人員から、新しい“住処”を選択するつもりか……?」
「だから、あんたらには興味がないって、いってるでしょうよ」
マリーと呼ばれた不気味な憑きものは、背丈よりも大きく肥大した鎌を振り上げて、空にかざす。そのまま、大きく空気を薙いだ。
「なんだこれは……!」
旋風が吹きすさび、木々がざわめき、その動作に合わせて、十五人の男たちを取り囲むように生成された六本の槍。それらはまるで檻のように男たちの行く手を阻みました。
直視できないほどの神々しい光を放っています。包囲の外からわたしは目を細めて、そのようすを眺めていることしかできませんでした。
逃げるのならば今のうち。それはわかっているのです。しかし逃げようものにも、足が地面に張りついてしまったかのようにまったく動きません。ただ、凄まじいほどの熱気が立ち込めていることに、激しいめまいを覚えるばかり……。
「こ、こんな道……見たことがない……」
未知なる脅威との邂逅に、すっかり色を失ってしまったケニアス。
「た、助けてくれ!」別の男が騒ぎ出す。
「おい、弱音を吐くな!」
「うわああああ、嫌だぁああああ!」
「平気だ! 取り乱すなといっているだろうがッ!」
ケニアスがメンバーの気概を統制しようと檄を飛ばすけれど、全く効果はなく、瞬く間に先ほどまであった秩序を失ってしまいました。死神憑きから伝わってくるのは、アネモネの苦痛を連想させる気配よりももっと酷い、まるで“死そのもの”を連想させるような、そんな悪寒。
「いいでしょう、三秒だけ時間を差し上げてやります。どうか死に物狂いで――」
その少女が小首をかしげる。
覗ける真っ白な首筋。
「――足掻いてくださいな」
青ざめていく男たちが覚悟を決めて、一斉に行動を開始しました。
包囲する槍を破壊すべく、幾度となく放たれる憑きもの殺しの道。しかし、その槍が折れることはありません。むしろ、妖力を吸い取って、ますます強度を増していくようにも見えました。
「……くそ! これは……! こんな、ばかな!」
「……3」
「は、早く! 守護系の道で防げッ!」
「嫌だあああ、死にたくねええッ!」
死神憑きの放つ異様な空気を肌身で感じて、段々と平常心を失っていく。混乱状態に陥った一人の男が、槍と槍との隙間を縫うようにして駆け出しました。
「駄目だッ! 引けえッ!」空気を裂くようなケニアスの怒号。
逃げ出そうと試みた男の身体が、赤白く光り輝きました。
「あ……、ぎゃあッ!」
六本の槍の包囲からの脱出を果たせずに、男の身体が血しぶきをあげて弾け飛ぶ。
「ひいぃいいいッ!」
「落ち着けッ! やれることをしろ!」
「……2」
カウントが減る。
「早くしろッ! 道をッ!」
「む、無理ですッ! こんな膨大な力をもった攻撃。計算することはおろか、防ぐことなん……ひいいいいいッ!」
「なんなんだッ! 無能どもめ! 貴様らは守護の道に特化した先鋭部隊のはずだろうッ!」
「こんな……状態で……冷静に対処することなんて……。とてもじゃありませんが……」
「……1」
カウントが減る。
「いいからやれえッ! 死にたくなければやるしかないんだッ!」
「は、はいッ!」
三人の男が守護系の道を使いました。しかし、形状を保っていたのは一瞬のうちだけで、即時に生成されたはずの大きな盾が轟音をあげて爆発してしまいました。守護系の道を使うには、複雑な演算が必要なのだと、マリアさんから聞いたことがあります。少しでも誤差があると、このように自爆してしまう、と――。
「ぐ……、あああッ!」
槍の包囲網に取り込まれた人たちの蒼白な顔。光を失った目。死を悟った顔。
もう、動く人はいない。
「……ぜーろ」カウントを終えた少女は残念そうに呟きました。「はあ……。妖力を奪い取るまでもありませんね。口先だけは達者なわりに、実力はこの程度ですか。……がっかりです」
――なにが……起きてるんだろう。
壁にもたれながらわたしは首を振る。何度も……。今、こうして理性を保っていられるのは、現実を未だに認められていないからなのでしょう。これが幻影ならば早く、早く消えて欲しい。夢だというなら、早く、早く覚めて欲しい。いつもの風景に戻って欲しい。何度も目を瞬いて現状を認識する。それでも変わらない。情景。光景。
「死んじゃえ……」
神々しい光が輝きを増していき、明滅を繰り返す。瞬間的に放たれた目が潰れてしまいそうなほどの光。わたしは咄嗟に目を塞ぎました。一瞬だけ聞こえた、憑きもの殺しの方々の叫び声。周りが静かになった。わたしは目を開けて、
――な……なにこれ。
こみ上げてくる吐き気をこらえました。あたりいっぺんの木々、先ほどまで騒いでいた男たち、すべてが津波に飲み込まれたように消し飛んでいたのです。振動も音もありませんでした。ただ結果だけが残ったかのように消滅していたのです。散り散りと原形を失った憑きもの殺し。わたしは決死の思いで頭を働かせる。喉がからからに乾いて、頭が真っ白で、悲鳴すらあげられない。
――なに? なにが……起こってるの。
現実世界のものだとは認められません。
次々と消えていった生命。こんなにいとも容易く。
――そして、次は……、きっと……。
痛みを覚えるほど心臓が高鳴っている。顔の筋肉が動かない。
――早く……。マリアさんを連れて……逃げなくちゃ、早く、早くッ!
空に浮いたマリーが首をぐるりと回して、充血した目がこちらに向けられました。
「やっぱり、あなた……。“いい器”を持っていやがるじゃないですか」
睨まれただけで硬直してしまい体が動きません。逃げようにも後ろは壁。身を隠せるような障害物はない。あたりを見渡しても、もう、わたしを救ってくれる人はいない。誰もいない。
横を向けば――。
「……逃げようとしても無駄ですよ」
「きゃあッ!」
――真っ黒い歯を見せて笑う、死神憑き。
間にあったはずの十メートルほどの距離を少女が一瞬で詰めたのです。
わたしは悟りました。
ここで殺されるのだと――。
歯ががたがたと震え出す。まぶたが痙攣する。膝が無意識に折れる。
もう、自分の意思では身体が動きません。
寒い。怖い。恐い。
「いやあああああッ!」
次の瞬間、腹部に走る今まで味わったことのないほどの激痛。視界をちらつく自分の血液。理解が追いつかないほどの速度で、吹き飛んでいく自分の体。痛い。痛い。痛い。
「あ……うう……!!」
わたしの身体がビルに衝突する寸前のところで、突如として現れたなにものかに支えられました。わたしを包み込む温かい風――。
「だから、あれだけあいつには近づくなと忠告したんだッ!」
「アネ…………モネ……?」
いつも平静としているアネモネの切羽詰まった声が遠くで聞こえています。目の前にいるはずなのに、遥か遠く。わたしの聴力がもうほとんど働いていないのでしょう。
「しゃべらなくていい。じっとしてろ」
「わたし……死ん……じゃう……のかな」
「しゃべるな……!」
「やだ……やだよ。助けてよ……お兄……ちゃん……」
両親が死んでからずっと表情を変えなかった。
兄としての責任感に押しつぶされそうになって、感情を殺した。
わたしも期待をしないようにしていた。けれど――。
――こんな時くらい助けてくれたっていいじゃない!
自分勝手な望みであることも承知しています。
理不尽な怒りであることも承知しています。
それでも――。わたしはきっと心のどこかで兄に期待をしていたのでしょう。
両親が死んでしまってから変わってしまった彼の性格。
わたしはずっと彼が変わってくれる日を望んでいたのでしょう。
――いつか……。いつの日か……。
――変わってくれたらいいな……。
――でも、もう遅いや……。
「お兄……ちゃ……」
「おい! おい、間宵ッ! 気をしっかりと持てッ!」
「ボクはね、その娘からあなたが離れる機会をうかがっていたんですよ、悪魔憑き。君だけはやっかいですからね。せっかくこれだけの条件が整ったというのに……。邪魔をしないでいただきたいものですッ!」
「なッ!」
風よりも早い、まるで光の速度で詰めよった死神憑き。わたしの身体に伝わる重たい衝撃。アネモネの身体が大きく傾いたのがわかりました。
「……ち、しまったッ!」
彼の手から離れて、わたしは落ちる。アネモネの腕から離れてしまい、二メートルほどの高さから地面に落下したわたしは、身体を地面に叩きつけられて身体を強打してしまいました。死神憑きが近づいてくる振動だけが、身体に伝わる。もう視野は真っ暗。真っ暗なのに揺れている。恐い。
「……痛い、よ……やだよ」
「ふう……。ようやくこの日がきましたか」
「いや……」
「では、あなたの身体を――」
近づいてくる。死神憑き。
肌を焼かれるような悍ましい感覚。
抗えるだけの体力がわたしにはもう残っていません。あとはただ死を認識するばかり……。
そうか、死ぬってことはこんなに怖くて、つらくて、寂しくて。
……空しいんだ。
「間宵ッ!」遥か。遠く。アネモネの声。
「――いただきます」
……。
…………。
………………。
わたしの胸元を貫いた……禍々《まがまが》しく黒い鎌。
ブラックアウトしていく頭の中の世界。混濁する意識。
意識が消えゆく寸前のところで様々な光景がまぶたの裏で再生されました。
ぽっと浮かんだ、アメリカで出会った数々の人の顔。
お世話になっていたグレゴリー家の方々の顔。
感謝してもしきれないほどの恩がある、京子さん。武史さん。
もう、見ることのできないマリアさんの顔。
温かい両親の笑顔と……冷めた兄の顔。
どこか切なそうな――
――アネモネの顔。
そうしてわたしは――
――“死んでいった”のです。
長らく更新ストップしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。
本日より再開いたします。やっと物語が動き出しました。再開する文章にしては少し重い!
次回 ⇒ 書き溜めがまったくありませんので、未定とさせていただきます。後味の悪いところで終わったので、できるだけ早く!




