#29 バカヤローーッッ!!!!!(敦彦)
窓のふちに足をかけながら、部屋の中へ身体を入れる。
僕がカメで――。間宵がウサギ――。
僕のようなのろまな身体では、妹に追いつくことはおろか、身を挺して護ってやることすらできない。間宵がどこか遠くに行ってしまうような想像をしてしまい、身体が震えた。
部屋に入るとすぐ、窓から身を乗り出して顔についた砂を払い落し、ゆっくりと窓を閉めてから、足の裏についた汚れをタオルで拭った。風呂にでも入りたい気分だったが、もう深夜2時を回っているためそういうわけにもいかず、仕方なくまた別のタオルで全身を拭いてから、カーペットの上で毛布にくるまることにした。
今日は――無力さばかりを痛感させられる一日だった。
憑きもの殺しに襲われ――、アネモネに情けを掛けられ――。
また、僕はなにもできなかった。
ゆっくりと目を閉じる。その瞬間、身体の上に何者かが乗っかってきた。
「な、なんだぁ……!」
溜まりに溜まった疲労のためか夜目が思うように働かなかったので、ふらふらと揺れ動くシルエットだけが僕の眸に映ることになる。大きなツインテールに華奢な身体つき――このシルエットは――沙夜のものだ。
やれやれ――。また寝ぼけているのだろう。
余力を振り絞り、彼女の身体を軽く払ってどかせようとしたが、思うように身体が動かず、なすがままに毛布の上から殴りつけられた。僕は懸命にガードを試みたけれど、無数の拳が降り注ぎ、どうしようもなかった。
沙夜にまで殴られることになるなど考えてもみなかった。
「いたッ! いたいッ!」
寝ぼけるにもほどがあるだろ、といぶかしんで彼女を見れば――――よく見れば、沙夜の大きな眸は両目ともしっかりと見開かれていた。
「くぉんの! バカたれ、ですっ!!」
「……え? おい! な、なにすんだ! やめ、やめろ!」
「バカヤローーッッ!!!!!」
勢いのまま、ガバッとマウンドポジションを取られた。生温かい彼女の太ももの感触が腰回りに走る。
なにが起きているのかわからず、困惑や興奮を通り越して恐怖していた。もしや、もう夢の中にいるのではないだろうか、とさえ思った。
その姿勢のまま、何発もポカポカと殴られるが、一撃一撃に重みはない。だが、満身創痍である僕の身体には、それでも結構身にこたえた。夢ではないようだ。
「……沙夜?」
殴打の嵐がようやく落ち着いたと思いきや、あろうことか沙夜は、股間部を右足で思いきり踏みつけてきた。
「はぐ! そ……それは……どんな格闘家でも少しは躊躇する攻撃手段だぞ……」
もの凄い形相を浮かべながら(きっとなっていただろう)、必死な思いで呼吸を繰り返し、身体の回復を待つ。
見れば、沙夜は無言で俯いていた。
ぎゅうっと唇を噛んでいる。
「……沙夜」
「はぁ……はぁ……。なんで……なんで……、勝手にどっか行っちゃうんですか……」
「……ちょ、ちょっと喉乾いちゃってさ。外の自販機で飲み物を……」
「へぇ! 窓から買いに行くなんて、ご主人様、随分と焼きが回りましたねッ!」
「そう。窓から……な……」
――もしや、ばれていたのか。
「ご主人様は私のことをなめすぎです! そのボロボロになった姿を見れば、なにがあったのかなど、おおよそ察しがつきます! アネモネさんのところに行ってきたんでしょう? 違いますか!」
沙夜にまくしたてられ、僕は息を呑んだ。
「……だって、そのこと知ったらお前止めるだろ……」
「当たり前です! 黙って見過ごせるわけがありません!」
沙夜はそこで一度言葉を区切り、その後すぐ、ずずっと鼻をすすった。
「ですが、間宵さんのことがどうしても心配だというのあらば、止めはいたしません。ただし、私も同行することを約束してください」
「ちょっと待ってくれ。僕は……お前をどうしても闘わせたくないんだ。自分勝手な欲求でお前を使役しない。それを決めているんだ……」
「決めるのは私です!」
「……お前を傷つけたくないんだよ!」
そこで沙夜はもう一度僕の身体を殴った。そのまま、ゲームセンターにあるボクシングのゲームを夢中でする子供のように何度も胸元を殴りつけてくる。
「ぼ、暴力はやめろぉ! お前をそんな子に育てた覚えは……」
「ふざけんなッ!」
部屋に鋭い怒声が響き渡った。
「……お、お前、キャラ変わってるぞ……」
「うるさい! 私を見くびんなよ! このペド男めッ!」
「沙夜……?」
ああ――。僕は思い出した。
それは僕が過去に放った言葉だった。
――『主の僕にごちゃごちゃと隠し立てするなッ! 見くびんなよ! 見くびんなよ、この痴女憑きめッ!』
少し、こいつなりに改変してあるが――。
そうか、こいつもあの時の僕と同じ気持ちなんだな。同じ気持ちでいてくれているんだな。だからこそ――。
「嫌なものは嫌なんだよ……。お前の気持ちはわかる。だけど、お前を巻き込みたくない。それだけは譲れない」
「で……でも」
「でももだってもないよ。全く……、憑きもの同士の戦闘ってなんなんだろう。僕みたいな人間は所詮、妖力を供給してやることしかできない。……お前ばっかり傷つくことになる。僕は毎回、きっと毎回、お前が傷つく光景をなにもできずに眺めていなければいけないんだ……。そんな戦闘になるなら、しない方がいい」
「ならば、私は一切手を出しません。だから、連れて行ってください……。ご主人様がやられている“さま”を私は黙って見て、そばで嘲笑っています、はい」
「う、うーん……」
――それはそれで嫌だが。
「確かに私は、ご主人様が傷つけられるのは嫌です……ですが……」
それだけいうと沙夜は口をしっかり結んで、顔を伏せたまま、僕を上目づかいで睨んだ。沙夜はもう――。
沙夜はもう――弱さを微塵も見せず、はっきりとした声でいった。
「内緒はもっと嫌ですッ!」
そこで僕は我に返った。まるで、どろどろと深い闇に飲み込まれていた感情が、優しい掌ですくい挙げられるかのようだった。
そうだった。内緒にされることほど悲しいことはない。
それを前の闘いで苦しいほど味わったはずだ。沙夜に隠し事をされて悔しかったはずだ。無性な怒りを覚えて、憤ったはずだった。その時の感情をすっかり忘れていた。
「ごめん……」
僕が細々と謝ると、わかればよし、というように満足げな顔で、沙夜は僕の身体からそっと退く。そして僕を見下ろして、ちょっとだけ微笑んだかと思いきや、ぐうっと口をへの字に曲げた。
「ご主人様は、いつもいつも、い~つ~も~、威張っておられますが、憑きものに関しては私の方が詳しいんですよ? そこをお忘れなきよう」
「ああ、頼りにしている」
正直にいえば、本当に頼もしかった。色々なつらいことが度重なった時に、頼れるものがいる喜びを感じ取った今、憑きもの殺しに嬲られた痛み、アネモネに殴られた痛み、股間の痛みなど――忘れた。
「詳しいことは明日話すから、今日はもう寝よう」
「はい」
そろそろ身体を休めようと横になると、即座に沙夜が背中に抱きついてきた。
「おい、もう寝るっていってるだろ……」
「また、抜け出されたら厄介ですからね」
張りついた沙夜の体温を背中で感じながら、妹のことを思った。
――『わたしの気持ちなにも知らないくせにッ!』
――『俺が悪魔だからだよ。お兄ちゃん』
――『そしてあいつは、いずれ死ぬ』
――間宵。お前、アメリカでなにがあったんだよ。
――『まだ猶予はある。運命に抗いたいのなら、自分の手でなんとかしてみせろよ』
アネモネの言葉を真に受けるならば、今ならまだなんとかしてやれるはずだ。そう信じていないと心が壊れてしまいそうで、とてもじゃないが眠れそうにもなかった。
とはいえ、なんにせよ――。
「ご主人様……ご主人様……」
「なんだよ……早く僕の身体から離れろ。いい加減に寝ないと、また体調を……」
「こんなにボロボロになるまで…………これ以上は、私が傷つけませんからね……」
「……なんだ……寝言……か……」
なんにせよ、寝返りを打つことも許されないようで、今晩はどうやら眠れそうにない。
次回 ⇒ 4/26
六幕 悪魔の噺 終
七幕 言葉の噺 続




